神の子をもてなすこと
これよ、という感じなので書くこと
私は昨日はるかと繋がりながらファンクションをやり
その前日の晩はあすかちゃんとツールをやり、その後まきさんとも繋がり
兄弟たちに対して、「あなたにどんなに感謝しているか!」という言葉に出来ないような聖霊からの多大なというか巨大な感謝を、パソコン画面の奥からあふれるような波動みたいななにかを感じて思わず涙ぐんだりしたんだけど
不思議なことに兄弟たちの誰もそんなに聖霊から感謝されてることに対しての自覚(臨場感?)がなくて
これは2023年12月のギャザリングで感じたあの感覚と丸きり同じ構図だ、とわかった。
聖霊がどんなに多大な巨大な感謝を捧げてくれているか
捧げられている兄弟たち本人には、まったく自覚が薄かった。それどころか自分を責めていたりして、まったく意味不明な、コミュニケーションが全然成立していない状態というか、横で見てたら「???」となるような感覚に陥りました。
これは私にとってはとても不思議で仕方なくて、何が起きてるんだろうという感じなのだけども
もしかして、
私だって同じように、聖霊からものすごい巨大なあの感謝を捧げられているのでは、、、という気付きを得たことを、また思い出しました。
そこで、はるかと繋がっているとき
「あなたが私のことをどのように見ておられるのか、私にわからせてください」
と祈りました。
そしたら今朝は、
なぜかかわいい服を着てお化粧をして
「神の子をおもてなししよう」という気持ちがわいて、朝からビビンパを焼きました。自分用です。
私は普段、人にプレゼントしたり料理したものを振る舞ったり、人のお部屋を片付けたり人にマッサージしたりするのは結構というかかなり大好きなんだけど(仲のいい旧友たちは、大体ひと通り世話を焼かれている…↑お金を払うからあなたの足を揉ませてくれ、みたいなことを本当に友達に頼んだことが何度もある。お金は遠慮されたけどみんなマッサージはされてくれてうれしかった)
私自身に対してそんなに丁寧に己をもてなそうという意欲はなくて、というより今思い出したけどいわゆる「丁寧な暮らし」のYouTubeとかに虫酸が走る、みたいなアレルギーが以前はあったんだった。なんでや。
私はそんな、意味もなくおもてなしをされるに値しない存在であるから、
人に奉仕するのは全然いいんだけれど
自分がそれをいただくのは分不相応のような感覚があり、要するに大事に扱われると居心地が悪いのであった。
殺人犯が本当は牢屋に入って縛り首にされるべきなのに、フワフワのベッドでぐっすり寝ていいよと言われ、朝ご飯にベッドまでおいしいカフェオレとパリパリのクロワッサンを運んでもらい、メイドさんから肩もみしてもらってネイルケアまでしてもらい、「クレジットカードをあげるからなんでも好きなものを買いなさい。お昼はホテルのプールで遊べますよ。夜はテラスであなたの好きなカクテルをいただきながら花火を見られます」とか言われたら、
罪の意識と自分の待遇が釣り合わなさすぎて逆に発狂する、みたいな感じかもしれない。
アーーー
自分がそれに相応しいと感じているコンフォート・ゾーンに、わたしたちは居続けようとする習性があるそうだ。
さらにそのセルフコンセプトに沿って、世界の方が応えるみたいになるんだと。
だから、たとえば富豪の娘として大切に育てられた人が、人生の途中で災害とかで無一文の孤児になっても、彼女のアイデンティティのベースは「私は大金持ちのパパに愛されてるかけがえのない宝物」だから、惨めなままで死ぬことはない。
その人は自分のセルフコンセプトに沿った人生選択をし続けるので、最終的に「大金持ちのパパに愛されたかけがえのない宝物である私」に見合った環境に自分を置くことになる。
虐待の連鎖が起きるのはそれのネガティブバージョンで、仕組みは同じだそうな。
↑これは奇跡講座でなく、潜在意識とかの話になるんだけれども
罪の子としてのアイデンティティを手放し
神の子としてのアイデンティティを生きるなら
罪の子として居心地が良い「自分を虐める環境」を選択し続けていてはいけないんだな
罪の子として居心地が良い「わたしなんか」をやり続けていたらいけないんだな
神さまに降参するってことは
自分に優しくします、てことなんか。
神の子として生きるってことは
神の子としてもてなされることに慣れることを意味するから
あなたは大事にされて然るべきであり
まずは自分自身を大事にするんだよ
わかっているかな?
と
言われてるような感じがあります。
「ものすごいご褒美が待ってるから。
すさまじいよ。
これに浸れるんだったら、もうなにもいらんわ」
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