ぶっちゃけ話2〜子育てについて
子どもといえども他人なのにぶっちゃけるわけ
子育ては本当に素晴らしいギフトでした。毎日毎日スリリングで予期せぬ方向から矢が飛んできて飽きる暇がないくらいでした。今も大いに楽しませていただいています。
ただ常識とか周りとの関係の中ではツライ思いもしましたし、切ない思いもしました。
子どもといえども他人なのだから、本人が言わないなら親は言わない方がいいという意見はあるかと思います。
パターンによって違いますが、ウチの場合は息子が一切悩んでいなくて気にしてないこと。昔の自分を知ると「おもしろい〜!」とウケていること。おそらくはアーティスト気質で生きていくであろうこと、などからわたしがぶっちゃけようと思います。
なぜかというと、子育てで悩んでいる人を元気にしたいからです。
興味本位でとやかく言う人はいっときの娯楽として消費して、実は気にもしていないものです。
でも、悩んでいる人にとってはエネルギーになるかもしれない。だから書いておきます。
先天性甲状腺機能低下症
漢字がいっぱい!出産後退院して即呼び出された症名です。わかりやすくいうと、生まれつき成長ホルモンの分泌がヘタクソ。
判明したら補えるけど、それまでに不足していたかどうかは成長しないとわからない。一生足りないことには変わりはない。(成長がとまれば補う量は安定したり少なくなっていったり)
祝福の退院から赤ちゃんを冷たいレントゲン室で喉やら膝やらを撮影しに戻るというのは想像する以上に切ないことでした。
わたしは知能が低くても全部覚悟決めようと撮影を待ちながら思っていましたが主人がツラそうなのが可愛そうやら、「しょげるなーーッ」と思うやらでした。
薬は息子が笑ったら霧散するような微量で、摂取させたのかわからないくらいでした。
しかも!
幼児になるといたずらっ子の気持ちがムクムクしてきて、舌の下に隠して後から出したり、手品みたいに「今から口に放り込むよ!見て!」と後ろに投げといてパクッと口を閉じたり。
症状そのものは幸いなことに何もありませんでしたが、血液検査は毎回成績が悪かったです。
ありがたいことにお医者様に恵まれて、「クスリをマジメに飲まない」ことを前提に量を出してくれましたし、毎回毎回のんびりとクスリがなぜ必要なのかを語ってくれました。
ちなみにこの症状はわたしにとって、大きな出会いをもたらしてくれました。
4年前に知り合った関西の現代舞踊家にたくさんの励ましをいただいていますが、そもそもの出会うきっかけは彼女がこの症状があることを綴っていたからです。
そんなからだと付き合いながら、好きな道を鍛錬している人に会いたくて出かけたのが独立の遠因になりました。
というのも、彼女もわたしと同じ魂を持っていて、神戸淡路大震災をきっかけに師の元を離れたのだとそのときに語ってくれたからです。
学校からの呼び出しと親のカウンセリング
幼児もかなり強烈なエピソードはありますが割愛して、小学生の頃の子育ては学校での人間関係がかだいでした。
小学2年のときに新任の先生にあたり、呼び出されて「もう限界です」と泣かれてしまいました。
聞けば水道の蛇口を逆さまにしたので注意したところ、エスカレートしてクラスメイトを巻き込む騒ぎになったとのこと。
息子を育てる上でとても重要な考え方があって、「あなたが好きなことでもみんながイヤなことがあるの」と伝えないといけないのです。
水がピューッと出るのをみてステキだとか、濡れるとさらに楽しくなってくるとか。まわりがキャー!というとなんかたのしいとか。自分の楽しいが周りとズレている。
小さい頃はそれでしょっちゅう、わたしが呼び出されたり、毎日様子を連絡して来たり(異常なしでも!)、1週間半日学校で見学して欲しいといわれたり、親だけのカウンセリングを受けてくださいといわれたりしました。
幸いにも次の年からはずっとベテラン先生にお世話になり、先生を精神的に参らせるのは避けることができました。
家庭訪問で4月は親のしつけを疑われても9月は共感され、3学期はエールして終わるパターンになりました。
わたしが心がけたのはとにかく良い先生に巡り合えたと感謝し伝えること。息子に悪意がないことや先生にお世話になることを信頼していると伝えること。
息子は小6になって、「おかあさん、ぼく、なんでみんなにいやがられていたか、やっとわかったよ」っていいました。
幼児から「あなたの楽しいはみんなのイヤのこともあるからね。自分が嫌がることはしちゃいけないっていうけど、あなたの場合は違うから」って言い続けてきたから
「今かい!」と思う気持ちはありましたが、「意外に早いな〜」と感動する気持ちもあり、届いていたんだなと思うとうれしかったです。
変わった息子に慣れてくれた地域の同級生たちにも感謝しかありません。
おねしょ、夜驚症など
むすこのおねしょは不思議でお泊まり保育では大丈夫。でも普段はおしっこシートを押しのけてやる。やっても気にしない。大きくなっても気にしない。
まぁ、肝心なときはやらないかなぁとこっちもゆったり構えていたら中3になったらやらなくなりました。
夜驚症は夜中にいきなり叫んで立ち上がるんだけど現実世界にはいない状態です。
最初の頃は「大丈夫よー安心して〜」なんて抱きしめて母してましたが、全く存在認めてもらえないし、記憶も残らないようなので、
そのうちわたしも慣れてきて「はーい、いらっしゃーい」みたいな気持ちでケガだけ気をつけて見守るようになりました。小学生までは続いた気がします。
高校生のときに息子に話したら「なにそれ!ぼく、おかしいじゃん!笑える〜」と爆笑してました。
微笑まない、ハイハイしない、競う気がない
わたしは無条件に愛するもの、愛されるものに憧れて出産したのですが、肩すかしの連続でした。
赤ちゃんのときは微笑まないのでびっくりでした。ギョロッと見てるか、バカ笑いのどちらかだけ。
ハイハイもとうとうしなくて、ずっと座りっぱなしである日一晩中、立つ稽古につきあわされて、翌朝は立てるようになりました。
誰かに頼ることがなく、母が居なくてもOKな子でスーパーの警備員さんでも母を置き去りについて行きました。
迷子になっても平気な顔で歩き回るので、今生の別れと覚悟したのは一度や二度ではありません。見つけても泣いて嫌がられました。
競う気がゼロなので、親の方がほんとうに修行みたいでした。「がんばれ!」って言ってもがんばる気がないんですから。
一番学んだのは親が変わらなければ状況は変わらないということ。
実は学校から呼び出されたころ、わたしはまともな親でありたくてガミガミうるさい普通の母でした。
ちゃんと教育して、しつけていると認めてもらいたかったのです。それで息子と日々ギャアギャアにやり合っていました。
「おかあさん、息子さん、目が三角になってますよ」と指摘されたんです。「今まで一人でよく頑張ってきましたね」と学校カウンセリングでも言われました。
でも。
それは特殊学級に行くとか、特殊学校に行った方が良いかも、という指摘でもあったのです。
いろんな制度や障害について学んでいくうちに、息子の場合は自分で生きていく可能性を残してあげたいと思いました。
ある意味、「〇〇と〇〇は紙一重」のどちらでもあることはわかっていたからです。
日本の教育制度や社会制度に合わないだけで、可能性を潰す権利は自分にはないと思いました。
なので、こう提案したんです。
「今まで自分が受けてきた教育の通りに育てていました。それを捨てます。息子に合わせて教育してみます。ですからしばらく時間をください。それでも変わらなかったら転校もやぶさかでは無いです。」
そう、なぜか、「やぶさかではない」なんて言葉使ったんで覚えてます^ ^
数ヶ月後に「おかあさん、〇〇くん、目がおだやかになりましたよ。全然変わりました!」って言われました。
自分の常識を捨てて相手を見つめることがどれだけ大切かわかります。
もちろん生易しいことではないです。実親からは「母親業を怠けてる」と言われたし、ダンス仲間も「しつけてない」と思っていたでしょう。
それを全部覚悟の上の賭けでした。息子を全面的に信頼したし、息子の人生を優先させるべきだと思ったのです。
子育てで学んだこと
とにかく大切なことは生きていく力強さだと思っていました。どう考えても息子は会社員とか集団行動とか無理そうだし。
だから彼が一人で生きていけるのが最終目標でそこに至る道はどうでもいいと思ったし、それを小さい頃から言い続けています。
今もかなりのマイウェイを歩んでいますが、好きな分野で仕事も見つけ、人間関係にも恵まれてわたしよりもずっと優れた魅力的な人間になってくれています^ - ^
子育てで学んだのは、相手が悩んでないなら常識はずれでもいいということです。オネショとかね^ ^
親が動じないと子どもは安心します。安心して行動できるようにさせてあげること。手は出さないで見守ってトコトン愛してあげるのが、親の役目なんだなぁと思っています。
トップの写真は息子の初CD^ ^
大学受験が終わってピアノを弾き始めた息子はジャズ研に入って自作曲をCDにしました。で、自主退学してジャズ研で活動しながら(笑)ジャズCDのお店でバイトしてます。
今はとことん集中する時期でしょう。脇目もふらず磨く時期。いずれは社会を見渡す時期がやってきますし、ニーズを考える時期がきます。
それまではトコトン磨いて欲しいと思っています^ - ^加茂雄輝チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCPPPUlMbNvImy0ZGmHHUMMg