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人が自分の鏡なら

見ている世界はあなたの解釈

怒りんぼの人がいるとします。

あなたはその人をどんな人だと解釈するでしょうか。

怖い人。

頑固な人。

ワガママ。

怒っている人。

不安な人。

寂しがりや。

怖がり。

いろんな捉え方ができるんですよね。


私は寂しいんだろうな、とか不安なのかな、怖がっているのかしらと思いがちです。


それは、自分の中にある思考パターンで考えるからなんですね。


つまり、自分の中にあるものから相手の寂しさや不安、恐怖を感じとっているんでしょう。

亡き人への思いは自分の投影

これが亡くなった人や自然現象となると相手の思惑はなく、ただ在るわけで完全に自分を投影する形になります。

一人じゃ寂しいだろう。

これが食べたいに違いない。

こうすると喜んでくれているに違いない。

相手の思考パターンを把握している場合もあるけど八割がたは自分の推測と感情ですよね。



ただ投影が悪いわけではないのです。

むしろそれは癒しとして必要だったりするでしょう。


他人に押し付けないように気をつけるだけです。

あなたの思うあの人は寂しがり屋でも、他の人にとってのあの人は必ずしもそうではないわけです。


私の思い出す父の姿は投影なのか

父は死ぬことが怖い人でした。死に近づいているのをとても怖がっていて何とか努力やトレーニングで脱出する希望を探していました。

不安がる父にわたしは、充分に努力の甲斐あって改善してるし、今の状況は上出来だと言い続けていました。

本当にそう思っていたからです。努力家で真面目。言われた通りに地道に足腰を鍛えたり、呼吸を整えたりして体の使い方は丁寧に素晴らしくなっていきました。

肺は鍛えられないけれど体の使い方は格段に良くなっていったのです。それは私にとって奇跡に近いくらい上出来なことでした。

じゃあなぜ亡くなったのかと言う人がいたなら、体の使い方がいくら上手い達人でも寿命があるのと同じことです。

死ぬことは怖いことではない、私も父も大して時間を違えず生きている同士。何も怖くないから大丈夫。大丈夫。と父に言い続けていました。

耳だけは最期まで聞こえるという話を信じて、ささやき続けました。

死は怖いです。正確に言えば、この思考する我が無くなる空しさがあります。

怖がるのはもう小学生の頃に飽きてしまいました。怖がるヒマがあるなら体があるうちにやりたいことやったらいいと思ったんです。

私にとってやりたいことは、この生身を使って表現することでした。

父に語りかけた大丈夫、という言葉はおそらく自分への言葉なのでしょう。

入院中、父はよく私に聞いていました。

体の使い方はこれで大丈夫?
お店の方は大丈夫?

大丈夫だよ。

父の不安な気持ちに自分の不安が重なり、そんな投影に向かって語りかけています。

亡くなった今、寂しいそうだと思うなら寄り添って、不安に思うなら安心させていきましょうか。思いを馳せる感情は自分の映し鏡ですから丸ごと供養していこうと思っています。


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