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初めてのアンゴラへの海外出張
時は1997年2月、
当時のアフリカ出張はヨーロッパ回りが主流で、
往路はパリ経由、復路はロンドン経由でした。
私にとっては生まれて初めてのパリでは、
当時まだ在京大使館のなかったアンゴラ共和国の
ビザを取るために2泊したのと、
メンバーに同じくパリは初めてという方がいらしたので、
経験豊富な一名があちこち案内して下さいました。
トップ画像はその時のものです。
楽しい2日間が終わると、
いざ、アンゴラへ向けて出発です。
🛫🛫🛫
当時はまだネットで情報が得られるような
時代ではありませんでしたから、
事前に貰った資料の他には
百科事典などの基本情報くらいしか入手できず、
ましてやまだ内戦中の国に向かう話ですから
不安以外何もありませんでした。
フライトは、
夜遅くにシャルル・ドゴールを出発する
エア・フランスのものでした。
そのフライトの様子は
note を初めてまもない頃に書いた
この記事 ↓ に記しております。
到着した先は
ルアンダ国際空港、こと
Aeroporto Internacional 4 de Fevereiro de Luanda
【アエロポルトゥ・インテルナスィオナール・
クァトゥロ・ドゥ・フェヴェレイル・ドゥ・ルアンダ】
(=ルアンダ 2月4日国際空港)
です。
ちなみに
この下に貼る記事でも触れていますが、
2月4日はアンゴラの開戦記念日で、
ルアンダでは空港にも目抜き通りにも
「2月4日」という名前が付けられています。
その「2月4日空港」は、
建物自体は当時もこちらのものでしたが、
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こちらは、それから何年も経っての写真なので、
少しリフォームもされていれば
電気も点いていますが、
1997年当時は電気も点いておらず、
もっとボロボロで、
活気も全くありませんでした。
ちなみに余談ですが、
その後新しい空港ビルが出来、
↓
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今でもここが稼働していますが、
更に新たな「ルアンダ新国際空港」
「Novo Aeroporto Internacional de Luanda - NAIL」
【ノーヴ・アエロポルトゥ・インテルナスィオナール・ドゥ・ルアンダ】
が、ルアンダ中心部から40 km 程離れたヴィアーナ (Viana) 地区
(厳密には隣のベンゴ州内)に
建設中で、来年(2023年)早々にオープン予定です。
↓
🛬🛬🛬
現地についてからの町の様子などは
こちら ↓ に少し書いておりますが、
仕事では協議の他、近隣農家への現場踏査なども行いました。
↓
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ちなみにこの写真の中央の
白いシャツのおっちゃんが、
私に国際協力の「いろは」を教え込んでくれた
我が師匠です。
この人については、
いくつかの記事の中でちらほら書いておりますが、
ブラジル人のノリで大丈夫だと
思い込んでいる私に
アフリカの人々は歴史的に虐げられてきたことによる
コンプレックスがあるから、
ブラジル人がやりがちな悪気のない冗談であっても
人の容姿のことを決して言ってはいけないことや、
アンゴラの場合は
奴隷になるような部族と、
到来した欧州人などと
対等に交渉事を行うことができた部族がいることなど、
基本中の基本はもとより、
まだ内戦中だというのに
交渉に交渉を重ねた挙句に
日本の二国間援助を
アンゴラで実現させた張本人でもあったことから
日本の ODA の特徴や留意点などについても、
この人から学んだことが非常に多かったのです。
残念ながらこの方は
私がしばらくアンゴラへ行かなかったあいだに
急逝されてしまわれましたが、
私の人生の中でも
とても意義ある巡り合いでした。
🙏🙏🙏
この時の現地でのステイは
一週間強程度(8泊9日程度?)で、
昼は上に貼った(2)の記事に書いたイタ飯屋、
夜は同じく(2)に記した中華屋の Chez Wu と、
食べることに関しては
ほとんどオプションがなく、
しかも内戦の影響による物価高で
昼はスパゲッティーの単品だけで 20 米ドル程度、
夜は極力抑えても
30ドルは下らないという塩梅で、
しまいには中華屋の
大き目で麺が入ったスープだけにすれば
一人20ドル以内で済むからといった
工夫をする始末...。
基本戦闘が起きているのは奥地ということで、
危険な目に遭うようなことも一切なかった代わり、
食事で我慢を強いられる日々となりました。苦笑
そして帰国の途に就く前夜、
「最後の晩餐」のあと見た
海岸通りの夜景は美しく、
「ああ、こんなところに来ることは二度とないだろう。
よく目に焼き付けておかなければ」
と思い、
思わず涙ぐみそうになったことを思い出します。
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なにせ、その時点では、
まさかその後あの国に
50回近くも「通う」ことになろうとは
夢にも思っていませんでしたから。w
😅😅😅
最近当時の写真が出てきて振り返り記事を書くことが多かったところへ
ローローさんが素敵な記事を書いて下さったので、
思わずアンゴラへ行きだした頃を再び振り返らせて頂きました。
ローロ―さんの記事はこちら。↓
お読み頂き、誠にありがとうございました!
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※「いろいろ思い出すナ」、否、
「おやすみ 月と猫」はこたつぶとんさんの作品です。