「聖域」について語ろう
こんにちは、華です。
なかなか終わらない今年の夏。
でも、夜が訪れる時刻は日に日に早くなっています。そこだけ秋。気温も秋になってほしい~。
さて、今夜の話題は、いつか迎えるだろう「最期」について。
死、というのはわたしにとって数少ない聖域のひとつです。
飛躍した話になるかもしれないし、ハッピー! という話題になるのも難しいかもしれないので、お気が向きましたらおつき合いくださいませ。
生きていれば、いつかはその日々にも終わりが訪れます。
物語の世界じゃないかぎり、永遠の命はありません。その瞬間に立ち会うのはきっと怖い。強がりを言っても、きっと怖い。
だからこそ、来世に託したいひとは宗教をこころの支えにするのでしょうし、私みたいに特定の宗教を持たなくても、ふとした瞬間に、「いまを大事に生きたいな」と思うことがあります。
毎日仕事ばかりしていて、家にいる間はネットが唯一の外交手段。
友だちと通話することもしょっちゅうありますが、たいていの場合は黙々と原稿を書き、ときどきSNSを見て、心構えがまったくできないまま誰かの訃報に接してしまうと、ものすごくショックを受けるほうです。
大好きだった漫画家さん、作家さん、芸能人、スポーツ選手。知っていても知らなくてもショックで、なにを書いてもうそになる気がして、しばらく発言は控えるようにしています。
即時性のあるSNSが登場する前は、皆が同じタイミングで「え」と書き込む場所も瞬間もありませんでした。ハッピーな事柄はさておき、訃報などに際して脊髄反射するのがほんとうに好きじゃなくて。
大勢で盛り上がったことって、一瞬にして消化してしまう気がして怖いのです。もちろん、ひとりひとりの胸にある悲しみや苦しみの重さが違うのもわかっているのですが、どんどん流れてくる情報のひとつに「死」があり、それに「え」「うそ」と打ち込んでさらに押し流そうとしてしまっているよなと思うから、苦手です。
ショックなことだからこそ、皆で持ち寄って慰め合いたい。
そのひとを偲びたい。
でも、それはこの濁流のようなSNSで、「いま」やることなのか……? と考えます。
なんか……なんか、いったん持ち帰って考え、つらくても時間をかけて自分なりの言葉でお悔やみを伝えられないなら……「信じられない」という書き込みのあと、「今夜はカレーだよ~」と呟いて日常を続けるだけの強さがわたしにはないというか……。
考えすぎなんですよね。わかってるんだけど……。
日常は、いまを生きているひとが享受できるもの。一瞬前には故人を偲びながら、なぜ直後に自分の日常を出せるのか……生きている者は傲慢だよなと、私自身、これを書きながら自省しています。
ほんとうにほんとうに、大好きだったあのひとを突然喪った痛みに耐えかね、同じつらさを味わっているひとと、「信じられないよー」「やだよー」と言い合う場はわたしにもあって。
考えすぎ、まじめすぎと笑われても、好きなひと、動物の「死」という聖域だけは荒らされないようにずっと守っています。
大事な場所は皆それぞれにあって、かたちが違う。
それをどう扱うかも、皆違う。
どう配慮すればいいのか迷うことも多く、とりわけ、「最期」ということについてはどんなに手を尽くしても、この気持ちをそっくりそのまま伝えきれない気がしますが、書いてみないことには理解もなにもないよなーと思うので、記してみました。
「最期」を神聖化することはなく、そこまでの道のりをどう過ごしていくか自分次第なのだとしたら、めんどいなーわたしもたいがい……と笑いつつ、両親、猫ちゃんを見送ったことをたまに思い出して、一緒に過ごせてよかったなとしみじみします。
そして、いま一緒にいてくれるひとを大事にしていきたい。
朝、目が覚めて陽の光を浴びることがいかにしあわせか。
夜、自然と眠れることがどんなに穏やかか。
ちょっとだけ、考えるようにしています。
フィクションをフィクションとして楽しめる余裕も、生きているからこそのしたたかさによるものだと考えています。思い切り論理の飛躍をしてみました笑
繊細さと図太さのバランスを日々調整している感じ。
まとまりのない文章で大変失礼しました。
最後までお読みくださりほんとうにありがとうございます!
また書きます!
今日は以下の記事内のひとつに触れてみました✨
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