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サンパウロの絵葉書の常連でギネスにも載っていて👻もいるw COPANビル!- その2

この記事はこちらの記事の続きです。

さて、ここで
COPAN ビルの歴史もさらっと見ておきましょう。

このビルが竣工したのは1966年ですが、

当初(1950年頃)、
「1954のサンパウロ市制450周年に合わせて
町のランドマークとするべく
アメリカのロックフェラー・センターのような複合施設を造ろう!」
という構想が打ち出されたのだそうです。

ちなみに言い出しっぺは
当時は世界でブイブイ言わせていた
パンナム(パンアメリカン航空だったそうな。

この事業を手掛けたのは、その系列の
Companhia Pan-Americana de Hotéis 社で、
それが証拠に「COPAN」というのは
この会社の略称なのです。

主任設計士に任命された
オスカー・ニーマイヤーが全体の設計を行い、
1952年には建設工事も始まりました。

ところが、
まもなく融資を行っていた
国家不動産銀行(BNI - Banco Nacional Imobiliário)
破綻に追い込まれてしまいます。

これにより、
工事は1953年から4~5年間中断してしまい、
当然その間にサンパウロ市制450周年も過ぎてしまいました。

そして、こうなると
Companhia Pan-Americana de Hotéis 社も
プロジェクトそのもへの関心を失い、
1957年にはその権利を Bradesco 銀行に売却してしまいます。

また、この間に
オスカー・ニーマイヤーも、
彼の人生最大の「作品」である
首都ブラジリアのデザイン・建設に全面的に従事するため
現地に引っ越してしまいました。

ニーマイヤーが設計した首都ブラジリアの建物の数々

実は巷では
ニーマイヤーが計画の変更を不服として
プロジェクトを放棄したというのが
定説になっている節もあるのですが、

COPANで30年来管理組合理事長をしている
Affonso Oliveira【アフォンソ・オリヴェイラ】さんは、

ブラジリアの現場から
現地にいてもらわなくては困ると言われて、
ニーマイヤーはブラジリアに行かざるを得なかったんだ。
あとのことは、サンパウロのニーマイヤー事務所長の
カルロス・レーモス氏に任せてね。
ただ、(A棟~F棟まである)F棟に関しては、ニーマイヤーは
1フロア1アパートメントにして
超裕福層を呼び込もうと考えていたため、
プロジェクトの権利を買い取ったBradesco 銀行の意向により
1フロア当たり4~6アパートメントに区切られてしまったことは
かなり不満に感じていたようだったけれどね

とこちらで語っています。

ちなみにこちらがアフォンソ・オリヴェイラさんです♪

https://www.estadao.com.br/cultura/gilberto-amendola/ha-30-anos-no-cargo-sindico-do-copan-e-reeleito-e-diz-que-reforma-das-fachadas-vai-sair-do-papel/

余談ですが、
アフォンソさんは、驚いたことに
COPANビルの完成以前からの住人だそうです。
というのも、COPANビルは
「特徴的なうねったフォームの1つのビル」
だと思われ勝ちですが、
下部の商業エリア以外はA棟からF棟までに別れており、
初期からの住人が入居した時には
別の棟の工事がまだ進行中だったのです!

また、カルロス・レーモス氏はこちら ⇓ の動画で


1951年当時、
リオデジャネイロを拠点にしていた
ニーマイヤー氏
リオ⇔サンパウロ間(およそ430 km)の往復を
頻繁に繰り返すことに限界を感じて
サンパウロに支社を設けることにしたこと、

建設用地が
互い違いになった3つの区画から成るものであったため、
COPANビルのフォルムが逆 S 字型なのは、
ある意味必然であったこと、

Bradesco 銀行側が
4LDKマンションを1ルーム型にすると言ってきた時には
自らも抗議したことなどを語っています。

❇❇❇

COPANビルのオリジナルプロジェクトは
30階建ての共同住宅と
600室を完備したホテルをセットにしたものでした。

https://www.vivadecora.com.br/pro/edificio-copan/


共同住宅ビルの1階は映画館を含むショッピングモール、
2階(厳密にはメッザニン階)は多目的サロン等
といった構想でしたが、

工事の中断期間を経て、
1957年に Bradesco 銀行が指揮を執るようになると、
ホテル建設は排除され、
その場所に同銀行の自社ビルが建てられ、

マンション部分は
当初の 900 室から 1,160 室へと
部屋数が増やされました。

❇❇❇

このようにして
1966年にようやく竣工を迎えると、
後発プロジェクトであった筈の
隣のイタリアビルも既にオープンしており、
COPANビルとその周辺は、
サンパウロ市内でも
地価が最も高いエリアの一つとなったのだそうです。

そのような一等地となったこともあり、
1971年には、はす向かいに
ヒルトン・ホテルもオープンしましたが、

1970年代半ばより
サンパウロ市中心部の治安の悪化が進み、
COPANビルに麻薬取引集団が住み着いたりと、
最悪な十数年を経て、

前述のオリベイラ氏が
管理組合理事長に任命されて
再生の途を辿ったという経緯があるのですが、

この COPANビルの衰退と再生についても
いずれ記事にできればと考えています。

そんなこんなで COPANビルは
オリベイラさんと
古参の住民との連携により
今でも多くの人の憧れの的ですが、

サンパウロ市中心部の治安の悪化は
止まる所を知らず、
ヒルトン・ホテルなどは、2004年には
同市南西部の高級住宅街である
モルンビ―(Morumbi)地区に移転してしまいました。

❇❇❇

なお、オスカー・ニーマイヤー氏は、
COPANビルの建設工事が中断され
先行きが不明だった1954年、
ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテ市に、

その名も
「Edifício Niemeyer(ニーマイヤー・ビルディング)」
という、
COPANビルを思い起こさずにはいられない
ビルをデザインし、
こちらについては1960年に竣工しています。

Edifício Niemeyer, Belo Horizonte

❇❇❇

ここまでお読み頂き、まことにありがとうございました!

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👍👍👍

パンダ・パパンダ・COPANだ🎵 なんつって...!w
https://tenor.com/ja/view/panda-kopanda-gif-11732776

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