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Z世代にとって「革命」とは何か──コムドットの革命について/倉井斎指

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 https://note.com/sludgea_ccelera/n/n4ff8622e8337

本記事の目的は、YouTuberグループ=コムドットのリーダーやまとの言述を対象として、コムドットの革命がもつ政治的意味を明らかにすることである。




 2023年10月現在、コムドットに関する諸々の言説はインターネット上に溢れかえっている。中でも特筆すべきはコムドットのYouTube上での戦略を分析するものである。それ自体は、現在のこの国のYouTube状況を把握するうえでも重要な作業ではある。しかし、そうした諸々の言説は、コムドットが動画を発信している状況そのものをじゅうぶんに把握していないようにみえる¹。

 やまとの「革命」の含意は、ふつう想定されるような革命一般とはおおいに異なる(そのため、革命一般と区別して、以下ではやまとの「革命」をカッコ書きであつかう)。たとえば、やまとは世代については多くを語るが、階級の話は一度もしない。むろん、それがコムドットの「革命」だからだ。

 きわめて通俗的なコモン・センスに訴えかけていえば、私たちは革命を信じられない世界に生きている。しかし、その一方で、コムドットの「革命」は絶対値的に大きな影響を与え(続け)ている²。そうであれば、まず、(1)やまとが「革命」という言い方で指示している対象は何なのか、あらためて明らかにし、その上で、(2)「革命」が置かれている状況そのものをも明らかにする必要がある。というのも、当然ながら、「革命」というレトリックが説得力をもたなければ、コムドットの活動そのものも説得力をもたなくなってしまうからである。その点で、コムドットの革命がおかれた特有の磁場とは何なのか、あらためて考えなければならないだろう。

 以下、本記事は次の手順を踏む。まず、やまとの言述を対象として、「革命」の3つの要点について明らかにする(第1・2節)。そのあとで、やまとの言述の理論的把握を試みる(第3・4節)。そして最後に、理論的把握から得られた結論とコムドットの「地元ノリ」を突き合わせ、そこに込められた含意を、やはり理論的に把握する。本記事の目的は、コムドットの革命を私たちにとってアクチュアルなものとして捉えること、ただそれのみである。当然、コムドットの「革命」はアクチュアリティをもっているからである。それを以下で示せるだけ示す。

*1:コムドットやまとの戦略分析に関しては、ニゲロオリゴ糖(2021/11/21)「コムドットはなぜ成功したのか?"YouTuberが死んだ時代"のYouTube論」(note)と、プラトン(2022/3/17)「まだ誰も気づいていないコムドットの戦略の本質を東大生が分析してみる」(note)が、重要な先行研究として挙げられる。前者はコムドットの活動をYouTube視聴の状況変化に位置づけ、コンテクスト化したものであり、後者は、「企業家」やまとのYouTube戦略を「スタートアップ」「PMF」「非スケール」を手がかりに丹念に分析したものである。本記事においても、これらの先行研究は貴重な参照点となっている。2022年以降、やまとは著書の『アイドル2.0』や対談などで、自身のYouTube戦略を公にしはじめた。いわば、戦略的にコムドットの戦略について語るようになった。本記事は、その内実もふまえてアップデートしたものである。
*2:定量的な側面から見れば、2023年10月現在、コムドットのYouTubeチャンネルの登録者数は約400万人であり、Z総研発表の「Z世代が選ぶトレンドランキング」YouTubeチャンネル部門では、2021〜2023年にかけて1位をキープしている。加えて、ねとらぼ調査「Z世代(10〜24歳)が選ぶ「憧れの経営者」ランキングTOP10」では第1位がやまと/コムドットとなっている。各調査の手法やコーホート分析が妥当か否かという点は、ここでは問わない。むしろ重要なのは、コムドットに関するこういった記事・ランキングがインターネット上に大量に流布していることにある。あえてこうも言えよう。つまり、いま日本ではZ世代の間で革命の革命が起きている、と。

脚注

※第3・4節では理論的な話題をおもに展開するが、本文に直接関係しない議論については、すべて註に回した。理解するぶんには本文を通読するだけでも充分だが、註でおこなった議論は、本文の内容を補完するものとなっているので、ぜひ読まれたい。

凡例
・やまとの著作に関しては、次の略号を使用し、[ ]内に引用箇所を示す。
 ・SE:『聖域』KADOKAWA、2021年
 ・ID:『アイドル2.0』KADOKAWA、2022年
・引用文献には、書籍のほか、動画やインタビュー記事など、諸種のインターネットメディアも多く取り入れた。なお、インターネットメディアからの引用についてはリンク埋め込みの記事・動画タイトルのみを表示する。YouTube動画からの引用に関しては、テロップがある場合は文字起こしにテロップを参照し、[ ]内に対応する指定時間を示した。


1. コムドットの「革命」

 最初に、やまとの公式エックス(旧ツイッター)での投稿および著書から、コムドットやまとが言うところの「革命」が何なのか、という点を明らかにしよう³。

 エックス上で、やまとはたびたび「革命」を入れた投稿をおこなっている(過去21回)。やまとの公式エックスで「革命」が初出するのは、確認しうるかぎり、2021年2月6日の投稿である。同時にこの投稿には、それ以前から使われていた「日本を獲る」というフレーズもあらわれている⁴。

【革命】/全国民に告ぐ/コムドットがYouTube界をひっくり返す/全員ついて来い/俺らが日本を獲る(2021/2/6

 では、どのようにして「日本を獲る」のか。2020年11月20日の投稿で、やまとは端的にこう述べている:

YouTubeを始めた理由はどのYouTuberよりも俺らの地元のノリがおもろいと思ったからで、その芯をぶらさずにここまで本気でYouTubeしてきて景色が少しずつ変わってきたけど、まだ足りない/地元ノリで日本を獲るって震えるほどカッコいいから頑張る(2020/11/20, 強調筆者)

 まとめれば次のとおりである:コムドットの(さしあたりの)最終目標は「地元ノリ」によって「日本を獲る」ことである。そして、おもにYouTubeで展開されるこのプロセスが「革命」と名づけられ⁵、かつ、そのメッセージは「全国民」に向けられている。「日本を獲る」ことが「革命」のプロセスの終わりに位置しているといえるだろう。

 より詳しくみるために、「革命」についてもう少し注記しておく。以下、特筆すべきだと思われた投稿をいくつか引用する。

「目先の小さい利益なんて眼中にない/俺らが起こすのは革命」(2021/2/26
「革命まであと5日」(2021/3/9
「変化を叩かれるのは当然/革命の最初って大体そんなもんでしょ?」(2022/4/5
「今日から6月/今年もYouTube界に革命を起こします」(2022/6/1

 この投稿群から、すくなくとも次の2点が指摘できる。(1)「革命」は基本的に未来形で語られている。また、(2)「革命」は自発的に「起こす」ものとして提示されている。加えて、やまとは「革命」に関して次のようにも述べている:「Q. 96 革命を起こした先にあるものとは? A. 次の革命です」[ID: 191]。つまり、「革命」は一回きりのものではなく、絶え間なく起こしつづけるプロセスとして理解できる。

 また、コムドットは「革命」を物語として提示してもいる。「今やっていることはすべて、日本を獲ることにつながっている」⁶。いま目の前で革命が物語として未来へ向けて起こしつづけられていること、これがやまとの「革命」の含意にほかならない。

 以上で、「革命」(YouTube〈「地元ノリ」→日本〉)の概要をつかんだ。翻って、そもそもなぜやまとは「革命」などと言うのだろうか。この疑問についても、やまとは明確に答えている:

私は、これまでSNSで「革命」「同盟」「宣戦布告」など、歴史の教科書に出てくるような言葉を多用してきたが、それは高校時代から世界史に陶酔し、大学で国際政治を専攻していたことが大きく関係している[ID: 48]。

 やまとが「革命」にこだわるのは、自身が世界史や国際政治に関心をもっていたからだと説明される。この点で、やまとが「革命」に政治的含意を込めていることは間違いない。その上、これは自身のYouTube活動のたんなる意匠のひとつとして斥けられるレトリックでもない。実際に、やまとは次のようにも述べているからである。「本当は政治家になりたかったんです。今はもうまったくですが。日本を変える方法は政治だけじゃない。違う角度から変えにいきます」⁷(強調筆者)。

「日本を変える」ことと「日本を獲る」ことが同じ現象を指したものかどうかは留保の余地があるが⁸、ひとまず、やまとが政治とことなる手段で「日本を変える」ことを目標としているのは確かである。後述するように、やまとはYouTubeを政治であると規定してもいるからだ。この点で、成田悠輔がやまとの戦略を「政治家のレベルに達している」と評したことは、一面では正しい⁹。しかし、それはあくまで一面であって、やまとの主張の重要な含意を取り逃している

 ここで、やまとが「大学で国際政治を専攻していた」ことが大きな意味をもつ。著書、インタビュー、対談等でたびたび触れられるように、やまとは大学時代、外交官を志して渡米研修にも参加したが、その夢をあきらめて起業家への方向転換をおこなった[たとえば、SE: 52-57; ID: 16-18]。外交官→起業家の移行は、『聖域』『アイドル2.0』ともに、ほぼ連続したエピソードとして並べられている。やまとがこのようにみずからのライフヒストリーを語り直しているなら、それが(やまとにとって)正統性をもつことを想定し、そこにある含意をみなければならないだろう。次節では、この点を検討する。

*3:興味深いことに、エックス上で確認しうるかぎりでは、コムドットのやまと以外のメンバー(ゆうた、ゆうま、ひゅうが、あむぎり)は「革命」という文言を盛り込んだ投稿をほとんどおこなっていない。唯一、ゆうまが3回ツイートに「革命」を入れてはいるが、投稿時期と内容からも、やまとのレトリックに影響されたものである可能性が高い。ゆえに、ここではやまとの記述のみを対象とした。
*4:「日本を獲る」の初出は2020年1月30日であり、前澤友作の20人100万円プレゼント投稿へのリプライとして投稿されている。同時期には「時代を獲る」というフレーズも散見されるが(2020/3/14, 2020/3/15)、すぐに使われなくなった。
*5:より詳細に言えば、「革命」はコムドットのYouTubeでの活動のみならず、テレビ出演などを含めたコムドットの活動一般を包摂するものである。しかし、やまと自身が明らかにしているように、コムドットの活動にとっての主要なアリーナはYouTubeである。この点については後述する。
*6:藤砂葵「やまと(コムドット)"新世代のカリスマ" YouTuber 1万字インタビュー」『モデルプレスカウントダウンマガジン』第3号, 2022年, p. 19.
*7:池田鉄平(2022/9/28)「人気爆発のコムドット、後発でも大躍進したワケ リーダーやまと「俺らが日本を獲る」の真意」(東洋経済オンライン)
*8:この点に関しては、やまと自身も「日本を獲る」の内実を詳細に構想しているわけではないので、具体的に確定することは難しい(藤砂, 前掲書)。
*9:夜明け前のPLAYERS公式(2023/6/26)「【前編】コムドットやまと×成田悠輔「もはや政治家」と成田が絶賛!YouTubeの絶対王者が「セルフプロデュース術」を語る!」[9:50 ff.]

脚注

2. 政治/経営の未分化

 やまとは外交官から起業家へ方向転換をおこなった。これは、政治のアリーナから経営のアリーナへ、みずからを位置づけ直したようにもみえるが、やまとの著書をよく読めばわかるように、やまとは政治の領域と経営の領域を区別していない

 この方向転換についても、やまとは『聖域』で明瞭に説明している。大学時代のやまとはミスコン出場後、『24』を観て「外交官ってカッコいいなとぼんやり思った」[SE: 53]。その後、やまとはアメリカでおこなわれた政治外交の研修に参加するが、外交官に「派手さはなく」[SE: 53]、「膨大な時間をかけて一つの結果を出すという仕事に対して、自分には向いていないと直感的に理解した」[SE: 54, 強調筆者]。その後、水球部時代の先輩に相談し、やまとは「自分の性質」が「トップとして組織を引っ張り、何か大きなことを短期間で成し遂げることに幸せを感じる」ことがわかった[SE: 55-56, 強調筆者]。やまとの謂では、このようにして外交官から起業家への方向転換がおこなわれた。

 ここでの要点は、上に強調したように、「外交官」と「起業家」がどちらも「仕事」であり、その2つの差異は得られる「結果」に到るまでの時間の長短として捉えられていることである。つまり、政治/経営は、どちらも、ある成果への労働の量的な差異としてしか把握されていない。ならばむしろこの2つに質的な差異はないと見るべきだろう。やまとは外交官と起業家をはっきりとは区別していない。もっと言えば、やまとは外交官政治家に特有の政治性については語っていない

 こうした政治/経営の未分化は、コムドットのYouTube活動にとっても不可欠なものとなっている。たとえば、次の記述:

民主主義では到底成し得ないスピード感を出すことが独裁体制ならできるのだ。/事業に必要なのは、早く失敗か成功をすることである。独裁であれば1人の決定に従い行動することで、圧倒的なスピードで結果を出す可能性が開けるのである[ID: 139, 強調筆者]。

 ここでも、政治の語彙が経営の領域に持ち越されている。そして、「YouTubeの最大の利点は、ものすごいスピードでトライ&エラーを回せることである」[ID: 55]。むろん、企業経営を政治のことばで語るような言辞には手垢がついている¹⁰。むしろここで重要な論点は、「独裁がYouTubeの最大の利点と重なっていることである¹¹。それゆえ、YouTubeというアリーナはコムドットの活動にとって重要な位置を占める。

 では、やまとはどのように政治/経営を未分化なものとして思考しているのか。手がかりはコムドットの動画にある。2020年7月2日に公開されたコムドットの動画「友達の大切な本でドミノしたらブチギレたwwww」では、やまとの蔵書が一部ではあるが公開されている。3年前の動画なので網羅的であるとは言いがたいが、やまとの思考の一端をうかがい知るうえでも、論を補強しうると考える。

 やまとの蔵書137冊をリスト化したものが以下のCSVファイルである(ブックカバー付きの書籍は除外した)。

 この表から、すくなくとも次の事実が指摘できる。第一に、やまとの蔵書は心理学政治学経営学の3つのジャンルに分類できる¹²。心理学ではメンタリストDaiGoの著作が、政治学では国際関係論の著作が、経営学ではリーダーシップ論の著作が大半を占めている。この心理学・政治学・経営学の3分類は、やまとコムドットの革命の中で強固に結びついている。端的にいえば、やまとにとっての政治と経営はイコールで結ぶことができる(政治=経営)。そして、この政治=経営を可能にするためにこそ、心理学(人心掌握)が要請されるのである。

 やまとの政治の語り方に注目すれば、この点は明らかとなる。たとえば、次の記述:

YouTubeを始めてから1年ほど経った頃、とある先輩から「YouTubeは政治だ」という言葉を受け取った。[…]私はその言葉を、YouTubeは自身のチャンネルだけで運営するのは難しく対外的な関係性が重要だと解釈した[ID: 48-49, 強調原文]。

 やまとにとって政治は「対外的な関係性」を指している。では政治=「対外的な関係性」とは何を意味しているのか。この点についても、やまとは明確に答えている。

 やまとは2022年5月11日公開のコスメティック田中とのコラボ動画¹³で、自身が国際政治を学ぶうえでもっとも興味深いと感じた理論としてゲーム理論を挙げている[9:40-9:56]。そして、「対国」の「同盟」関係が「人間関係」にも「当てはまる」とする[9:56-10:06]。やまと本人によるこの指摘はやまとコムドットの革命の理解にとって非常に重要である。ただ、これは国際関係と同様の政治性を、「人間関係」がもつという意味ではない。やまとが政治/経営を未分化なものとして捉えていることは上に見たとおりだ。では、ゲーム理論が人間関係にも当てはまるという言辞はいったい何を語っているのか(あるいは、語ろうとしているのか)。次節では、この点を明らかにしよう。

*10:フーコーによれば、経済のアリーナが国家を「正当なもの」として創設することを主張する種類の言説があらわれたのは、第二次大戦後のドイツの国家改革においてであった(『生政治の誕生』慎改康之訳, 筑摩書房, 2004/2008年, pp. 100-101)。典型としてはハイエクの「自生的秩序」論が挙げられる。
 同時代人のドラッカーは、企業経営と政治を結びつけた論者の代表格である。当時、ドラッカーは明確に、全体主義へ抗して「経済人」から「産業人」への変化を跡づけた(『「経済人」の終わり』1939年、『産業人の未来』1942年)。一見したところ、ドラッカーとやまとの問題関心は一致しているように見える。しかし、やまととは異なって、ドラッカーがマネジメント論を要請したのは、社会への個人の位置づけが問題となったためである。以下で詳細に述べるように、もはやそのようなマネジメントが社会と関わりをもたなくなった現在どのように企業経営を語ることが可能なのかが、より重要な問題として浮上する。
*11:これは、そもそもYouTubeのコンテンツ消費のスピードがきわめて速いことと関係している[ID: 90-91]。つまり、より細かく見れば、ここには①「独裁」のスピード、②事業のスピード、③消費のスピードの3つがある。この3重のスピードは、「YouTubeのコンテンツ消費があまりに速いために、事業が要請され、かつその中でも「独裁」によって消費のスピードに追いつかなければならない」という仕方で整理することができる。
*12:この分析はやまとの次の証言からも補強できる:「大学に入ってからは、自分の専攻分野である国際政治の本に加え、心理学や哲学、ビジネス書など興味を持った分野を片っ端から読み潰していった」[SE: 90]。
*13:コスメティック田中(2022/5/11)「コムドットやまとに謝罪してきた

脚注

3. 市民社会論と革命

 やまとの「革命」は、やまとの理解する政治=経営と密接に関わっている。この政治と経営を橋渡しするのがゲーム理論の人間関係(人心掌握)だといえる

 本節と次節では、やまとの言述の理論的な側面に踏み込み、ゲーム理論について、また、「人間関係」の含意について明らかにする¹⁴。むろん問題となるのは、どのような「人間関係」なのか、という点である。

 以下では、2つの「人間関係」を詳説する。本節では、ながらく革命と縁のあった市民社会論¹⁵を検討し、道徳や規範との関わりのなかで、「市民社会における人間関係」を明らかにする。そして、次節で「ゲーム理論における人間関係」を明らかにする。それが、コムドットの「革命」と大いに関わってくるからだ。

 まずはヘーゲルマルクスの市民社会論について説明しよう¹⁶。市民社会は文字通り市民によって構成される社会を指すが、ここで問題となるのは、(1)国民や家族成員と区別される「市民」を構成するものは何か、また(2)市民社会における市民間の関係──「人間関係」──とは何か、という点である。端的に言えば、市民社会が他集団と区別される指標とは何なのか、という点が問題となる。率直に、市民社会とは国家でも家族でもないものだ、と否定的に答えられるかもしれないが、それでは答えたことにはならない。ある国家が国家より下位の行政区画をもたない場合に、「国家でも家族でもないもの」とは何なのか、という概念的な把握をこそ問わなければならないからである¹⁷。

 市民社会論は、16世紀以降、おおむねアリストテレス(政治学)→スコットランド啓蒙→ヘーゲル゠マルクスの議論を主軸に発展してきた。ここでは、ヘーゲル゠マルクスの市民社会論を参照する。その理由は2つある。第1に、ヘーゲルの市民社会論はスコットランド啓蒙の議論を引き継ぎながらも、そこに決定的な断絶を持ち込んだからである¹⁸。第2に、ヘーゲル゠マルクスの市民社会論が、革命の条件を陰に陽に規定していたからである。

 まず、マルクスが受け継いだ(と想定しうる)ヘーゲルの「市民社会の原理」を確認しよう(あくまで基本中の基本の説明なので、ヘーゲルとマルクスに馴染みの読者は読み飛ばしてもらってかまわない)。

 ヘーゲルは困窮者の生計が、労働によって媒介されずに社会福祉によって直接的に埋め合わせられることを、「市民社会の原理に、すなわち、市民社会の諸個人がもつ自立と誇りの感情という原理に反する」¹⁹ (強調引用者)として批判する。ヘーゲルの見立てでは、このような「市民社会の原理」と労働とが結びついている。市民社会の「理念の関心事」は、なによりその成員の「特殊性のうちにある主観性を陶冶する教養過程」²⁰だからである。つまり、市民社会とはその成員(市民)が「労働」によって自己陶冶のプロセスを経るアリーナである。それゆえ、市民とは労働者を指している。加えて、「自立と誇りの感情という原理」といわれるように、市民社会とは道徳の場でもある。

 議論をマルクスへ移そう。マルクスはヘーゲルから何を受け継いだのか。率直にいえば、それはこのような労働者で構成された市民社会の、(超越論的な)道徳の場としての把握である。このことを確認するため、以下、価値形態論と労働価値説について述べる。先に結論を言えば、価値形態論と価値実体論(労働価値説)の襞が、市民社会を「神秘の場」²¹として構成している。

 労働価値説は、文字通り、労働力が商品生産の価値の源泉であるとする説である。しかし、単なる労働者の労働(具体的有用労働)は、そのままでは価値の基準とならない。つまり、具体的有用労働がいかにして抽象的一般労働へ転化するのか、を明らかにする必要がある。ここでマルクスは価値形態論を展開する。

 まず、マルクスは商品A(上着)と商品B(リンネル)の2者関係から議論を起こす²²。商品Aと商品Bが等価交換される場合、A=Bという等式が成り立つが、これはまだ相対的な価値形態でしかない。それは、この等式が他の諸商品と結ばれても同じことである(A=B=C=D=E=…)。これら諸商品の一般的な価値をあらわすのが、「他の諸商品にたいしてすでに以前から商品として相対していた」が、「他のすべての商品によって等価物として排除される」²³もの、つまり貨幣(金)である。この貨幣が一般的な価値をあらわすことで、具体的有用労働が抽象的一般労働へ転化する。このとき、「一般的労働時間の一定量」は「商品等価物の無限の系列で直接に展開される」²⁴(強調引用者)。つまり、諸商品間のネットワークの背後には、「価値の源泉」である労働力が控えている。

 このように、たんなる一商品にすぎなかった貨幣が一般的な価値の指標となる「神秘」が、労働力を労働力として担保し、それゆえに労働者によって構成される市民社会をも担保する²⁵。絓秀実が価値形態論と価値実態論(労働価値説)を「経験論的゠超越論的二重体」(フーコー)として取り扱ったように²⁶、市民社会はそのような、内部に外部が折り込まれた襞として構成されている。上で提示した疑問に答えれば、(1)「市民」を構成するものは労働力であり、(2)市民間の関係は価値形態論という超越論的な道徳に支えられたものである²⁷。そこでは市民社会とは、目にみえない(=実態としてあらわれない)が、目にみえる(=経験的な)ものを支える「神秘」の賜である。この「神秘」がなければ、市民社会の道徳は成立せず、革命も成立しえない(楽園を地上に引きおろすこと)。さらに付け加えれば、このような「市民」(商品)の等価性は、国家を越えた「市民」間の横断性をも可能にするだろう。

*14:以下、本節ではさまざまな論者を挙げるが、ほんらい必要であった議論をかなり切り詰めていることは否めない。これは端的に筆者の力量不足である。
*15:市民社会論は長い歴史を持ち、さまざまな分野で議論が非常に多く蓄積されているため、ここでそのすべてを通覧するのは不可能である(また、その必要もない)。市民社会論の広範なレビューについては、植村邦彦『市民社会とは何か──基本概念の系譜』平凡社, 2010年, を参照。同書は、アリストテレス『政治学』の16世紀以降の受容、20世紀以降の日本での議論の発展、近年のグローバル市民社会論の検討などを、一通りおこなっている。
*16:市民社会(civil society, bürgerlich Gesellschaft)の定義に関しては(1)分析上の定義と(2)イデオロギー上の定義に大別しうるが、以下ではイデオロギー上の定義に絞って記述する。
*17:もちろん、このような思考実験は、一般的な市民社会論ではふつう想定されない。筆者がここで問題とするのが市民社会のイデオロギー的側面であるために、概念的な把握が要請されるのである。
*18:リーデルは、ファーガソンなどの市民社会論を「伝統的な市民社会概念」として括り、ヘーゲルの市民社会論がそれとはまったくことなったものであったことを強調している(マンフレート・リーデル『ヘーゲル法哲学──その成立と構造』清水正徳・山本道雄訳, 1969/1976年, pp. 165-167)。簡単にいえば、それ以前の市民社会論では、政治社会と市民社会の区別が厳密ではなく、したがって臣民/市民も区別されていなかったが、ヘーゲルがアダム・スミスを経由して、この2つを切断した上で、マルクスがその議論をさらに発展させた、とまとめることができる。
*19:G. W. F. ヘーゲル『法の哲学(下)』上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳, 岩波書店, 1821/2021年, p. 166.
*20:同書, p. 83.
*21:J.=F. バイヤール『アフリカにおける国家』加茂省三訳, 晃洋書房, 2023年, p. 195. 周知のように、アフリカ市民社会論の基礎を打ち立てたバイヤールは、『ドイツ・イデオロギー』の市民社会概念を援用し、アフリカ国家では「市民社会での不平等な諸線」と「親族の諸線」とが混同されていることを指摘した[195]。つまり、私的領域と公的領域の未分化である。しかし、そのように未分化であるなら、なぜそれを「市民社会」概念として括る必要があるのか不明瞭となってしまう。このことは本論にもいえる。つまり、政治゠経済の弁証法である市民社会が衰退したからこそそれを市民社会と名指す必然性も衰退したということだ。
*22:カール・マルクス『資本論(第1巻第1分冊)』大月書店, 1968年, p. 65.
*23:同書, p. 93, 95.
*24:カール・マルクス『経済学批判』杉本俊朗訳, 大月書店, 1859/1953年, p. 78.
*25:この点は、初期マルクスの国制論をあつかったアバンスール『国家に抗するデモクラシー──マルクスとマキャヴェリアン・モーメント』を見れば、よりはっきりするだろう。アバンスールによれば、初期マルクスはフォイエルバッハの疎外論(神の全能性←人間の自律性)にさらにひねりを加え、国家の全能性と社会の自律性との関係を逆転させた。そのうえで、市民社会(私的領域)と切断された政治の場(公的領域)へ参入する民衆が、ある国制の中で客体化される。「政治的国家の市民としての資格で、前述の〔市民社会で生じる〕諸関係に抗い、それらを政治的に拒絶しながらこそ、人間は類的存在としての本質を獲得することができるのだ」[158]。「マルクスが強調するのは、市民社会の事実性と社会構成から出発してではなく、それとは反対に、それらとその諸規定の否定によってこそ近代的な意味での代表が存在しうるということである」[158]。アバンスールの丹念な読解は、アーレントが『人間の条件』でマルクスへ差し向けた批判への実証的な回答として有効ではある。しかし、初期マルクスからの後期マルクスへの「転回」を問うにせよ、『資本論』で述べられたように、商品間の関係と人間同士の関係はアナロジーとして捉えられる。マルクスの場合は、代理表象を機能させるために労働力が必要不可欠であることは、周知のとおりである。つまり、前期では疎外論が、後期では価値形態論が前景化するだけの違いでしかない。
*26:絓秀実『天皇制の隠語』航思社, 2015年, p. 159.
*27:マルクスは率直に、「見ようによっては人間も商品と同じことである」と、商品と人間のアナロジーをみとめている(そして、これは当然の結論である)。「人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係する」(マルクス, 前掲書, pp. 71-72, 註18)。

脚注

4. ゲーム理論と社会規範

 以上で、ヘーゲル゠マルクスの市民社会論の主要なポイントは抑えられたと思う。次に、ゲーム理論と社会規範について述べる²⁸。上で見たように、社会規範はヘーゲル゠マルクスの市民社会論にとって重要なポイントだったためである。

 理論的にいえば、ゲーム理論は経済社会における個人合理性と社会合理性を対立させ、この2つの合理性をいかにして調和しうるかをおもな争点としてきた。結論をいえば、ゲーム理論では市民社会を論理的に導くことができない。なぜか。

 ここでは社会規範を例として取り上げよう。ゲーム理論も、アクター間の2者関係から議論を始める。また、ゲーム理論では、社会規範はゲームの内部における規則的行為(ナッシュ均衡)として定義される。ナッシュ均衡とは、アクター間の合意形成によって、みずからの利得を最大化しうる戦略を選択する状態を指す。社会規範は、その規範と共存する行為がナッシュ均衡に支えられるかぎりで行使されうる²⁹。裏を返せば、利得最大化が維持されない場合には社会規範は維持されない

 このようなゲーム理論による規範定義に抗したのがジェイムズ・コールマンである。もっと細かく言えば、ゲーム理論同様、コールマンも合理的選択理論に従って社会規範を検討するが、提示する規範像はゲーム理論のものとは大きくことなっている³⁰。

 コールマンは、社会規範を「どんな行為が人々の集合にとって適切で正しい〔…〕とみなされるのかを特定する」³¹(強調引用者)ものとしたうえで、社会規範発生の条件を①行為の外部性──つまり、アクターの行為の影響を受ける他者がいること──と、②サンクションの2つに求めている³²。加えて、コールマンは、アクターと「他者」間に社会的関係があること、また、その社会集団が閉鎖していることを、規範の発動条件として挙げている。つまり、「ネットワークの閉鎖性」ないし「閉鎖的社会的関係」である³³。ここでの要点は、(1)規範を導出する際に、アクターの2者関係だけではなく「他者をも想定すること、また、(2)アクターと「他者」との間に閉鎖的なネットワークが存在していることが、たんなる効率性ではない、「適切で正しい」規範の行使(およびサンクション)を導くことができるための前提条件となる、ということである。ゲーム理論では、こうした説明は想定されない³⁴。

 以上で、きわめて概略的にではあるが、ヘーゲル゠マルクスとコールマンの議論の要点を述べた。論点を整理しよう。

 第一に、ヘーゲル゠マルクスとコールマンはともに、ある社会における道徳や規範を論じる際に、ともに閉鎖的なネットワークを前提している。ヘーゲル゠マルクスの場合は市民社会であり、コールマンの場合は社会的関係である。第二に、どちらも閉鎖的でありながらも、超越論性や他者性に依拠している。前者の場合はA-B間の「貨幣」であり、後者の場合はA-B間に関係する「他者」である。乱暴な整理であることは承知のうえだが、おおかた、この2つが重要なポイントとして挙げられよう。

 この2つの議論に対して、ゲーム理論の場合も、マルクス同様、AとBとの2者関係という単純な事象からスタートする。それゆえ、ゲーム理論においてもA-B-C-…間のネットワーク関係が想定されるにせよ、そのネットワーク関係に「市民社会」という性質を与えるだけの政治゠経済的な側面が脱落してしまう。より単純化すれば、ゲーム理論は経験的だが(パレート均衡)、超越論性(コールマン的規範)をもたない。アクター間の閉鎖的でないネットワークは、それゆえある最大統治領域内の、つまり、ある国家における「国民」(GDP!)のネットワークとぴったり重なる(この延長線上に国家間のゲーム理論が位置していることは想像にかたくない)。

 ここで、本記事の一番最初に引用したやまとのエックス投稿を思い出してほしい。「【革命】/全国民に告ぐ/コムドットがYouTube界をひっくり返す/全員ついて来い/俺らが日本を獲る」。

 この点で、ゲーム理論を「人間関係」にも適用できると考えたやまとが、「革命」の宛先を「国民」としたのは理由のないことではない。ゲーム理論では市民が論理的に導出できないからこそ、「国民が要請されるのだ。これが、「全国民(国民総体のネットワーク)に告ぐ」の含意である。それゆえコムドットの(市民社会なき)陣地戦は、YouTubeを主戦場[ID: 131]としたアクター間のネットワークのしらみつぶしの制御(人心掌握)となるだろう。「国が人でできているように、チャンネルも人でできている」[ID: 31]からである。

 同様のことは、「日本を獲る」に関してもいえる。

──今後の活動は?
ゆうま 僕も大人の方にも見てもらいたいっていうのと、僕たちのことを嫌ってる人たちにも好きになってもらって、世界を平和にしていきたいですね。
ひゅうが 考えてるスケールが違う(笑)。
やまと “日本を獲る”と“世界平和”ってほぼ対義語だし(笑)³⁵。

日本を獲ることと世界平和は対立している。筆者がこれまで述べてきたことは、やまとのこの言葉に集約されている。今や、この言葉はたんなる印象論以上の意味をもっている。そもそもなぜ「日本を獲る」ことと「世界平和」が「ほぼ対義語」なのか(日本を獲ったあとに世界を獲ればいい話である)。それは、国民が可能な一方で市民が不可能であるからだ。やまとは、「革命」があくまで国内にとどまる経営戦略であり、「世界平和」とは鋭く対立するものであることを理解している。コムドットの「革命」は、このようなコンテクストから発信されたものである。

*28:以下、「アクター」や「ネットワーク」といった用語を多く用いるが、当然触れるべきであったラトゥールやストラザーンの議論には触れない。これは端的に筆者の力量不足でもあるが、言い訳を言っておけば、市民社会論との関係でゲーム理論を考えるためでもある。
*29:Thomas Voss, "Game-Theoretical Perspectives on the Emergence of Social Norms," in Michael Hechter and Karl-Dieter Opp eds., 𝘚𝘰𝘤𝘪𝘢𝘭 𝘕𝘰𝘳𝘮𝘴, Russell Sage Foundation, 2001, p. 105.
*30:以下、コールマンの社会規範論については、田島慶吾「コールマン社会規範論における「行為の外部性」、「関連した他者」及び「社会的関係」──アダム・スミス社会規範論序説」2016年,『静岡大学経済研究』第4号, に全面的に依拠している。コールマンの理論をより詳細に読み解くことができなかったのは、ひとえに筆者の力量不足である。
*31:ジェイムズ・コールマン『社会理論の基礎(上)』久慈利武訳, 1990/2004年, p. 374.
*32:田島, 前掲書, p. 189.
*33:同書, p. 193.
*34:同書, p. 192.
*35:小松香里(2022/9/28)「コムドット “日本を獲る”ために昨年末の会議で話し合ったこと」(日経クロストレンド)

脚注

5. YouTubeと「地元ノリ」

 以上で、本記事の冒頭に提示した問いの1つには、さしあたり回答が与えられた。また、これまで述べてきたような市民社会概念が、とっくに私たちのリアリティに対応していないことは、読者もお分かりのことと思う。「国家による包摂によっていまや死滅したのは市民社会の方なのである」³⁶。襞に基礎づけられた市民社会(政治゠経済の複合体)の概念はもはや有効ではない³⁷。ひとまず、コムドットの「革命」は、このような現状把握の延長線上にあることを確認しておこう。本節では、第3・4節の理論的な話題からは一旦しりぞいて、もう片方の問い、つまり、やまと/コムドットの「戦略」に焦点を当てる。

 先述したように、コムドットの活動は、おもにYouTube上で展開される。YouTubeそれ自体は単なるプラットフォームであるが、やまとにとってYouTubeは戦場である[ID: 131]。では、やまとはYouTubeという戦場をどのように捉えているのか。2023年1月30日に公開された佐久間宣行との対談動画でのYouTubeに関する分析をもとに、この点について詳述する³⁸。

 やまとにとっての一番の脅威は「切り抜き動画」である。サッカーの「シュートシーンだけを見て満足しちゃう」ような、「ダイジェストで済ませてしまう癖」が「切り抜き動画によってつけられ」た上に、「それで満足する人がメチャ増えて」しまった。そのため、「本編動画にたどりつかず再生数が乗らなくなっている」。これでは「広告も一切つかない」ので、「自分たちの商品を、勝手に転売された」(強調引用者)に等しい。このように、切り抜き動画の席巻はコムドットの動画収益に直接に影響することから、切り抜き動画への対抗戦略が重要となる。

 コムドットの対抗戦略は、動画時間の延長である。「動画を40分〜1時間の長尺」で作ることで「展開の一部始終を切り抜ききれなくなる」。「そうすれば企画の趣旨が伝わらなくなって、切り抜きや他サイトに「転売」されにくくなる」。

 切り抜き動画の参入により、YouTubeチャンネル間のパイの獲り合いは激化している。コムドットは切り抜き動画に回収されないオリジナリティによって差異化を図っているといえよう。動画時間の延長も、コムドットという商品を売り込むための戦略である。

 コムドットの商品はもうひとつある。というより、その商品が、上で述べたような「動画」商品にパッケージングされている。それがYouTube上で展開される地元ノリである。後述するように、やまとは「地元ノリ」が商品であることをはっきりと意識している³⁹。

 以前の記事で、やまとが「地元ノリ」をコミュニケーションの一部として把握していることを指摘した⁴⁰。煩を厭わずもう一度指摘するが、「地元ノリを全国へ」というキャッチコピーには、「地元ノリ全国とが互いに区別されなんらかのかたちで質的に対置しうるという含意がある。ならば「地元ノリ」がどこに位置づけられているのかを明らかにしなければならない。

 まず、率直に「地元ノリ」とは何なのか、やまとの言葉から明らかにする。

「地元ノリ」とはいつものメンバーとやる遊びや、ゲーム、特殊なかけ合い……これらはもちろんなのだが、僕が本当に全国に伝えたいのは、生き様だ。〔…〕それぞれがそれぞれのやりたいことをやっていて、それをお互い応援しあっている。/これこそが僕の伝えたい地元ノリなのだ。お笑いもそうだが、当たり前のように女性に車道側を歩かせないスマートさや、友達の卒業式に駆けつける仲のよさや、お互いの夢を応援しあえる熱さこそ、僕たちの地元ノリであり、それを全国に轟かせたいのだ。[SE: 142-143, 強調原文]

 さしあたり、「地元ノリ」は「生き様」であるが、ここには規範のようなものも見て取ることができる。「地元ノリ」について、より詳しく見てみよう。2021年4月1日に公開された動画「【重大発表あり】地元のセブンに5時間いたら友達も元カノも大集合したwwwww」が、「地元ノリ」の内実を知るうえで参考になる。本動画では、タイトルどおりコムドットのメンバーが「地元」のセブンイレブン(全国チェーン店!)で、「友達」や「元カノ」と談笑する様子が撮られている。

 動画の冒頭で、メンバーのひゅうがは「地元ノリ」に関して次のような見解を示している:

地元の人たちといるときに、地元の人たちとだけわかりあえる楽しい出来事。〔それを〕他の地元に持ってってもわかんない〔…〕他の地元と他の地元がこうなった〔接触した〕ときに伝え合おうとしないやん。地元は地元で楽しいし、おまえらはわかんなくていいし。それをゴリゴリ〔…〕わざわざ伝えて、面白いものなんだよこれはっていうのを説明してるチャンネルやん[3:22-3:57]。

 つまり、「地元ノリ」は「排他的な性質(テロップ)」[3:44]をもつが、コムドットはその排他性を踏み越える。やまとはひゅうがの後を継いで、「地元ノリ」を次のように定義しなおす:

その地元ノリって地元でやってるものなんですけど、そこに外の友達も来て、一緒に仲良くしてって、そこでまたノリが生まれる。〔…〕地元のノリっていっても、外の友達も入り乱れちゃうみたいなとこも、俺らの地元ではあるから[4:21-4:29, 4:59-5:05]。
〔「地元ノリと身内ノリはどう違うの?」というゆうたの質問に対して〕地元のメンバーに外の友達引っ張ってきちゃうっていう地元のノリやん。〔…〕くだらなくてさ外に話した時に何その話みたいな、いやおもんな、地元ノリやん結局、身内でワイワイやっといてくださいよっていうとこをあえて俺らが全国に届けていきましょう。これが「地元ノリを全国へ」のスローガンじゃない。〔…〕いわば輸入と輸出が自由な地元ノリです[7:48-8:36, 強調引用者]。

 強調で示したように、「地元ノリ」は商品としてイメージされる。つまり、上のやまとの言葉からは、他の諸々の「地元ノリ」(ないし「内輪ノリ」)も、諸商品間のネットワークとしてイメージしうることが示唆されている。しかし、それら「地元ノリ」=商品は貨幣を表象しえないゆえに、共同体間の相互の通約可能性をもたない。その通約不可能性を自由な」「輸入と輸出によってあえて乗り越えようとするのがコムドットの地元ノリにほかならない。具体的には、それは登録者数の増加や視聴者層の拡大などであらわされる。「地元ノリを全国へ」は、こうして達成される。

「地元ノリ」は、ひとまず上のような性質をもっている。では、登録者数の増加や視聴者層の拡大はどうすれば達成できるのか。この点についても、やまとは自身の著書で答えている。それが、コムドットにとって「革新的な仕掛け」であった「オセロ戦略」である⁴¹。

*36:酒井隆史『自由論──現在性の系譜学』河出書房新社, 2019年, p. 33.
*37:もちろん、このような見解はすでに50年以上にわたって、多くの論者によって共有されてきた。同型の議論についてコメントしておく。フランスの労働法研究者であるアラン・シュピオは、法のドグマ的機能によって労働に関する諸条件を制御することを主張している(『法的人間 ホモ・ジュリディクス──法の人類学的機能』橋本一経・嵩さやか訳, 勁草書房, 2005/2018年)。本記事の見立てにしたがえば、シュピオは、市民社会の欠落を労働法によって補填しているとみなすことができる。同時にそれは、政治゠経済のアマルガムであった領域を経済と法の領域へ分割するものでもあっただろう。当然ながら、それは、市民社会が有していた革命性を断念したうえでのみ可能な、よりよい労働条件・環境への志向である。
*38:RED Chair(2023/1/30)「【佐久間宣行×コムドット やまと】「YouTubeは修羅の世界」時代の寵児2人が激白、したたかな生き残り戦略」。なお、文字起こしについては、同対談をもとにしたYahoo!ニュース記事、匿名(2023/1/28)「「切り抜き動画」に対抗できないと、この先は生き残れない──23歳差の佐久間宣行とコムドット・やまとが語る「葛藤」」を参考にした。
*39:この点については、ニゲロオリゴ糖(2021/11/21)「コムドットはなぜ成功したのか?"YouTuberが死んだ時代"のYouTube論」(note)が分析をおこなっている。同記事は、コムドットの成功要因を、国内におけるYouTube視聴の社会的布置の変化と、自身の活動の「物語」としての提示の、おもに2点に求めている。「地元のメンツでYouTuberとして成功するというストーリーは、YouTuberがここまで浸透し成功のロールモデル化した2020年代だからこそ〔有効である〕」。たんなる感想だが、この指摘はきわめて妥当だと思われる。
*40:レガスピ(2022/5/3)「地元ノリと稀少性──コムドットやまと『聖域』の感想」(note)。以下では、同記事で展開した「稀少性」に関する議論には触れない。たんに、そのようなジャーゴンを正統化するだけの価値ある議論とは思われず、本記事の議論のほうが、「地元ノリ」をより精緻に把握しうると考えたためである。
*41:同様の戦略は、『聖域』では「ビリギャル効果」と呼ばれている[SE: 117]。

脚注

6. オセロ戦略と規範

「オセロ戦略」は、やまとが「チャンネル登録のピラミッド」で重視した戦略である[ID: 34-39]。「チャンネル登録のピラミッド」は、YouTube視聴者がチャンネル登録へ到るプロセスをやまとが図式化したものである。具体的には、①名前の認知、②顔の認知、③チャンネル登録、という順序であり、「オセロ戦略」は、③チャンネル登録にたどりつくために特に重要な①と②のステップへの対処法として考案された[ID: 40-41]。あくまで筆者の当て推量ではあるが、このオセロ戦略こそが革命における枢要なプロセスである

「オセロ戦略」は「悪名を売」り、「印象逆転」をおこなうプロセスを経る。まず、認知度の拡大のために「鼻につく程度の悪名を売ることで名前と顔を認知してもらう」[ID: 35]。具体的にはTikTokへのショート動画の投稿である。これで、動画に対する「アンチコメントを集めることで〔Tiktokの〕動画が拡散され、多くの人の認知を獲得することに繋がった」[ID: 36, 強調筆者]。

 だんだん「Tiktokでのコムドットのイメージが想定通りマイナスな状態に傾き、飽和状態に達した」[ID: 37]時点で、次の段階があらわれる。やまとはここで心理学を応用する。「認知的不協和の解消」[ID: 37]がそれである。他YouTuberとのコラボ動画の配信によって、視聴者の「コムドットは悪い人」という認知と「自分の好きな人がコムドットとコラボしている」という認知のあいだに不協和が生じ、それが印象逆転を起こす一手となった[ID: 38]。

「パンパンに膨れ上がった「コムドット嫌い」の風船は、この仕掛けによって莫大なチャンネル登録に変換することができたのだ」[ID: 38]。これが、コムドットの「オセロ戦略」である。アンチコメントの増加もなんのことはない、「全ては、作戦通りに進んでいたからだ」[SE: 117]。

 つまり、やまとにとって「チャンネル登録に変換する」ことができるかぎり、アンチコメントは薬になりうる毒である。また、Tiktok→YouTubeへの転換に明らかなように、アンチコメントの「逆転」には、少なくとも2つ以上のプラットフォームを必要とする。

 しかし、これはあくまで「アンチコメント」が薬となりうる(マネタイズできる)かぎりの話であって、一定程度を越えれば、それは端的に毒である。「勝手に人の家に仮面つけて入ってきて、ウンコして出ていく人。それがアンチである」[SE: 120, 強調筆者]。これまでの記述から、これがたんなる比喩以上のものを語っていることは明白だろう。ヘーゲル゠マルクスが言うところの家族と国家の間の緩衝地帯──市民社会!──は、もはや存在しないのだ。

 それゆえ、やまとにとって「アンチコメント」は愁眉の問題だが(実際に、多くの動画でやまとはコムドットへの「アンチコメント」に苦言を呈している)、かといって具体的な解決方法があるわけでもない。たんに、学生生活で人間関係を学べば「アンチコメント」はしないだろうし、時間配分の効用最大化の観点からすれば、「アンチコメント」はすべきではないとしか言うことしかできない[SE: 120]。やまとは「アンチコメント」に対する規範を、「アンチコメント」をおこなう個々人の人格形成や利益最大化の点でしか導くことができない。つまり、道徳規範は固有の領域を備えていない。ここに、コムドットの「革命」の困難が典型的に表現されているといえる。

 推測を重ねれば、この「アンチコメント」に規範のようなものを与えるのが、先述したような「地元ノリ」ではないのか。自分たちの生き様である地元ノリを擬似的な規範としてチャンネル登録者=顧客に商品としてお出しすること。それ自体がやまとの戦略ではあるものの、当然だが、私たちはそれを自由に輸入することも、しないこともできる。「国が人でできているように、チャンネルも人でできている」[ID: 31]以上、「全国民」はチャンネル登録済み、ないしは未登録の顧客の群れでしかないからだ。

 これがやまと/コムドットの「革命」の限界といえるだろう。そして、この限界に、コムドット自身の困難があらわれてもいる。

まとめ──コムドットの「革命」

 以上で、コムドットの「革命」のアクチュアリティはある程度示せたことと思う。コムドットの「革命」は、市民社会の喪失にともない、もはや革命が不可能となった時代のリアリティに固有なものである。「僕はYouTubeを初めて、自分の人生に革命を起こしました。そして今、YouTube界に革命を起こしています」[SE: 22-23]。やまとの人生の「革命」と、YouTube界での「革命」は、地続きなものとしてとられられている。つまり、あくまでそれは個人の問題でしかない。

 まとめよう。政治と経済の領域を混合物(政治゠経済)として理論化し、かつ道徳規範を論理的に導出できたのがヘーゲル゠マルクス流の市民社会論だとすれば、政治と経営の領域を混合物(政治゠経営)として理論化し、かつ正しさに関わる道徳規範を論理的に導出できないのが、(やまとの)ゲーム理論、ないしは心理学だと言えるだろう。むろん、やまとの思考は後者のパラダイムに位置づけられる。

 これはコムドットだけの困難だろうか? 私はそうは思わない。これは私たちの困難でもある。コムドットの「革命」がある程度の人気を博し、支持を獲得していることが、そのなによりの証拠だろう。革命がもはや不可能だからこそ、「革命」が可能となった。つまり、やまとが革命という言葉で指示しているものは、実はきわめて必然的な論理的帰結なのである。論述を進めるにあたって何度もやまと自身の言葉を確認したように、やまとはそのことをよく理解していた(正直言ってコールマン規範論の発見も、やまとの言葉に拠るところが大きい)。そしてそこには、政治ないし規範の固有の領域は存在しない⁴²。

いわゆる現状とは、現在いまを意図的に特定されたヽヽヽヽヽ出来「事」において言説的に仮構しなければ、抑も画定しえず、またこの作業こそ「政治」と呼ばれてきた当のものではないのか。つまり、誤解を恐れずに言えば、マルクス派にとっての例の「現状分析」とは、まさに現在いまを仮構する政治それ自体ではなかったのか。⁴³(太字引用者)

 であれば、上に述べてきたものこそ、やまとの「現状分析」であり、「政治」である。しかし、(日本資本主義論争とはことなって)このように言われたことの周囲へ関心をシフトさせなければ「政治」を発見することができないという困難が、私たちの現在を規定している。何かを言うことはあらゆる場所でおこなわれるのだから、あらゆる場所に「政治」を見つけられることは、すなわちどこにも「政治」がないことでしかない⁴⁴。これがいま・ここである。そして、コムドットの「革命」が示しているのは、ある意味ではただそれだけの些末な話なのだ。

*42:あるいは、これまで何度か参照してきたドラッカーの議論にならって、この変化を跡づけることも可能である。たとえば、同時代人であるフーコーとの比較が参考になるだろう。
 フーコーが『監視と処罰』(1975年)で、規律訓練がおこなわれる場として軍隊、監獄、学校工場、病院を挙げた一方で、ドラッカーは『マネジメント』(1972年)で、マネジメントがおこなわれる場として企業大学、病院、軍隊、研究所、政府機関を挙げている。同時期に出版されたこの2つの著書の興味深い差異は、工場が企業に、学校が病院に置き換わっていることである。ここではドゥルーズの分析が参考になる。「工場というものは、みずからの内的諸力を平衡点にいたらせ、生産の水準を最高に、しかし給与の水準は最低におさえる組織体だった。ところが管理社会になると、今度は企業が工場にとってかわる。〔…〕企業は、工場よりも深いところで個々人の給与を共生的に変動させ、滑稽きわまりない対抗や競合や討議を駆使する恒常的な準安定状態をつくるのだ」(『記号と事件』宮林寛訳, 河出書房新社, 1990/2007年, p. 359.)。工場→企業の変化は、パラダイムの変化でもある。かつて規律訓練の場であった工場は、労働力の再生産にもとづいて給与を分配したが、企業はそれよりも「深いところで」、つまり、労働力再生産をさらに下回って(あるいは、無視して)給与水準を決定する。そして、「企業が工場にとってかわったように、生涯教育学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである」(同書, p. 360, 強調原文)。それのみならず、ドラッカーはフーコーのリストにさらに政府機関を付け加えている。ここに、政治の領域の消失を見てもよい。
*43:長原豊「方法の問題──層序論的接近」法政大学大原社会問題研究所(編)『「論争」の文体──日本資本主義と統治装置』法政大学出版局, 2023年, p. 6.
*44:市田良彦『革命論──マルチチュードの政治哲学序説』平凡社, 2012年, p. 76.

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