同じ立場じゃないと分かり合えないこと
最近気づいたことがある。
それは「立場の違う人」が意見や感想を言っても本人の心は全く満たされないことである。(どうも宗教の教祖様は除かれるらしいが)
以前の記事でも書いたが、私は母に弱音を吐いたり、体調不良を訴えると必ず「私の方が辛い!!」と返してきた。
また、色んな決めつけ(学生は恋愛するな!男は馬鹿だ!仕事は絶対やめるな!など)をされたため、自身に人の意見を柔軟に聞くという力もなかった。
友達には自分の(というか完全に母のコピーの)意見を押し付け、うんと言わせるまで語った。
(学生時代はこんな状態のコミュニケーションしか取れなかったのに今でも付き合いのある友人が数名いるが、有難いなと思う。)
大人になって、いろんな価値観を知った。
恋愛や結婚をしたいと思わない人、したくてもできない人、仕事を辞めたい人、辞めたくなくても夫の転勤についていく人、資格を活かす人、あえて活かさない人、子どもが欲しいのにできない人、欲しくない人、すぐぽんぽん産まれる人…
20代は特に様々な場面で色んな価値観に触れてきた。
今年三十路になるということで、一昨年頃から周りは出産ラッシュである。
正直人生で1番デリケートな時期かもしれない。
でもデリケートだと認識できたのは、自然に子を授かることの難しさを体感したからだ。
それでも人工、体外に進んでいる人と話すときっと同じ温度感で会話ができないと思う。
私の職場では今年から不妊治療休暇が新設された。非常に有り難い制度だが、勿論治療中の状態では異動や業務の配慮はない。上司にも不定期の休みを言いづらいと思う。少なくとも自分はそうだった。
一方で妊婦への配慮は法律で定められている。安定期に入るまでは長いし、悪阻も想像以上の辛さだが上司も理解を示してくれやすいし、通院休暇もあればつわり休暇もあり、時短だってある。
仕事と治療の両立はかなり厳しいと痛感した出来事だった。それでも休暇を取っていない私は「同じ立場」で語ることは許されることはないのだと思う。
意見の押し付けは誤っていると認識してから、違う立場の人の意見を聞くことが楽しいと感じ始めた。
しかし、自己肯定感が低すぎた時は自分の意見が無くて、他人の意見を貪るように聞いていた。真似しようとした。自分には出来なくて苦しかった。
この段階でも宗教関係者と話すのは苦手だった。
気持ちは純粋な方が多く、ありがたいなと思うことも多々あった。しかし、人の話を本質的に聞いていないし、返答も基本的に信仰がらみになってしまうからだ。(祈れば大丈夫!しか言わない。)
意見の押し付けは価値観が違う限り、基本的に嫌な感情を持つ。
ただ、「同じ立場」で苦しんでいる人だとしたら?きっと共感の感情が湧くのだと思う。母親は子どもにすら心を開かなかった(癖に痰壺のように何度も何度も苦労話と愚痴を吐き捨てられた)のに、宗教の人=苦労人という同じ立場であることを認識していたが故に心の拠り所になっているのだと思う。
宗教が故に親切な人が多いが、私が若い頃に接した人にはそういう感情は持てなかった。
役職をやれと押し付けて鬼電してくる、断れば一切の連絡が無くなる、正直嫌気がさして私が真面目に取り組んでいなかったのもあるが、なんとも希薄な関係という認識だ。
上記の通り、家で意見を受け入れてもらえなかった私は基本的に外で自分の事ばかり話しがちだった。今の夫と出会って初めてご飯を食べに行った時に、酔っ払ってたのもあるけど自分の話ばっかりするね?と指摘された。そのくらい酷かった。
なので、自分の事を長々話している人を見ると少し同情的な気持ちになるし、とてもよく理解できる。(限界を超えて完全に耳がオフになる事もあるけど、これはきっと当時の私の話を聞かされた人もそうなのかもしれない笑)
今は自分が自分の意見を持ち、それを人に押し付けたいわけでもなく、情報交換として話し、他人の意見を聞き、勉強になるものは取り入れる。自分が無理なものは無理だし、努力してみようと思うことはスっと入る。ありのままの感情を受け入れる、これで良いのかもとポジティブに思えるようになった。