モザンビークでの出来事いろいろ(1)
トップ画像はモザンビークの首都マプトの
ベトナム料理屋さんです。
当時(2001年か2002年頃。
モ国の終戦は1992年なので戦後10年前後)は
何度か訪れましたが、
その後は行っておらず、
今はもう存在すらしていないかもしれません。
目隠し画像のお二方に同行して
マプト州の北隣の
ガザ州に行きました。
ガザ州の位置 ↓
ガザ州のショクエ (Chókwè) 市と
州都シャイシャイ (Xai-Xai) 市は
2000年には大洪水により
大きな被害を受けた地域で、
当時はまだあちらこちらで
復興工事が進行中だったと記憶しています。
2000年の洪水が起きたときの様子 ↓
ちなみに
日本の ODA は
この地方とは縁が深く、
他国と共に灌漑施設を造ったり、
井戸掘削用機材を供与したり、
農業専門家を派遣して
ハイブリッド米(ネリカ米)の
開発を行ったりしています。
が、
この時に訪れてみて感じたのは、
この記事 ↓ でも述べているとおり、
モザンビークは首都マプトより
地方都市の方が治安が悪い
という問題です。
ま、ガザ州の場合は
外人と見ると
しつこくお金をねだりに来る輩が多い程度で
危険を感じるほどではなかったのですが、
それ以前に問題だと感じたのが
(これもどこかに書いた気がしますが…)
ホームレスでもなんでもない
普通の恰好をした子供が
ちらっとこちらを見たかと思うと
「あ、外人だ」とばかりに
すかさず寄ってきて
「ちょうだい」の手を差し出す…
といったことが、この時も
ここから数年経ってからもあったのです…。
援助業界には「援助慣れ」という表現がありますが、
何度訪れても
ガザ州は「援助慣れの極み」だと
つくづく思ってしまうのです…。
😩 🥺 😢
この時は大半の期間をシャイシャイ市内で過ごしました。
シャイシャイは海辺の町なので、
中心街から離れれば
南アフリカ人の経営する良いホテルなどもあるのですが、
なにせ仕事場が中心街だったため、
その界隈で唯一存在する
木賃宿的なホテルに泊まっていました。
この右側の建物の2階が「ホテル」でした。↓
この建物、「回」の字状になっていて、
中庭を見下ろす廊下沿いに部屋があるのですが
(あ、中庭と言っても、ばっちい洗濯場でしたが)、
それはそれはボロい部屋で、
低くて質素なベッドはきしみまくるし、
辛うじて置いてあるテレビを点けても
砂嵐の中にうっすら画像が見えるチャンネルが
1局しか映らず...、
そして薄暗くて怖~いバスルームを覗くと
ええ~っ?!?!
なんと!
シャワールームの壁が天井まではなく、
隣の部屋の
シャワールームと分ける
ただのパーティションになっているのです!
この時ばかりは
正直
「嫌だよ~!
こんなところにいたくないよ~!!」
と思いましたが、
そんなことも言ってはいられません…。
結局このホテルに2週間も滞在したのです…。
無論週末も2回ありました。
そして
週末になると何が起きるかというと、
なにせ娯楽の少ない田舎町のこと、
金曜日と土曜日の夜は夜通し、
日曜日は零時前後まで
けたたましい音量の
サンバにセンバにキゾンバにクドゥーロに
ブラジリアン&モザンビーカンポップが流れ、
煩くて眠れないのは愚か、
なんと!
若者達が
仲間同士で着替え部屋として
ホテルの部屋を借りるものだから、
上部の開いた
パーティション壁の向こうでは
シャワーの中と外で
大声で話す女性同士、
仲良く一緒にシャワーを浴びて
「アンアン」はしゃぐカップル...、
etc. etc. etc. で
「パーティション壁は 2.5m 強の
高さがあったけれど、
週末のハイテンションで
皆お酒も入った状態で...、
どんなヤツがいるんだと
お馬鹿な酔っ払い兄ちゃんでも
飛び越えてきたらたまったものではありません...!
汚くてうるさくてコワくて
心身ともに擦り減るステイでした…。>苦笑
😣 😖 😫
いやぁ、長年アフリカに通うと、
いろいろあるものです…。
このホテルの話のような
笑っていいのか泣いていいのか
わからないような話こそないものの、
このガザ州絡みでは
もう少し書きたいこともあるので、
もう1~2回
お付き合い頂ければ幸いです。
本日もお読み頂き、誠にありがとうございました!
※ 「頑張れ、頑張れ、Shiomin !!」、否、
「応援!電球」はこたつぶとんさんの作品です。
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