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科学の限界

オカルト、スピリチュアルというと疑似科学の域を出るものはないのではないだろうか。 科学的検証可能な根拠が提示され、再現性が確認されれば科学として認められるのだが、私にはそれは不可能に思われる。

というのも、人間の霊的な側面というのは人間の全存在であるために、観察者を 0 の存在にすることは出来ないからだ。すなわち、観察者も整えなければならない条件の一部と化すのだ。

無意識を含む精神の条件を整えた者の間で“ある現象”を観測出来る。それを我々は科学と呼んでいるのだろうか。

武道や茶道といった“道”を修めた者が観察者・被験者となる場合に再現性の糸口がつかめるかもしれない。なぜなら“道”という精神性での前提条件が整えられているからだ。

とはいえ、その現象を信じる者の間では再現可能だが、信じない者の間では必ず再現不可能であろう。この場合、信じるということが実験の上で整えなければならない条件の一つとなるのだ。アカデミズムがそれを科学と呼ぼうとするかは非常に疑わしい。現代の科学ではそういった現象をプラシーボとか気のせいとか信仰と捉える。それで済ませている限り、科学的解明は不可能なのである。

この先も物質ベースでしか物事を捉えない科学のまま発展させていくのなら、投じた資金・労力の割には大した実益も得られないまま延々と重箱の隅をつつき続けることになると私は予想している。

量子力学では観察者がいる時といない時では光子の振る舞いが異なることが明らかになっているらしい。このことを科学者が今後どのように扱っていくのかにかかっているのだろう。

2022.2.21 追記

同じ宗教を信じている人たちも精神性での前提条件を整えられてはいる。ただ、これを申し上げるのは大変心苦しいのだけど、悪魔の存在を信じてしまっていたり、悪魔の存在が含まれている宗教だと、それが具現化してしまう可能性が考えられる。

破滅的な終末論を含まず、循環して永遠に持続する宗教観である必要がある。さもないと大惨事を招いてしまう可能性があると推測している。

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