寝るのが怖かったころ
死を考える
小学3年の時に山岡荘八「徳川家康」と「はだしのゲン」を同時に読みはじめた。
母と大ゲンカして、なんかムシャクシャしてすごく難しい思考をしたくなったらしい。
そこからドン底に突き落とされ、3、4ヶ月四六時中、死についてアタマから離れない状態になった。
特に夜はもう思考しかすることがない。頭はパンパン。
なぜ今生きているのか。
死んだらこの思考はどうなるのか。
思考が無くなり自分がなくなるのは悲しすぎて怖すぎる。どうにかならないものかと思うけれどどうにもならない。
自分の中では相当苦しんだけれど、さすがに半年もすると苦しむことに飽きてしまった。というより、あきらめがついた。
とにかくいつ死んでも後悔しないように生きていこう。
あらゆることに意識的に感情が動くようになったのはその頃からだとおもう。
寝るのが怖い
幼いころから寝るのは苦手だった。何しろ思考がワサワサ増えてきてうるさい。収まりがつかなくなる。
死を考えはじめてからは寝るのが怖くなった。意識を無くしているんだから。どこから無くなってるの?わからない。わからないのは怖くない?
そんなこと考えながら寝落ちする自分を見張っているわけ。
明日朝、目を覚ます保証はどこにもない。
これも毎日恐怖していたら飽きてきた。
恐怖が無くなり残ったものは
盛大に怖がっているときは、気がくるうかと思ったが、自分でも呆れるほど健全なたくましい小学生だったので、怖がることに飽きてしまった。
あとに残ったのはあきらめと虚ろな気持ちと周りに対する愛。
感情がどんなにいやがっても、所詮は生きもので、それ以上でもそれ以下でもないのだと諦めがついた。
それでも毎日、生命の尊さと奇跡と無になる絶望感を味わっている。
それを全部包み込むのが、愛。あっという間に、でもひたすらに生きるすべてに対して哀しいくらい愛おしい。
現在の世の中で
今、かつてないほど死が身近な存在として、全員に認められている。正直言ってこれほど生きやすいことはない。死が身近に感じる人は常識や正義を押しつけてこない。
明日死ぬつもりで熱血して生きても引く人が少なくなる。
オトナになる過程でずいぶん引っ込み思案になって、人生をあきらめていた。自分に対してすごく失礼に生きてきた。
だれかの人生も自分の人生もおんなじくらい価値があるってこと、忘れていた。
まだまだ非常事態は進んでいる現在。とても思考がクリアになり、こころとからだが一致している。
正直な、正直なところ。
さぁ、動け!
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