見出し画像

祝福について

通勤途中、カフェを出て地下鉄に乗るために階段を降りていたら、音がして、見たら、おじさんが倒れていた。そのおじさんのことは、ときどき見かけるから、知っている。足が悪く両手に杖を持って、いつもひとりでおぼつかない足取りで階段を上がっている。今朝は、そのおじさんが転んだようで、倒れているおじさんに、サラリーマン風のおじさんが近寄って助けてあげていた(いま気づいたけれど、私が使う地下鉄の階段は、おじさんばかりが使うようだ)。私も近寄った。倒れていたおじさんは「大丈夫です、ありがとう」というようなことを言った。

最近、祝福のことを考える。何かをしたときに、その見返りとして、こちら側に良いことが起こって欲しいと思うのは、ごく自然なことだ。誰かを手助けして、それを神様が見ていて、良いことが起こるとか。神様を経由させない人でも、誰かを助けて、その人から何かしらの見返りを期待する。少なくとも感謝の気持ちぐらいは抱いていて欲しいと思う。そうした神様からの、あるいは人からの見返りを受け取ったとき、私たちは自分たちの善意が成就されたと感じるのだろう。そしてその成就の瞬間に、祝福されたと感じるのだろう(と、書いていて、私が祝福について考えるとき、もっともよくつかわれる意味での「祝福」を念頭に置いていないことに気づいた。それは、例えば、結婚式などで友人たちからお祝いをされるときの「祝福」である)。

もっとも、私が最近考えている祝福は、いま書いた、なんらかの見返りを得ることによって生じるものではない。私が祝福について考えるとき、保坂和志が『プレーンソング』の中で書いていたことを思いだす。記憶は定かではないが、『プレーンソング』の中の登場人物が野良猫にご飯を食べさせたとき、「猫がご飯を食べてくれることが祝福だ」という内容のセリフが書かれていたように思う。そこに、見返りはない。ただ相手が自分の行為を受け取った瞬間に成立する祝福。善意が届いたこと、それ自体が祝福だと捉えられている。

こうした意味での祝福を、自分の身に即して考えることは、難しい。どうしても見返りを求めてしまう。善いことをすると、たとえそれが電車で席を譲るといったささやかなことでも、気恥ずかしさを覚えてしまう。また、こうした祝福を考えるとき、ただの無償の行為とどう違うのか、うまく言語化することができない。

私が考え、言語化したいことは、善意がごく自然なかたちで(それと意識されることなしで)生じるとき、善意に包まれているがゆえに、その人こそが祝福されているのではないか、ということだ。

この意味での祝福は、少し前に流行った「利他」と重なるのだろう。「利他」を言葉で説明することが難しいように、祝福もまた、言葉では説明しづらい。というわけで、この話はいつかに続く。

芦ノ湖の写真。このあいだ行ったときの。文章の記事とは無関係です。

仕事2日目。いきなり仕事の山が来ている。大変。でも楽しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?