見出し画像

統一教会/太田光を思う

2022年10月、爆笑問題太田光が炎上している。統一教会問題に関する発言によって、だ。色々ネットニュースを見ていてると、いつもに増して炎上しているなぁ、と思っている。少しだけ今の気持ちをまとめたい。なお、私は爆笑問題好きであるので、そうでない方は読まないことをお勧めする。

直近ではサンジャポにて、“統一教会から脱会させるために家族や知り合いが信者を拉致、監禁してるという問題もある“という旨の発言をして、有識者からそれは正に統一教会側の言い訳・発言である、として批判されている(後日太田は訂正している)。もともと色々な発言で炎上しているが、今回の件はネットだけではなく各有識者から公に批判されている点が激しく炎上しているように見える理由なのだと思う。また、それだけ事が重いということだろう。

そもそも太田はこの一連の問題が一気にメディアで取り沙汰され始めたとき、“事件を機にことが動き出すのはそれこそ犯人の思う壺ではないか“という発言をし、批判されている。記憶が曖昧で申し訳ないが太田は昔からこのような意見を言っていたように思う。何かを動かすために自殺、あるいは人を殺すことを実行した時に、それに社会が動かされてはいけないんじゃないか、と。そして、一連の統一教会の問題にも待ったをかけるような発言をするのは、おそらく信者の中にも本当に救われた人や、幸せである人もいるのではないか、という考えがあるからなのではないだろうか。

私は太田光のことを思想家だと思っている。うまく当てはまる単語がないので思想家とした。思想家の定義から外れているかもしれないが、陳腐な表現をすると「物事を多方面から考え、問いかけをし、それを続ける人」である。一方、批判する有識者は、この問題を昔から追いかけているジャーナリストや批評家、活動家、あるいは自身も宗教的問題に苦しんでいる方々など、広くいうと「当事者」である。やはり、ここは相容れない部分が大きい。今回も含め、一連の太田の発言について、私は間違っていることは言っていないと思う。しかし太田は当事者ではない。問題を解決したい当事者から見ると太田の発言は解決の邪魔であり、綺麗事にしか聞こえないのだ。


長年、太田のラジオや著書を見ていて思うが、少なくともこの人はこの統一教会の問題について、ただ綺麗事を言いたいとか、統一教会を擁護したいとか、逆張りをしたいとかを思ってる人ではない。解決したいというのは同じ気持ちであるはずである。ただ、大きく物事が動くときに、それを色々な方面から考えたり、それを問いかけることをやめることはできない人なのだ。それは社会として、ある意味バランスをとる役割でもあるように思う(本人はそのつもりはないと思うが)。

伊集院光が太田光に関して「バランスの取れない太田さんが好き」というようなことをラジオで言っていたが、一方で、問いかけを繰り返すことによりなんとか世の中のバランスをとろうとしている人なのかもしれない。そのせいで自身のバランスは取れなくなっているのだが。いずれにせよそういう太田光が私も好きである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?