最近考えていること 1
どうも、Anteaterです。
今回は私が最近よく考えていることについて書いていこうと思います。
本当は読みやすくまとめて書きたかったのですが、ただ書きたい欲が暴走してしまったため大変まとまりのない文章となってしまいました。
ご興味のあるところだけでも読んでいただけたら嬉しいです<(_ _)>
それでは⇩⇩
最近考えていること 1
①推しについて
皆さんには推しがいるでしょうか?
私にはいます。
しかも、結構たくさんいます。
私の肌感覚ですが、推し活をしている方のタイプは大きく3つに分かれると思っています。
1. 推しはこの世界にただ1人/1組だけ。
2. 推しは複数、メインで推してる1人/1組とそこまでじゃないけど好きな推しがいる。
3. 推しは複数、一時的にどれかに偏ることがあっても基本的にはどの推しも同じくらい好き。
推しがいる皆さんはどこに当てはまりそうですか?
以前Twitterでこの質問をしてみたところ、私のフォロワーさんには3のタイプの方が多いことがわかりました。
私も実際3のタイプに当てはまります。
ただ、推し事には正解も不正解もありませんので、皆さんの推したいように推し事をしていくのがいいのではないかな、と思っています。
さて、ここからは「推しがいるとどうなるのか?」について書いていこうと思います。
これを読んでくださっている方の中には「私には推しがいない」「推し活の何がいいのかわからない」と思っている方もいることでしょう。
そんな方々や、更に推し活の魅力を深堀りたいという方々に向けて私個人の意見を書かせていただけたらと思います。
推しがいることの一番のメリット、それは「頑張るパワーをもらえること」だと思っています。
そもそも「この人/グループを推しにしたい!」と思ったということは、その人/グループに何か魅力を感じたからではないでしょうか。
歌や演技が上手い、話が上手、顔や声がいい、といったその人がもつ身体的特徴や能力に惚れてしまうこともあるだろうし、とにかく真面目、意外とユーモアセンスがある、○○に関しての知識量が凄い、とにかく楽しそうなのがいい、等その人の性格的な部分に魅力を感じることもあるかもしれません。
そんな魅力あふれる「推し」が頑張っている姿、一生懸命に取り組んでいる姿を見ると「私も頑張ろう!」と自然と鼓舞される気がします。
推しで養った英気を仕事や勉強、私で言えば研究活動の原動力とすることで、より良いパフォーマンスが出来るのではないかな、と思っています。
そう考えると「推し」の存在を軽視することはできないのでは、と個人的には考えています。
(まだまだ好きなことに熱中している人を馬鹿にするような風潮が根深く残っているのは残念だな、と感じています。)
②生きる軸について
突然ですが、皆さんには生きる上で大事にしている「軸」なるものはありますか?
私は数カ月前まで就職活動をしていて、よく面接時に「企業選びで大事にしている軸はありますか?」と聞かれました。
就活は正直企業をいかに喜ばせられるかゲームだと思っていたので、当時はマニュアル通りに答えてあまり真剣には考えていませんでした。
しかし、このところ自分がどのような人生を歩みたいのか見失ってきてしまったため、改めて「自分の大切にしている軸」について考えるようになりました。
ここで、先ほどの「推し」の話も関わってくるんですが、私は推しさん達から自分が大切にしたい軸を学びました。
それは「自分を大事にする」ということです。
私が参考にした推しさん達はどんな時でも自分のペースや考え方を大切に、それに従って生きています。
こう聞くととても自分勝手な人だと思われる方も多いだろうし、半年くらい前の私だったら参考にしようと思わなかった気もします。
しかし、これまでの経験や見てきたものから考えるに、自分を大事にできている人は自然と信頼されるし、いつも自信があって輝いているし、結果的に成果や実績を残している人が多いことに気がつきました。
この考えに至るまでの私は「自己犠牲の先で追い求めているものを手に入れられる」と思っていましたが、まずは自分を大事にして、それと同じくらい周囲の人を大切にしている推しさん達から自分を大切にする大切さを学びました。
これまでずっと他人主体で自分を犠牲にすることを軸として生きてきたので、中々軸をすぐに変えることはできなかったです。
今でも常に完璧にこの軸を持てているか、と訊かれると微妙なところもありますが、以下に書いた2つの方法(読書、筋トレ)で徐々に自分を大事に出来るようになってきています。
③読書について
小さい頃は触れる機会が多かった本ですが、大人になるにつれ意識しないと中々読む機会もない、という現状なのは皆さんも同じではないでしょうか。
私もここ最近まで全く読書習慣がなかったため、最初に本を読み始めた時は正直苦痛を感じていました。
そもそもの読書を始めた経緯等については以前の記事で書いたので、今回は先程の「自分を大切にする軸」とどうつながるのか、について書いていこうと思います。
読書をすると、当たり前かもしれませんが、頭の中が本の内容でほぼ埋め尽くされることになります。
それが私にはとても快適な時間であることに気がつきました。
私は主に平日の昼食後と休日の電車移動中に本を読んでいます。
一人行動がほとんどなのと気にしいな性格から、以前はこの時間帯が苦手でした。
「一人でご飯を食べてる寂しい奴って思われてるかな…」「向かいに座っている人にどう思われてるんだろう…」等という疑念が次から次へと湧いてきて、終始不安な気持ちでいました。
しかし、その時間に読書をすることで、そのような考えが浮かんでくる暇が無くなったため、気づくとストレスフリーになっていました。
そしてこのように必要以上に自分を責める時間を減らせたことで、自分を大事に出来る人生に近づけているんじゃないかな、と思えています。
④筋トレについて
これも経緯等については以前の記事に書いたので、「なぜ筋トレで自分を大事にすることになるのか」について書いていこうと思います。
一見すると筋線維を痛めつける行為なので、自分を大事にしているとは思えないかもしれません。(笑)
でも私からすると、自分を大事にする=自分に自信を持つことに大いに役立っているので書かせてもらえたらと思います。
皆さんにもあるかもしれませんが、私には外見のコンプレックスがいくつかあります。
その一つが「体型」でした。
20歳を境に一気に肉付きが良くなり、帰省するたびに「また太った?」「自己管理しなきゃダメだよ?」と父に言われていました。
その時はあまり実感がなかったので聞き流していましたが(笑)、次第に思うように体が動かせなくなったりすぐ疲れるようになっていたので、「これはマズい…!」と体を動かすようになりました。
数ある運動の中からなぜ筋トレを選んだのかというと、頑張った結果がもろに見えるというのと、前述した「推し」に筋肉質な人が多かったというのが理由だったりします。
ここでも推しさん達に支えられているわけです。(笑)
そんな感じで始めた筋トレですが、正直に書くと本腰を入れ始めて数ヶ月はジムへ行くことがとても億劫でした。
頑張っても全然成果が見えてこないし、体重も思うように減らないし、筋肉痛は痛いし、と中々続けて通おうという気が起きませんでした…。
それでも何とか通っているうちに次第に体型の変化を感じるようになりました。
最初は「あれ?手首と足首が少し細くなった?」というところから始まり、次第に引き締まりかつ筋肉が大きくなっていき、どんどん結果が見えるようになってきました。
そうなると続けるモチベーションが自然と湧いてきます。
また、誰かと比べてではなく過去と現在の自分を比べて成長を実感できたため、「自分でも出来た!」と自信に繋げることができ、更に自分を大切に出来るようになってきています。
⑤10年後の自分について
皆さんは10年後の自分について考えたことはありますか?
人生に正解はないので、皆さんがそれぞれ思い描く10年後が正解だと思うし、必ずしもそうなっていなければいけないということもないと思います。
私も今はこうなりたいという夢がありますが、途中で大事な人ができて変わるかもしれないし、半年後には全く別の夢をもっているかもしれません。
なのでとりあえず今の展望を描いてみようと思います。
10年後、アメリカでPh.D.を取っていたい、というのが今の夢です。
Ph.D.とは日本で言う「博士号」のことです。
なぜ日本ではなくアメリカで取りたいのか、というのには私なりの理由があります。
1つは日本ではその先の進路に不利になることがあるからです。
日本の博士号取得者の待遇は近年では改善傾向にあるものの、まだ企業側からすると専門性が高すぎて使いにくい人材、という見方をされがちです。
また大学に残って先生になるとしても、募集枠が非常に少ない上に必ずしも自分が極めてきた分野が活かせるとは限りません。
せっかく頑張って多くの時間や労力を費やして研究をして博士号を取っても、そんな扱いをされるなら取らない方がいい、というのが私の今現在の意見です。
もう1つの理由としては、日本での博士号という肩書きは世界的に通用しないことがあるからです。
あのT大学でも世界から見ると知名度や魅力度はそれほど高くなく、私の通っている某大学も世界からしたら3ケタ台の知名度です。
それに比べてアメリカには世界中でも有名な大学が集まっている上に、全世界から優秀な学生が集まります。
あくまでも身の回りの博士課程の先輩方を見たイメージですが、周囲に流されず個人で地道に研究していく環境の日本よりも、周囲も活気に満ちたポジティブな環境で研究をしたい、というのもアメリカでPh.D.を取りたい理由だったりします。
それでは、ここからは「なぜ修士号を取った後すぐに博士課程へ進学しないのか」について。
これにも2つ理由があります。
1つ一番大きな理由としては、自分の力でPh.D.を取りたいからです。
もちろんこのまま半年後くらいに修士号を取得し、アメリカの大学へ挑戦することも可能です。
しかし、もし入試に合格しどこかの大学の研究室へ所属するとなった時、万が一研究室からの給料がもらえなかったり奨学金がゲットできないとなった場合、自分で授業料を支払わなければいけなくなります。(詳細は複雑なのでここでは省きます)
そうなると学生の身分の私は両親の援助を受けて進学することになります。
修士課程までは理系だと進学する人が多いので両親も援助してくれていましたが、博士課程となると渋い顔をするだろうし、私自身もいつまでも親の脛をかじるわけにはいかないと思っています。
なので、もし自腹で進学しなければいけなくなったとしても払えるくらいの貯えを自分で作ってからPh.Dに挑戦しようと考えています。
2つ目の理由としては、Ph.D.に挑戦する前にもっとつけるべき力や知るべき世界があると思ったからです。
前者に関しては主に言語能力やコミュニケーション能力について、後者は専門性を広めることを意味しています。
せっかく一度社会へ出るのだから、人としての基盤となる振る舞いかたを学んだり、海外で通用する言語力を身に着けたいと考えています。
また、これまでの専門とはかなり毛色の違う業界を選んだので、新たな見方や考え方を学べるのではないかな、と思っています。
前述しました通り、もしかしたらこの先この夢は追わなくなるかもしれませんし、新しい夢に出会うかもしれません。
私は目標がないとやる気が出ないタイプなので、とりあえず今はこの夢に向かって邁進していこうと思っています。
以上、今回は私が最近考えていることをざっくばらんに書いてきました。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
次はいつorどんな話題でブログを書くかは不明ですが、また皆さんのお暇を潰しにかかれることを祈っています。
ご意見、ご感想、ご質問、書いて欲しい話題等ありましたら、以下のコメント欄よりお寄せください。
以上、Anteaterでした!<(_ _)>
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