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感謝以外はマジでぜんぶ嘘 ・ 神よ、私を養いたまえ

起き抜けの祈りの中で

感謝以外は全部うそだ

という感覚がハートにやってきた。

それは優しい幸せなインスピレーションで、ひたひた存在を満たすような感覚だった。

感謝を感じてないときは

私は自分を神の子じゃないと思っている

でもそれは嘘や

神の子なんや

それ以外は、ぜんぶ嘘なんや


感謝だけが本当の感覚


それ以外は

わきあがる感情は出てくることを全てゆるしちゃっていいけれど

本当じゃないことを信じ込んで、その感情に電力を与えるのをやめる

そしたら、浄化が終わったら消える 通り過ぎる


本当のところに戻ってこよう

そしたら感謝が全身を祝福してくれる

感謝が私の名前だと思い出す。

………

【最近の赦しについて↓】

体調が悪いな
と感じる日が幾日か続いていた。

感謝の中に命を与えられて
感謝に泳いでいるような状態のとき
食事はあまり必要としていなかったんだけれど

ほぼ不食(微食?家族の残したものをつまむ程度)の日々の中で

桃子宛の贈り物だったパウンドケーキを、Sくんが空腹に任せて1本丸ごと食べ尽くす勢いだったのを、見咎めるというイベントが起きた。

「ねえ、もっと大事に食べてよ。
これはかずちゃんが丁寧にドライフルーツをブランデーに何日も漬け込んで作ってくれた、ちょっとしたケーキなんだよ。
空腹を埋めるための安価なスナック扱いをしないで欲しい。せめて切り分けて、静かに落ち着いて、お茶とか楽しみながら、時間をかけてゆっくり大切に食べて」

それに対して、Sくんは言った。

「桃子、食い意地張っとるな〜! わしに食うなってか」

私はそのときは彼の言葉を笑ってやり過ごしたが、
数日経って、だんだん「桃子」と同一化して
猛烈な怒りを体感し、体調が悪くなった。

(食い意地が張ってる?
わしは食べてないのに、こいつは何を言ってるんだ?!)

桃子がほとんど物を口にしていない生活を隣で見ていたにもかかわらず、
Sくんが自分のくいしんぼを正当化するためか、桃子に対して「食い意地が張っている」と数日にわたり繰り返しからかったのに対し、
「桃子」に同一化して被害者意識を選んだことが、トリガーになった。

彼に対して感謝を感じなくなったとほぼ同時に、「具合が悪い」「丹田に力が入らない」「フラフラする」と感じ始めた。
(食事の代わりに感謝を食べているような状態なんだから、感謝がなくなったら栄養がなくなって飢えるのは当然かもしれない)


桃子が不食をやり出してからも、出費にほとんど変化がなかったのも、彼を責める正当な理由のように感じられた。

つまり、うちの家計の出費の大半を占める膨大な食費は、元から8〜9割ほどがSくんのご飯代だったと明らかになったのだ。

「Sはみっちゃんのおやつまで食べ尽くそうとするくせに、ほとんど物を食べないで生活している桃子に対して『食い意地が張っている』なんて、どの口が言うんだ。三人家族の食費のほとんどがSの胃袋に消えているのに、本気で言っているなら神経を疑う。意地汚くていやしいのは、自分のほうだろ!」

そんな罵倒が、喉元までせり上がった。 

出てくるものは出るままに許そうと思って
朝のジャーナリングで、そのとき感じたことを書き散らした。

ふと、私の奥に「彼に『俺がお前を食わせてやってる』と言われたくない」という猛烈なプライドがあることに気がついた。
(マジで何回も出てくるこのネタ…)

食べ物がどうとかではない
「養ってもらっている(=感謝をしろと無理強いされたり、自由を制限されると感じる)」のがイヤなんだ!

不食のプロセスについては、確かに聖霊と一緒に体験していた。
しかし、それすら自我の目的のために利用しようとする企みが浮き上がってきた。

「俺がお前を食わせてやってる」と、
旦那さん(ひいては神)に、えらそうに言われたくない。

「養っていただいて、ありがとうございます」と兄弟に降伏して、たまるものか。
という思いだった。

「お前に食わせてもらってなどいない」と主張する、自我の目的のために不食をやったら、そりゃ具合も悪くなるだろう。

「神の感謝の中で満たされているから、胸がいっぱい。何も食べなくていい」と感じている状態と、
分離を前提としたハンストでは、明らかに目的が違う。

これに気づいて、呆気に取られた。




ストーリーレベルで振り返ると、私は学生時代以降、心身に異常をきたすほど無茶なバイトをやりまくってきた。

その主な動機は、「誰が食わせてやってると思ってんだ」という、父親からの経済力を盾にした恩着せがましさから逃れるためだった。
「養われている分際で」と言わせたくなかったんだ。

大学時代、「私はこの家にこのままいたら発狂して本当に死ぬ」という危機感で、必死に金をかき集めて家を出たことを覚えている。
地元だったので実家から通えたのに、無理矢理一人暮らしのために部屋を借りた。

近年、両親との関係は非常に柔和なものになってきたので、恨みを忘れかけていたけれど
(例のパウンドケーキを送ってくれたのも生物学上の母である)


これをきっかけに振り返ると
私はまだ彼らに対しての憎悪、「被害者としての正当性」を握っていたいのが見えてきた。

彼らを罪に定めることで、私自身を十字架につけるという選択をしている。

もうそれがしんどかった。


たかちゃんとのテレビ電話を皮切りに、親に対する赦しへと導かれた。
たかちゃんにも心を合わせてもらい、自分のこの知覚が誤りだと教えてくださいと必死で祈った。

電話を終えた後も、まだ「桃子」は文字通り長いこと泣き叫んでいた。

親への怒りに仮託した、神への怒り。

言いがかりだとわかってる。

でも、私をひどい目に合わせながら、
「養っていただいて、ありがとうございます」と降伏して、たまるものか。

お前が私を無条件に養ってくれたことなんてなかっただろ。

お前が私を無条件に養ってくれたことなんて、なかっただろ!

久しぶりに、こんなに叫びながら祈ったな。と後でしみじみするくらい、大きな声で助けを求めた。

「知的な理解はもう十分です。私が養われていることを体感としてわからせてください。『気のせい』レベルの癒し、永続しない曖昧な感覚は要りません。私は自分に与えることを許可します。神の愛を受け入れるために、私の心を癒してください。私が神の子であることを、本当にわからせてください…あなたが導くと言ったのだから、見せてください!!」


「無条件には養ってくれない父親」という影帽子は、桃子以前の「私」の分離の信念が投影されたシンボルであって
その役割を、今は一緒に暮らしているSくんがたまに思い出したように演技してみせる。

「食べない」ことを
「お前に食わせてもらってなどいない」
「養ってもらっていない」
と言い張るための道具にしようとする自我。

不食生活を、スピリチュアル的に特別なものとして見ようとしたがる自我。

何をやるか、やらないかではない。行為そのものに意味はない。

目的はなんなのか、それだけが大事だ。

(聖霊の目的のために、大食い選手権に出るフードファイターがいたって全然おかしくない。)

コーヒー飲むのとセックスする行為に序列の差が存在しないように、モリモリ食べることと不食に差はない。 

「霊的に特別なこと」という認識は、逆に「劣っていること」を必要とする相対的な認識だ。
それは序列の差を見ることだ。

「聖霊に導かれたこと」と、
「自己概念を維持するためにやること」は
もしかしたら行為そのものは、傍から見たら同じかもしれない。

ファンクションを自己概念維持に使うことも可能だし、SMプレイを聖霊の目的のために使ってもらうことも可能だろう。

何の目的によってそれが行われているか、という違いだけに注意を払いたい。

「Sくんに『食わせてもらってない』と証明するため」とか「霊的に特別な私を維持するため」
とか、自我の企みにまんまと力を与えっぱなしにしたくはない。

結局、この日の夜
少量ながら、久しぶりに家族と同じ食卓に着いて、家族の食べ残しではなく、きちんとご飯をいただいた。

Sくんに、神に養われることに、降伏しようと思ってご飯を食べた。

体に力が戻ってきた状態で、夜のミーティングに参加することができた。


ミーティングを通して、兄弟みんなのPresenceから、神の子の感謝感謝感謝が押し寄せる体験をした。

彼らの祈りの深さに、継続の意志に、神を求める強い強い心に、頭が下がる。


【誰も見捨てない】という決意を感じた。

聖霊の声だと思った。


感謝以外は嘘や。

神よ、あなたの目的に仕えると決めた神の子たち、全員を養いたまえ!

Jesusが私たちをここまで連れてきたのだから、家に連れ帰る義務を果たしていただきたい。

……

無職であるけれど、近いうちにお金が必要なイベントも予定している。

これについて祈ったら、下記の箇所を示された。

カースティンの本から
辛子種の信仰さえあれば、山すら動く


どうなっていくのかわからないけれど
全ての可能性に開いていたい。


神よ、私を養いたまえ!!!

私が私自身である神の子に、愛をじゃんじゃん与えることをためらわないように
私の心を開き続け、癒し続けてください!


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