自分の当たり前って気づかないもの
常識は当たり前すぎて気づけない
何の転換期なのかと思いますが、最近自分の当たり前にやっと気づき始めています。そして当たり前を乗り越えるって実は疲れるってことにも気付きました。
例えば踊り関係、シューズや衣装を自分で決めるのに疲れます。お金を使うことに疲れます。なぜだろうと思ったら、研究所にいた頃は衣装をこうしたいなんて考えてはいけないから考えたこともなかったんですね。衣装代が高いからいつも大変だった。
衣装のこと考えていいんだよ。衣装代は高くなくてもセンスを磨いていけばいい。自分に許可を与える作業をしています。自分で禁止しているなんて思ってもみませんでした。
踊りの質を変えること、表情を出すことも勇気が必要です。顔で踊るなという言葉に囚われていたことに気付きました。身体全体の思いが顔に出るならそれは自然なのです。
禁止していたのは自分で、でも気づいていなかったんです。
禁止するのはすべて自分
わかったことは過去の理由はどうあれ、決めているのは自分だということ。そして、禁止事項は気づいてもいないということ。
そして、許可を与えるのも自分しかいないんだってことです。
プラスして、自己責任ではあるけど、人の力は必要です。理解して応援してくれる人がいたからこそ、自力で動くことができるわけで、これが非難されたりバカにされたり説教されたら気づいたところで許可をする気にはならないんですよね。
意固地になっちゃうだけです^ ^
人に支えられて生きている
自分で気づいて赦して、乗り越えていかなきゃいけないけど、それには人の出会いが必要なわけで。結論的には人に支えられて生きているんだなぁと思っています。
生まれてこの方、衣装考えるの当たり前で、踊ることを周りからあたたかく見守ってもらった人はなぜいい大人が子どもじみたことを言っているのかと思うかもしれません。
こんな葛藤があることを理解できる、そしてそれを乗り越える辛さを理解できるのは価値あることだと思います。
誰かの役に立つし、共感を持って励ますことができます。どんな経験も何一つ無駄なものは無いのです^ - ^