家に帰りたいーー映画「沈黙」感想
真我なるハートのオンラインリトリートでサイレンス(沈黙)を観た。
この映画はパードレ(神父)であるロドリゴと転び切支丹キチジローが、Mighty companionとして、互いに手を取り合って天国へと帰る話だったのだと感じた。
切支丹であることを頑なに否定していたキチジローは、みっともなくパードレに縋りついて、「I want to go home!」と土下座で叫ぶ。
その姿が、まるで「私を天国へ連れ帰ってください」という魂の叫びのようだった。私は映画を観ている間中だいたい泣いていたが、冒頭のこの時点ですでに大泣きしていた。
ロドリゴにとっては、キチジローこそが救い主だったんだと思う。
惨めったらしく何度も裏切り、殉教する者たちの信念を軽んじるような姿、許してくれと何度も厚かましく神に縋るプライドのなさ、それでもロドリゴが弱く打ちひしがれた時、最後まで敬意を持ってそばにいてくれたのはキチジローだった。
神父ロドリゴにとって「キリスト教者である自分」という正義を手放さないで殉教することは、自分のI knowを維持しプライドとアイデンティティーを保つことであり、ヒロイズムを満たすことでもあった。
命の危険を省みず日本へ渡った彼らは、世間の目から見ると勇敢だ。
彼らにとって、神のために死ぬのは名誉なことであり、自分の境遇を十字架上でのイエスになぞらえれば「神を讃える自分の正しさ、格好良さ」を満足させる道具になり得る。
「散華」という戦死を美化する言葉もあるとおり、信念や信仰に殉ずることは、日本人の一般的感性から見ると、筋の通った美しい在り方とされる。
しかしそれは「本当の意味で、完全に神の御前に降参すること」とは遠い。
降参したかに見せかけて、自己の栄誉を高めることになれば、「勝つ」ために使えるシチュエーションになってしまう。自我は信仰心や肉体の死すら、自己の欲を満たすために利用しようとする。
彼がもし殉教したら、世間は彼を称え、信徒は彼を尊敬し、教会は彼を聖人扱いしたかもしれない。今なお記念碑の残る多くの殉教者のように、彼は崇敬の対象となっただろう。
しかし、ロドリゴに与えられたのは、殉教による尊敬や栄誉ではなかった。
彼に与えられたのは、生き延びて惨めに罵られ、馬鹿にされながら、自身の人生の思想信条の根幹であった「キリスト教」自体を捨て、生涯をかけて「敵」の命令に従順であり続けるというカッコ悪い試練だった。これは、外側から見れば「堕落」「惰弱ゆえに屈した」と思われる。信仰厚き立派なキリスト教徒でありたかった彼にとっては、死よりも辛いことだろう。自己を自己たらしめてきたアイデンティティーを否定することを繰り返し求められたばかりでなく、敵に名前を奪われて、見下していた日本人として生きなくてはならなくなったのだから。
彼はすでに世俗を捨てて神父として生きることで神に献身を示していたが、彼に与えられたカリキュラムは、修道者・神父としての立派な生き方で終わることなく、自分の敵の足元に惨めに敗北し、「神の証人として生きる自己」すらを完全に捨てることだった。
情報の流通が豊かになった現代では、観想生活を送るにあたり、特定の宗教宗派にこだわる必要はないと多くの人は知っている。
キリスト教神秘主義者と禅僧とヨギは、最初に入る門が異なるだけで、最終的には同じ霊的叡智に触れるのだから、少なくとも私にとって大した違いはない。
霊的直観に満ちた書籍は数多く存在するが、どれも同じことを別の言葉で述べている。それぞれの覚者の宗教的基盤や文化背景、薦める訓練のやり方は違っても、神を求める意識のたどり着く真理に相違はない。だからこそ奇跡講座はThe courseではなくA courseという表記になっている。
しかし、教義に執着し、特定の宗教といういわば外側の教えにとどまることを絶対としていたならばーー「教え」を「自分の正しさ」を主張する道具として振り翳すなら、自身の奉じるものこそが霊的真理に至るただ一つの道であるという正義感こそが、他者への攻撃的信念となる。
自分の信じているものが正しくて、彼らの信じているものは愚かで劣っている。
ロドリゴの心に、こうした傲慢さや攻撃性が微塵もなかったとは思わない。
映画の中で、浅野忠信演じる通辞が、パードレたちが長年日本にいても日本語をまともに話さず、日本人を下に見ていると憤って語るシーンがある。それに対して、ロドリゴは「自分は違う」と返す。だが、通辞のあの言葉はある意味事実であったと思う。
世界各国で終わらない宗教戦争は「私の神の正義」をぶつけ合うのでずっと結論が出ないように、自我は、攻撃的信念として「神の教え」を利用することができる。
奇跡講座を学習していると、自分の正義やI knowによって兄弟を見下したり裁く誘惑がそれはもう頻発する。
私の方がわかっている、あなたのやり方は間違っている、それはそういう意味ではない、説明してあげたい、教えてあげたい……
これらの「兄弟の上に立ちたい」という誘惑は、頻繁に現れる。
神様、今あなたが私に望まれることはなんですか
という祈り、
内なる静寂の一点である神の沈黙の中に、「今ここ」にとどまること、
その中で自然に発せられる言動以外のものは、自我による影響を受けているかもしれない。
自分を疑いすぎて自罰的になっては本末転倒だけれど、こと私自身に関しては、日常を送る上で自分の言動に(この言動の動機は何だろうな)という問を常に持つ必要がある気がしている。
+
映画の最後らへんで、ロドリゴはようやくキチジローに日本語でお礼を言うことができるほど、浄化された。
「一緒にいてくれてありがとう」
アイデンティティーの剥奪と社会的名誉の失墜、プライドが完全に粉砕され、惨敗状態になって、やっとロドリゴの浄化が一定の段階に落ち着いたと観ることができる。
憎んでいた兄弟に、感謝が捧げられるようになるまで、彼は打ちのめされる必要があった。真実、神を求める霊魂の熱意は、自己をそこまでして徹底的に神に捧げることを、心の奥では求めていたのだろう。
映画では内面について描かれていないが、彼が失意のうちに亡くなったのか、困苦を通して練られ、密かに神と共に在る目覚めの道を歩いたのかは神のみぞ知るところ。
現代において、肉体的にそこまでの試練を病気以外で課されることはなさそうではあるけれど、目覚めの道を歩むにあたり、精神的には地獄(暗夜)を通り抜ける事例を、数多くの先輩たちが語ってくれている。
語り口や体験されることの順序などは個々でバラエティがあるものの、
自我を燃やし尽くされ、「自己の死」の果てに神との合一を生きるという大筋は、どの人も通る道のようだ。
(バーナデットは強盗に3回遭い、車が大破し、何度も解雇され、愛する教え子たちから卵を投げつけられたとユーモラスな口調で書いていて、外的に見てもまあまあ大変そうに見える状況を経験したようだ。)
自分が今、道のどこにあるのか、私には判断することは全くできない。
判断する必要もないとは思っているが、たまにこの気違いじみた情緒不安定や底なしの淵に居るような絶望感が繰り返されることについて「浄化のプロセスとして闇が浮上しているのか、単に精神的に病んでいるだけなのか、どっちなんだろう」という疑いが湧く。
のり子さんに相談したら、「どちらでも同じこと。愛ではないものを聖霊に捧げ渡すだけ」というニュアンスの、明快な答えをもらった。
確かにその通りだと納得した。
神の御心のままになさしめられることを祈るばかり。
先に歩く多くの先人達の言葉だけでなく、共に歩くMighty companionたちが数名と言わず世界中に存在しているこの時代は、本当に恵まれた時代である。
私がどこまで神を受け入れることができるのか、まだわからない。神の愛の中に居続けていると、本当にわかるようになるかどうかは、まだわからない。
恩寵に感謝します。祈りを共にする兄弟に、心からの尊敬と感謝を捧げます。
どうか私の弱い心が、神のご意志と一つになり、神の御心を受け入れて、喜びの中で自己の死に向かい従順に歩めるように導いてください。
🙏
「兄弟(聖霊)、私を天国へ連れ帰ってください」
🕊️
キチジロー役の窪塚洋介さんのインタビューを後日読んだら、この映画についてこのようなコメントがあって興味深かった。