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一路名古屋へ! 軽トラ駆って… 🚚

 学校を決めた32歳、その年の12月一杯で会社を退職した。8年勤めた私の会社はテレビジョンを発明した柳沢健次郎(日本人も発明したんです!)がいた会社で、私の事業部はテレビ研究所と工場があり、2000人以上が働いていたと思う。当時のアメリカの国務長官だったアレクサンダー・ヘイグがヘリコプターで見学にやって来るくらいのちょっとした研究所だった。その時は、多くの職員がグラウンドに日米国旗を振って出迎えた。海外営業部だった私は、その出迎えの列を作った、、「旗振って下さ〜い」と長〜い列に沿って走りながら叫んでいた、、😅

 そんなサラリーマン生活を笑顔で終えることができた。退職を決めてからの2年間は悔いの残らないように働いた。沢山の同僚や先輩上司たちが送別会を開いてくれた中で、唯一の心残りは、一番世話になり尊敬もしていた上司Hさんに最後まで転職の決意を理解してもらえなかったことだった。昭和の終わり頃、そういう時代だったと思う。

 やがて無事に学校の試験にも受かり、3月末に家財道具を積み込んだ軽トラック🛻で、前夜にお世話になったH先輩宅を後に一路名古屋へ向かった。高速を降りたところに、大学時代のサークルの友人Y君が引越しの手伝いに立っていてくれた。持つべきものは友である。アパートは名古屋城の近くで学校まで徒歩5分、二間台所付きのアパートに2人で荷物を入れ終えた。さあ1年間ここで勉強するんだ!と、初めての地で新しい生活のスタートだった。

 生活は切り詰めなければならず、先ずは朝の新聞配達を始めた。私は32歳、ちなみに小6、浪人時代に続く3度目の新聞配達だった。こういう時にピッタリなアルバイトだとつくづく思う。何故かヤル気も起こるアルバイトだった。新鮮な空気を吸って帰って、授業まで勉強、学校から帰ってまた寝るまで勉強という生活が始まった。

 これを書いていて「軽トラ先生」と呼ばれた教育実習を思い出した。免許取り立ての大学4年生、実習前の打合せに母親の車を借りて母校の高校へ行った帰り道、、路肩が整備されていない細い道路で独り相撲(事故)を起こして気絶、、😵‍💫 気づいたら脳外科のベッドだった。幸い額を数針縫っただけで済んで何とか実習へは通えたのだが、母親の車が使えず父親の軽トラで通ったのだ。そこから「軽トラ先生」のあだ名が付いた。幾つかの人生の節目で軽トラ🛻にはお世話になっています。

🏢8年勤めた会社のシンボル、ニッパーくん

📕この頃読んだ本
「自律訓練法の医学」伊藤芳宏 中公新書
「モラトリアム人間を考える」小此木啓吾 中公文庫
「表と裏」土居健郎 弘文堂
「遺伝子の話」M.B.ホーグランド 教養文庫

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