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愛しの国カーボベルデ(4)

私は二度目のカーボベルデ以降は首都のあるサンチアゴ島ばかりに通っていました。

最長3か月、最短2週間という期間のステイで、通算で10か月程「住んだ」かと思います。

今回は、サンチアゴ島で経験した色々なことについてお話しします。

首都プライアのHotel OASIS Praiamarが1998年から2年間(通算7か月程)の定宿でした。

私がセザリア・エヴォラに握手してもらったホテルです。

ただ、今のように美しく改装する前で、途中から改修工事が始まったこともあり、安くしてもらっていました。

で、きれいで快適になってからは1度だけ短いステイのときに泊まっただけとなりました。>涙

ここには、値段は高いけれど美味しいブッフェスタイルのレストランがあるのですが、上のサイトの写真を見たところ、今はお寿司も出るようです!

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そしてここに「住んで」いるあいだ、カーボベルデについていろいろな興味深いことを知ったり経験したりしました。

しかもあり過ぎるので、順不同な箇条書きにします。>笑

・サンチアゴ島を初めとするカーボベルデの大半の島々では、ただでも少ない年間雨量分の雨が一日か二日で降ってしまい、その水の大半が鉄砲水として、ないし鉄砲水の如く海に流れ出てしまう。

・水がないということは、産業もない。というわけで、人口の半分近くが 出稼ぎとして世界各国に散らばっている。とりわけアメリカのボストンには、当時のプライア市の人口に匹敵する規模のカーボベルデ人コミュニティが存在する。

・結果、経済は出稼ぎの人たちからの仕送りに頼るところが大きく、極端な 貧困状態にあるのは、出稼ぎ中の親族がいない人達ということになる。

・後に、アンゴラにも比較的多くのカーボベルデ人が移り住んでいることを知った。2002年まで40年間も戦争が絶えなかったアンゴラだ。人間とは水がないよりは戦争の方がましと思うものなのだろうか。今でも理解に苦しむ。

・カーボベルデの銀行で両替すると、渡されたお金が、ピン札でもないのに全て同じ方向を向いて出てくる。そんなことは日本でもあり得ない。随分と細かいことにこだわりを見せる国民性だ。>笑

・カーボベルデ人の大半が白人と、奴隷として連れてこられた黒人との混血だということもあり、「肌の色が明るければ明るいほど美人」という美人の基準がある。だからトップ画像の娘などは、可愛いのにも拘わらず「アイツは黒すぎる」とか言われてしまう可能性がある。

・カーボベルデは離婚・再婚が多い。出稼ぎ人口が多いことから、男性より女性の方が多いことも原因だという。でもそれは都会のことで、農村部には 一夫多妻制で平穏に暮らしている家族も多い。我々の雇った現地の学生アルバイトの女の子が、当初は「うちは両親が揃っているのよ」と、ちょっと 自慢気に話していたのだが、2年後にはその両親もちゃんと(?)離婚していた。

・別のアルバイトの男の子は、「このあいだ、○○島に初めていったんだ。そこで知り合ったヤツとあまりにも気が合うんで、よく話をしてみたら兄弟だったんだ」と。

・あるドライバー君は、「うちの父さんは輸入業をやっていてポルトガルとカーボを行ったりきたりしているんだ。向こうにも家族がいるんだけれど、こっちにも3家族いて、兄弟は全部で10人。皆仲がいいし、うちの父さんは子供全員の名前も知っているし会いにもきてくれる。とてもいい父さんだ」と。(節操のないことって平和の秘訣なのかもしれないと思い始めてしまいました…。>笑)

・カーボベルデ人はアフリカ大陸の国々に対してちょっとした偏見を持っており、自国はどちらかというとアフリカというよりはヨーロッパだと考えている人が多い。

・ある時、日本人の一人が調査費全額を入れたポシェットをベッドに置いたままにして仕事に出かけてしまい、こんな名も知れぬ途上国のことだからと半ば諦めの心境でホテルに戻ると、ベッドメイキングをした上で、ポシェットは同じ位置に置き直されていた。無論、一銭たりとも抜かれたりはしていなかった。

・他の人が、やはりお金の入ったポシェットをレストランに置き忘れた際も大事に保管されていた。

・ホテルで枕の下にチップを置くと、ルームクリーニング後、それがサイドチェストに置いてある。チップは手渡しでないと受け取ってくれない。

・「水は貴重」という意識が全国民に染みわたっているカーボベルデでは、ルームクリーニングスタッフが、底に1cmでも水が残っている場合は、まだ飲むかもしれないと解釈してコップを洗ってくれない。微妙に困る。>笑

・ある時、仕事に使う機材の一つをある村に忘れてきたかもしれないということになり、その村に戻ると村人総出で探してくれた。その時には機材は 見つからず、結局違う場所にあったので村に謝りに行くと、「本当に良かった。村の子供の悪さだったらどうしようかと思った」と言ってくれた。

・ある時、島の最北端のタラファル(Tarrafal)という町に数日間ステイすることになり、ホテルにはタラファルに行くとだけ伝えて出かけたが、その タラファルのホテルに着くと、我々のグループ宛ての日本からのファックスが届いていた。(タラファルに外国人が泊まるようなホテルがそこしかなかったというだけのことだが、素晴らしい気遣いだと思った。)

・ある時電話局に行くと、「自分宛ではないといってファックスが届けられているのだが、あなた方宛てではないか」と宛名部分を見せてくれ、無事に 番号間違いのファックスを受け取った。

・1998年当時のカーボベルデは、国中に600人しか警察官がいなかった。
でも、起きてもせいぜい車の軽い接触事故か、酔っ払いの喧嘩だとのこと。その後、多くのセネガル人が、商売をするためにカーボベルデにやってくるようになり、持ってきた商品をさばいた後、ついでに軽犯罪を犯して帰るという事件が頻発するようになった。更にその後、首都プライア市はどんどん都市化し、カーボベルデ人による犯罪も普通の都会並みに起こるようになった。都市化も良し悪しだと、つくづく思い知る。

・ある日、日本語をしゃべるフランス人女性とビザの延長に出かけた。彼女はポルトガル語は3割程度しか理解できない。黄色人種の私がポルトガル語を話し、日本語でフランス人に説明をする姿を見て、イミグレ担当官の目が点になった。あまりにも面白かったので、二人してもっとあちこちで同じ事をやろうかと言って大笑いした。

・現地スタッフと車で出掛けた際、「もう!イアッセは乱暴だから困る」というので、「イアッセ」とは何かと訊ねると、「何言ってんのよ、イアッセといえばあなたの国の車でしょ。ほら、もう一台来たわ。ほら「イアッセ」って書いてあるじゃない」と。見ると、なるほど!乗り合いの「HIACE」であった。ポルトガル語で「H」は読まない。

・ある晩テレビで「ギニア・ビサウでクーデターが起きた」とのニュースを観た。数日後「ポルトガルの軍艦が現地のポルトガル人の救出に向かった」とのニュースが流れた。更に数日後、「ポルトガルの軍艦○○号が、ポルトガル人を乗せてギニア・ビサウを出港した」というニュースが流れた。その2日後、海の見えるホテルの朝食会場で朝食を摂っていると、目の前を軍艦が通り過ぎた。その日の夕方ホテルに戻ると、普段は静かなロビーがギニアビサウから引き揚げてきた人々でごった返しており、ルームキーを貰うのにも苦労した。数日後、又新たな軍艦がギニアビサウを出港し、その2日後に同じことが起きた。何十年も人間をやっているが、あとにも先にもあのような臨場感のある有事のニュースはなかった。ちなみにこの時、日本人はポルトガル軍艦に乗船拒否され、後にセネガルの軍艦に救出されている。

・長い調査を終えてカーボベルデから引き揚げる際、一旦飛行機に積み込まれた我々の荷物が降ろされて戻ってくるのがガラス張りの待合室から見えた。これは大変だとチェックインカウンターに戻って問いただしたところ、上層部の担当官が出てきて、飛行機がウェイトオーバーになってしまうので、次の便で送るから安心せよと。しかし当時はカーボベルデ航空とセネガル航空が一日置きに飛んでいたので、次の便とは2日後だ。その頃には我々はパリ→成田間という日程だ。事情を必死に説明すると、担当官は私をじっと見てしばらく考えた末、「ちょっと待て」と言い残し、おもむろに飛行機に向かって歩き出した。見ていると、飛行機に乗り込み、しばらく経つと、担当官と3人の体格のいい男性が降りてきた。まさかと思ったらそのまさかで、その3人の代わりに我々の荷物が積み込まれ、やがて飛行機は我々を 乗せて無事(?)飛び立った。担当官が何と言ってあの3人に降りて貰ったのかは今でもわからない。でも今でも思い出すと、なんだか申し訳なく思ってしまう一件だった。

・ちなみにその時はセネガルに立ち寄る用事があったためにセネガル行きのカーボベルデ航空に乗ったのだが、実は当時、セネガルに寄る必要がない時はビザなしでフランスから北部のサル島(Ilha do Sal)に飛び、そこで短期ビザを貰い、そこからプライアへ向かうというルートを使っていた。観光 重視のカーボベルデならではのことだった。今でもビザなしで行って、すぐ短期ビザを出してもらえるものなのかは知るところではない。

・当時、成田からカーボベルデまではスルーチェックインをすることができず、一度荷物を取って再チェックインする必要があった。パリのシャルル・ドゴール空港のカーボベルデ航空のチェックインカウンターの番号はやけに大きな数字だった。端っこ中の端っこなのだな、とカウンター番号が大きくなる方向へ歩いて行くと、その番号の一つ手前で行き止まった。どう見てもそれ以上の数字を指し示す表示などない。仕方がないので案内所で聞くと、外だという。「えっ、外?」と思いつつ出てみると、中央分離帯にプレハブ小屋が!そこがチェックインカウンターだったのだ。半信半疑で中に入ると、そのまんまカーボベルデ人な人達が土産にと、親戚の家などで汲んできたのだろう水道水をチェックインしていた。この光景にも慣れてきた頃、気づけばカウンターは建物内に入り、チェックインする人が水を持っていることも少なくなっていた。

・1997年から2004頃までは、プライアに行く度に、2軒あったものが3軒に増えたり、3軒あったものが1軒に減ったりと、中華料理店がオープンしたり潰れたりを繰り返していた。2012年に久々に出向くと、それらしい店は一軒もなく、その代わり中国人が営む雑貨店が数件並ぶ街の一角に、断じてそれっぽくないものが1軒だけあった。一般の現地食も出している普通の店だ。恐らく中華料理は現地人にはウケが良くなく、昼食を食べにくる雑貨店の中国人と、時折訪れる黄色人種にだけ中華料理を振る舞うようになったものだと思われた。

・中華料理店が2~3軒あった頃、その中の一軒の料理に、もやしが入っていたことがあった。美味しかったので次に行った際、「もやしはあるか」と
聞こうとしたが、相手はポルトガル語が分からない、こちらは中国語がわからない。筆談の末、それは「豆芽」だと教えられた。「『マメメ』かぁ…、なるほどねぇ!」、「『マメメ」ね~」などと我々が言っているのを聞いた店主が、次からは「Tem mameme (マメメあるよ)」、「Não tem mameme (マメメないよ)」と教えてくれるようになった。

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笑えることも首をかしげることもありますが、こんなプライア市、そして カーボベルデ共和国が私は大好きです。

先日ご紹介させて頂いた「カーボから帰れなくなったご夫婦」が、現在の ミンデロの様子をアップしていらっしゃるので、下に貼りますね。



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