【ポルトガル語】: 伯葡語においてあまりにも定着している文法上の誤用表現
(5000字程度の長文な上、だらだらと言いたいことを書いてしまったので、
ご注意下さい!最後の方では日本語への「苦言」も呈しております。w)
まずはこちらの漫画を見てみましょう。
⇓
「Me diga uma coisa…(「ちょっと聞きたいんだが…)」)
「正しくは "Diga-me" だ」
「分かった。”Me desculpe”(すまない)」
「正しくは "Desculpe-me" だ」
「"Dane-se" (コンチキショー)」
「今度は正しい」
これは、
キャップを被った男性が
何か訊ねようとやってきたところ、
座っている男性が文法ミスばかりを指摘してきて話にならず、
キャップを被った男性は嫌になってしまい、
暴言を吐いて去ろうとすると、
その暴言だけは文法的に正しかったというものです。
それでは文法の誤用について解説します。
まずは
「Me diga uma coisa」ですが、
これは
訳にあるとおり「ちょっと聞きたいんだが…」という意味で、
英語に訳すと、「Tell me one thing」となり、
ブラジルではよく聞かれる表現です。
ところが、この表現の
「Me diga」(Me fala の場合も同様)の部分は、
代名詞の目的格が文頭にきている状態、
つまり
「Tell me」が「Me tell」になってしまっている状態で、
文法上、絶対許されない文型になっているのです。
次の「Me desculpe」(= ごめんなさい)も同様で、
ブラジルでの会話ではこのように、
もしくは
「desculpe」を「desculpa」に置き換えて
「Me desculpa」と謝罪する人が多いのですが、
これもこの文型では
英語で言うなれば、
「Pardon me」を「Me pardon」
と言っているようなものなので、文法的には間違なのです!
一方、
「コンチキショー」、「クソくらえ」といった意味の
「Dane-se」はというと、
「danar-se」という、
いわば「ざまをみる」といった意味の再帰動詞を
命令形にしたもので、
これは定型句なので、皆このまま使いますし、
目的格代名詞である「se」が
動詞の後ろに来ていることから
文法的には極めて正しいということになるというわけです。
※ ちなみに「再帰動詞」なので「自分自身」に返ってきますから、説明的に
和訳しようとすると「自らざまを見るような目に遭いやがれ」といった
ところでしょうか…。w
😅😅😅
現地ブラジルで
生活をしながら自然にポルトガル語を覚えた方などであれば、
「”Diga-me uma coisa” なんて表現、聞いたことないし、
”Desculpe-me”なら、どこかの教科書でなら見たことあるけれど、
そんな謝り方されたことない!」
とおっしゃるかもしれません。
また、「ほぼブラジル人」な方でも
「”Diga-me uma coisa" も "Desculpe-me"もきどった感じで、
アメリカ映画の吹き替え版でしか聞いたことない」
とおっしゃるかもしれません。
そう、
ブラジルのポルトガル語は
文法的に正しく話してしまうと、
周りに「きどっている」と思われて
嫌がられることが多いのです。
そのくせ
書いた文書となると、
文法に極めて細かくうるさいことを言う人が多く、
そのような文法上の些細なルールを
どれだけ知っているかが
書き手の信用度の目安になってしまったりもします。
要は、
ポルトガル語とは、典型的な(日本語とは真反対の)、
「本とは誰にでも書けるものではない」タイプの言語なのです…。
また、
ポルトガルやその他の欧州葡語圏でも
”Diga-me" を "Me diga" などと言えば、
上でも書きましたが、
"Tell me" を "Me tell" と言っているように聞こえてしまいますから
ブラジル葡語を学んだ方々はご注意下さいね!
❇❇❇
なお、
ポルトガル語全般にかなり精通した方でも、
「そうは言っても、欧州葡語の文書にも、
代名詞の目的格が動詞の手前に出てくるケースは散見される」
とおっしゃる方がいるかもしれません。
代名詞の目的格を動詞の手前に置くことは、
ポルトガル語の文法用語では ”próclise" と呼ばれ、
これはれっきとした文法的用法ではあるものの、
この用法を用いるにはルールがあるのです。
ポルトガルとブラジルでは少しだけルールが違っているので、
その中でも主な3つだけ紹介します。
まずは、
上でも触れた禁止事項、
つまり
・「目的格代名詞を文頭に置いてはならない」
(延いては、「命令文が目的格代名詞で始まってはならない」)
というものです。
これはここまで説明してきたことに該当しますので、
これ以上は書きません。
次に、
・「『que』や『quando』などから始まる接続文中の動詞に付く
目的格代名詞は、próclise にする(=動詞の手前に置く)」
というもので、
これは、
「Papai disse que me levaria ao zoológico」
(パパは僕を動物園に連れて行ってくれると言いました。)
といった文のことで、
ここでは「僕を」に相当する「me」が、
「連れて行く」という意味の「levar」動詞の手前に出てきます。
これは、「que」と「me」の間が空いていても、
この関係は変わりません。
⇓
「Papai disse que no final da semana que vem me levaria ao zoológico」
(パパは来週末、僕を動物園に連れて行ってくれると言いました。)
ちなみに
こういった「関係」が出てくる文を書いたり添削したりする度、
「う~ん...、これって古文の「こそ」&「あれ」の関係だよね~…」
と思ってしまいます…。
「ん?なんで已然形の『あれ』になっているんだろう?
ああ、こんなに離れたところに『こそ』があったのかぁ~!!」
って、感じ!( *´艸`) www
更に、
・「否定文では目的格代名詞を próclise にする(動詞の手前に置く)」
というものもあり、
Não a convidei à festa.
(私は彼女をパーティーに招待しなかった)
といった例文が挙げられます。
逆に「招待した」というのであれば、
・肯定文である、
・文頭が動詞である
といった理由から、
「Convidei-a à festa.」
が、フォーマルで正しい文となります。
しかしながら、
ブラジルの口語では、
当然ながら、こうは言いません!w
「-a à」と繋がるため言い難いということもありますが、
「動詞の変化形などにより主語が明確な場合は、その主語を省いて良し」
というルールを敢えて破ってまでも
「Eu a convidei à festa」
と言ったり、
ブラジルでは
普段英語の "you" のように使っているのが
本来の二人称単数形の代名詞である「tu」ではなく、
「você」( これは以前は昔の日本語の「貴様」のような敬称)
であり、それゆえ
動詞の変化も目的格代名詞も全て3人称のものを使う
というワケワカラン状況が常態化しているため、
上の
「Eu a convidei à festa」
という文を単体で見ると、
「私は彼女をパーティーに招待した」
なのか
「私はあなたをパーティーに招待した」
のどちらの意味か分からないため、
「話が通じる方が大事だから(☚ ごもっとも!w)
もう間違いついでに、もっと間違ってしまおう!」
と言わんばかりに
「Eu convidei ela para a festa.」
という人が大半を占めるのです…。
「a」の代わりに入った「ela」は
主格代名詞なので、
”I invited her" が
"I invited she” になってしまっています。
「à」が「para a」になっているのは
別に間違いではなく、
「前置詞の 『a』に定冠詞の『a』を付けた『à』の方がフォーマル」
というだけのことなのですが、
「para a」の発音は「prá【プラ】」となり、
そこに定冠詞の「a」が組み込まれていることに気付く
現地仕込みの学習者はあまりいません。
いやいや、
書けば書くほど
何がなんだかな話なので、
纏めますと、
・ブラジルのポルトガル語の口語では、
文法どおりに話すことは非常にダサいとされている。
・そのダサさを回避するべく、数多くの
「間違ってはいるけれど、かっこいい言い方」が産み出された。
・ところが、その「かっこいい言い方」には限界があったり、
そのせいで意味の取り違えなどが生じるようなこともあり、
それを回避するための更なる「方策」が産み出され、気付けば
いわば嘘に嘘を塗り重ねたような言語になってしまった…。
・ しかし、当然ながら、このような風潮は、「言葉は正しく使いましょう」
と考える人が多いポルトガル人にとっては、野蛮な行為に見えることや、
そのような口語を用いているブラジルでさえ、社会的ステータスの見分け
ポイントとして「文章力」が珍重される傾向があることを鑑みると、ブラ
ジル現地仕込みのポルトガル語を身に付けて、迂闊に「ポルトガル語なら
出来る!」と、場所を選ばずに発言してしまうと、ひんしゅくを買うよう
なことにもなりかねない。
といったようなことになります…。
実際、最初に紹介した漫画の
フツーに誰でも使っている表現を使う
キャップを被ったおっちゃんと、
それにいちいちケチを付ける
「座っているインテリクソじじい」wであれば、
誰もがキャップを被ったおっちゃんの味方になるけれど、
語学試験や採用試験であれば、
「座っているおっさん」の言うようなことが出来なければ
試験に落ちてしまうわけで...。
いや、世の中って実に難しい…!www
❇❇❇
ところで
日本語は「誰でも本が書ける稀な言語」
だと言われることがあります。
でも
そんな日本語にも
「ら抜き言葉」の問題など、
文法が間違いだとする形が根付いているものが少なくないですよね…。
ちなみに
最近私が気になって仕方ないのが
ニュースなど、正しい日本語の見本となるべき媒体で
「○○に訪問する」という、
世にもへんてこりんな助詞の使い方が根付き始めていることです。
「それを言うなら『○○を訪問する』だよ~!」w
と、
毎回ツッコミたくなります…。💦
「ら抜き言葉」が定着しつつあった数十年前、
日本から来た青年が、
40年以上日本語教師をしている日系人のおばちゃんに
「『見られる』とは受け身です。可能性の場合は『見れる』です!」
と力説していたときには冷や汗をかいたものでした。💦
それを目撃して、
同時期に来伯していた
日本語教育の権威とされる先生に
「もしや『ら抜き言葉』問題って、文法の方が折れちゃいました?」
と聞いたところ、
「いえいえ、文法はまだまだ降参していませんよ」
と。
そして、その青年の話をして、
「そんな彼でも、論文などには『○○な現象が見られる』とか
書いたりするんでしょうかね」
と言ったら、
「いやぁ、そう信じている人は、論文でも何でも
『見れる』・『食べれる』って書くんじゃないかなぁ~…」
とぼやいていらっしゃいました。w
しかし、それから既に35年程経ちましたが、
文法では未だに
「下一段・上一段活用動詞は未然形に『られる』を付ける」
としていますから、
文法の力って強いんですね!
この力強さをもってすれば、
「○○を訪問する」も、いつか復活しますかね?w
なんにせよ、文法って、
というか、
文法を司る人達って強い!
と思った次第です…。www
くどくどと長文を書いてしまい、すみませんでした!