【寄稿】踏みにじる【小説】
踏みにじる。
「わたし、踏まれてみたいんですよね」
取引先の担当者が、ひとりごちるようにふとそう漏らしたのは、手掛けてきた長期案件が節目を迎えたことをねぎらう宴席の、はしご先のバーでのことだった。飾り気の少ない理知的な風貌からは読み取りがたい願望。仕事の渦中を乗り切った緩みと程よく回った酔いが口を滑らせたのかとも感じたが、私にはなんとなく、彼女がこれまで告白する機会をうかがっていたのではとも思われた。
金曜の夜、広くはない店内にはしかし小さくない喧騒が響いている。グラスを置いて、カウンターの端、左隣に浅く腰掛けた彼女を横目に伺うと、その目線は、テーブルの上で組んだ両手指の周辺をこまかく彷徨っていた。
その発言が、抱かれたいという単純な意味であれば、この地味で痩せぎすな女性に対して私にはどうもその気になれなかった。が、私はふと、その身体を虐げた時に、彼女がどういう反応を見せるのかを見てみたくなった。それは喩えるならば、羽蟻の翅肢をもいで様子を観察してみたい、という無垢な好奇心に等しかった。
束の間考えを巡らす私を横にして、その須臾の沈黙にも耐えきれなくなってか、先日見た映画でたまたま、と彼女は言葉をつなごうとした。だが私には、そのような誤魔化しを許すつもりは既になくなっていた。
私はつと上半身を左に向け、卓上の彼女の右手首を、自分の左手で上から押さえた。驚いた彼女が私の顔を見る。その目を射返す。口を軽く開けたまま彼女の息が止まった。すこし骨ばった細腕をそのまま握りこむと、この一瞬で今にも爆ぜそうなまでに高まった彼女の動悸が、手首の内側から克明に感じられる。脈動を遮るように指の力を増すと、彼女は泣きそうに眉を顰めて弱々しく吐息を漏らした。
「じゃあ、今から、踏みにじってあげますよ」
顔の中心を見据えながら、小さくしかしはっきりとそう告げる。ふたたび呼吸が止まり、私を向いた目が左右に何度か揺れた。彼女はその震えのまま瞼を伏せて、そして掠れた声で何事かを呟いた。内容は不鮮明でよく聞き取れなかったが、それはつまり、囚われてもはや逃げられない羽虫のたてる羽音であり、これから彼女が辿る運命の明白な象だった。
・・・
間接照明ひとつを残し、部屋の灯りは消すことにした。ベッド脇のパネルを操作する。さして装飾のない部屋の中で、足元のタイル張りの床は、光を落としてもなお冷たく照り返っていた。振り返ると、荷物を置いた彼女はそのまま所在なげに佇んでいる。慰労会で余暇を話題にしたときには饒舌さも見せていたのだが、あの後すぐにバーを出てからというもの極端に口数が減っていた。いまは腰掛けてもよいものか図りかねているのだろうがその逡巡は正解で、私には彼女に落ち着かせる気はない。
すべての衣服をこの場で脱ぎ去るよう、短く伝える。脱衣を求められることは既に覚悟していたのか、か細く承諾の意を示した彼女は着ているものを脱ぎ始め、しかし下着を残したところでふと手を止めて、おずおずとこちらをうかがってきた。怖気づいたのかとも思ったが、内股気味に膝を震わせ頬を上気させている姿を冷静に見ると、私はこの抵抗も呼び水のひとつでしかないのだと理解した。
これは、彼女がその内に隠してきた劣情を曝け出し煮詰めて凝縮する、儀式なのだ。
私は彼女の目を見返して、ひとつずつ、彼女がその身から外すべき対象を示した。下着も、靴下も、眼鏡も、装飾品も、すべて。身を守るものも心のよすがも何ひとつ残さない丸裸になるよう、淡々と命じた。目を見開き息を呑んだ彼女は、少しだけ間を置いて、また短い羽音を立てて服従した。
身につけたものをのろのろと取り外しきった彼女は、腕を組むように胸を隠しすこし足を閉じて、目を伏せている。裸体そのものや眼前で女性が全裸を晒しているという事実には、いまは不思議と一切そそられなかったが、一方で私の中では、これから受ける行為に対してその生物が示す反応、それへの関心が加速していた。本人が今まさに感じているであろう羞恥を顧みることなく、私は彼女に、仰向きに床に横たわるよう命じる。彼女は、今度は上擦った声でハイと鳴き、命令どおりの体勢をとった。
そこで私はいったんベッドに腰掛けた。彼女の詳しい嗜好は知らないが、革靴のまま踏みつけるのではなく、素足で細かい変化を感じてみようという考えが浮かんだからだ。彼女を見下ろすと、極度の緊張からか固く目を瞑っていた。ひとまずそれはそのままに、履物を脱いで裸足になる。そして、床に転がるその頭の左側に立った。依然目を閉じたままの彼女。私は沈黙し、その顔に起こる変化を観察した。ほどなく、何も起きないことに対する不安に駆られてか、彼女が薄く瞼を開く。目が合った。実験体が思ったとおりの振る舞いを見せたことに、私は多少の満足を覚えた。口角の上がった表情を見て、彼女はむしろ逆に慄いた様子を示した。
右足をおもむろに上げる。すこし高い位置にまで掲げ、わかりやすく彼女に見せつける。視線が集中しているのがわかる。それを彼女の首にゆっくりと乗せる。一瞬全身が震えたが、薄く開いた口唇からは何も声は出ないままだ。かわりにその薄い胸が、先程から不自然なほどに忙しく収縮を繰り返し、彼女が異様な興奮状態にあることを言葉以上に雄弁に物語っていた。
足をずらし、小指寄りの側面を、おとがいから手前のエラにかけて押し当てた。またビクリと震える。わかりやすく脈動を感じながら、私はその血管を、そしてその奥の空気の通り道を圧し潰すように、指の付け根に斜めに重みをかけた。
蛙の潰れたような、という形容はこういう時に使うのだろうか、彼女は濁った声で不細工に呻いた。瞬く間に顔全体に赤みが増す。目の縁に涙が滲み、口角に小さな泡が溢れる。横たえさせた身体が不規則にばたつくのを多少わずらわしく感じながら、右足にやや力を加えて、私は彼女が苦しみ悶える様をしばし眺めた。跳ね回る手足を見るに、昆虫標本としてはこのやり方は失当だな、という感想がなんとなく浮かぶ。ピンを突き刺すのと似たところのある行為ではあったのだが、脆い部分を先に留めるのは良くないらしい。
と、水の漏れ出す音がした。すぐに気付く。彼女が失禁したのだ。股間から漏れ出す液体が部屋の入口側に向けて広がっていく。まわりを軽く見渡して、ふたりの荷物や靴などにかかっていないことを確認した上で、私は彼女の首から足を外し、手早く両脚の裾をまくり上げた。床に溜まった尿がかかりそうな気がしたからだ。
解放された彼女はうつ伏せになって勢いよく咳き込み、ゼエゼエと激しく呼吸を繰り返している。その姿を見て、このまま上から頭を床に押し付けて自身の漏らした液体に溺れさせてみるのはどうだろうか、という考えが一瞬去来した。が、しかし私はそれよりも、あの苦しさの後で彼女が今一度、自分から同じ目にあいたいと望むのかどうかが知りたくなった。
まだ涙目で喘いでいる彼女の髪の毛を掴んで引き寄せる。耳元で、同じ場所で同じ体勢を取り直すように告げた。髪を離すと、彼女はまったく逆らわず、無言で浅く何度か頷き、熱っぽく潤んだ目で私をすこし見つめてから、かさねて吐息を漏らして、そして床に広がった液体に手足が触れるのも厭わず、下された指示に従った。
ふたたび、仰向けになったその頭の、今度は右側に立つ。また右足を上げ、あらためて顔の上空でしばし止める。
しかし私は、今度は首ではなく、彼女の眉間に母指球を下ろした。反射的に目をつよく瞑る彼女。額に爪先全体でかるく重みをかけると、先程の呻きよりも高く、湿った声で彼女は喘いだ。そこからすこし力を抜き、土踏まずを鼻筋に添わせながら、押し当てる角度、部位を変えてゆく。呼吸が明らかに激しくなっている様子が見て取れて、足にも熱い吐息が忙しなくかかる。そして、踵が口唇に当たった瞬間、彼女は舌を突き出してその部分に貪りついた。全力で媚び諂うように舐め回し口づけを重ねる。精神的な箍がひとつ、大きく外れたように見えた。
私はこの動きを見て、そもそもの申し出が彼女の倒錯性癖に応えることであったと思い出した。舐め回される感覚は私に悦びや興奮を呼ぶものではなかったが、しばし彼女の充足を図ってみるのもよいだろう。足の裏で顔面全体をゆるやかに押さえつけながら、彼女がむしゃぶりつき続けられるように口のまわりを軸として、少しずつ位置を変えて鼻や頬、口唇を捏ね回す。
時折つよめに荷重をかけたりもしたが、これは踏みつけるという暴力的な表現がそぐわない、より直截的に淫靡な働きかけであるように感じた。大きく喘ぎながら彼女は身悶えし、膝を曲げ、腰をくねらせ、時折泣き声を上げて、自身を苛む情欲を全身で表現する。いつしか彼女は両手を私の足首に添え、拝むようにこの一方的な性愛行為に耽り続けていた。
さて。
彼女の時間はここまでとして、次は自分の思うように振る舞うことにする。
私は顔面から右足を離し、胸骨のあたりに置きかえて、悶えつづける彼女を押さえつけた。踵まわりがさんざん塗りたくられた唾液でぬるりと滑るので、爪先側により力を入れる。くぐもった声で呻いた彼女は、静止させようという私の意図を理解したか、乱れ惑っていた格好から元のおとなしく横たわる体勢を取り直した。息はいまだ整わず、目を潤ませきって、首から上を朱に染めている。
その首に、私は、右足を乗せた。最初とは逆に、土踏まずが顎側に来る形だ。主に片側から圧迫した先刻とは異なり、正面から喉全体を踏みつける体裁になる。まだ重みはかけず、皮膚に触れる程度に足を浮かせたまま、私は彼女の顔に目をやった。小刻みにびくつきながら呆けたような声を漏らしている。目はややうつろながら私を見つめ返し、この絞首刑がいつ執行されるのかと問うていた。恐怖、期待、愛慾、被虐心、さまざまな感情がないまぜとなって彼女の内面を煮え立たせていることが、よく見て取れた。
観察を続けると、彼女は次第により息を荒げ出し、眉をしかめて、涙を浮かべながら、身体を微妙にくねらせはじめた。そのまま様子を見ているとついには、何事かを譫言のように繰り返し呟きだした。ひと思いにとどめを刺されることを待ち望んでいるようだ。ブツブツと鳴く声は、やはり潰れる前の羽虫の様を想起させた。
私は、右足に、ゆっくりと、力強く、圧力をかけた。すぐさま彼女の出す音は羽虫から潰れた蛙に変わる。歪んだ低音の呻き声が身体の奥底から絞り出される。その呼吸と血流のいずれもを容赦なく堰き止める。目玉を見開き泡を吹いた彼女の顔は全体が赤黒く染まり、手足はこれまで以上に激しくのたうち回った。踏みしめた足を更にねじ込むように喉の奥に押しつけると、彼女は掠れきった音を気道から吹き上げながら、また少量の尿を漏らした。しかし今度は止めない。そのまま圧し潰し続ける。
死ね。
完全に白目を剥いてひときわ大きく脚をばたつかせたかと思うと、急に彼女の肢体の動きが鈍くなった。断続的に痙攣している。失神したのだ。
胸の動きから彼女に呼吸があることを確かめ、私は右足を下ろした。
・・・
振り返ると結局、本気で体重をあずけた瞬間はなかったので、それを踏みつけたと総括してよいものか、私はどうにも迷っていた。足裏を使ったスキンシップ、という程度が適切なようにも思える。
頭蓋や腰などは十分に頑丈なのかもしれないし、掌などはよほど安定して体重を乗せられるのかもしれない。初実験を終えて、試してゆくべき事項はさまざま考えられた。
ベッドの縁で水を飲みながら、彼女の目覚めを待つ。
夜の長さは、私の知的好奇心がなお新しい発見を得られることを約束していた。
ライター:ama
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