他人の視線に敏感な割に自分の心に鈍感すぎる私が30歳過ぎて生き方を見直した話

趣味に没頭し充実していた20代が終わり、30歳になった頃、私は人と関わることに酷い苦痛を感じるようになっていた。この生き辛さをどうにか解消したいと試行錯誤してみた結果、自分なりの答えが見つかったのでまとめてみたいと思う。

前置き①友人Tさんの存在

Tさんは社会人になってから趣味を介して知り合った友人である。Tさんとよく遊ぶようになって、私はTさんの話し方にある特徴があることに気付いた。Tさんは、雑談の中で、私の何気ない発言に対して、「なぜそう感じたのか」を深く掘り下げてくれるのである。

「○○はなぜそう思ったの?」
「○○はなぜそれを選んだの?」

そして、その問いに即座に答えられない自分がいた。

「その服可愛いね。どこで買ったの?」

極端な話、そんな単純な質問にも、自分の気持ちを表すのが恥ずかしくて何も答えられないときがあった。

なぜ自分は考えを上手くTさんに伝えられないのだろう。最初は自分が口下手なだけだと思っていた。しかし、Tさんとの交流を通じて考えが変わっていった。「物事には因果関係があり、どんな些細なことにも理由はある。それを言語化しないと他人には何も伝わらない」ということを意識し始めるようになった。そして、人に自分の気持ちを伝えられない私は「自分の気持ちをあまりにもいいかげんにしか把握出来ていないんだ」ということに気付いた。

前置き②初めての出産と義母の存在

長男を出産した後、それまでは比較的良好だった義母との関係に確執が生まれてしまった。それは義母の性格のせいでもあり、自分の性格のせいでもあった。

まず義母について。義母は15歳年上の義父と結婚し、会社を辞め、専業主婦として夫の世話と同居の姑の介護に苦労した女性である。義母は決して悪い人では無いのだが、恐らく口下手である。

私が長男を出産した際、入院していた産院の部屋で、初めて赤ちゃんを見た義母は私にこう言った。

「○○ちゃん、ありがとう」

その時私は怒りを感じた。「おめでとう」なら分かる。「お疲れ様」とか「頑張ったね」も理解出来る。なぜ「ありがとう」なのか。ありがとうと言われる筋合いは無いと思った。義母は恐らく初めて目にする自分の孫を前に何を言っていいか分からず、事前に言おうと決めていた「私の孫を産んでくれてありがとう」という言葉を良かれと思って発したようだった。そしてその後、私の夫に向かって「あんた子供欲しくないって言ってたのに、産まれちゃったね」という話を三回以上もした。この人は何故おめでたい場でそんなことを言うんだろうと不思議だった。祝福しようとしてくれているのは分かるのに、心と言葉が一致していない様に思われた。義母は「何か喋らないと間が持たない」という恐怖にかられ、適当なことを話しているみたいだった。目の前の赤ちゃんに対する感情は上手く言葉に出来ない様だった。微笑んで赤ちゃんを見つめてくれるだけで充分なのに、いつでも余計な一言が多い。私はそんな義母を少しずつ軽蔑するようになっていた。

そういう経緯で義母に不信感があるにも関わらず、私は義両親に対して「いつでも孫の顔見に来てくださいね」というような社交辞令を言ってしまっていた。案の定義両親は週に一回以上私の家に押しかける様になり、その度に、「赤ちゃんは泣くのが仕事よ〜」などという、私にとっては意味の無い台詞を何百回と聞かされた。あまりにも心が通い合わない義母の来訪に嫌気がさし、ある日私の我慢が限界に達した。夫を通じてもう家に来ないで欲しいと伝えてもらった。義両親は困惑していた。それもそうだろう。私はいつも義両親を前にニコニコしていたし、いつでもウェルカムという様な態度をとっていたからだ。義両親に会いたくないのに、何故私は義両親に社交辞令を言ってしまうのか。自分の本心を隠して良い顔をして、憎しみを増幅させている。これは自分自身の責任ではないかと反省した。

義両親との関わりを通して、どんなに綺麗な言葉でも、言葉に気持ちが伴っていないと、人を不快にさせたり、自分自身を傷付けたりするということに気付いた。そして、そこに生き辛さを解消するヒントが隠されていると確信した。

一冊の本との出会い


そんな時に出会ったこの本との出会いは衝撃的だった。この本は、他者中心ではなく、自分中心の生き方を大切にすることの重要性を説いた本である。私はこの本を読んで、これまで自分が感じてきた苦悩は全て「自分が自分の感情を大切にしていない」ことに起因するのだということに気付いた。具体的には、私には他人の言葉に無意識に同調してしまう癖があることが分かった。

「暑いですね」と話しかけられると、寒いと思っていても「そうですね」と自動的に返事をしてしまう。

「暑いですね」
「そうですか?私は少し寒いです」

この様に自分の意見を述べるのがコミュニケーションであるはずなのに、相手が言って欲しそうな言葉ばかり頭の中で探してしまうのだ。その結果、コミュニケーションにおいて齟齬が生じ、誰にも理解されない不安感や孤独感を深めていた。これでは生きるのが辛いはずである。

子供の頃から「人の気持ちを考えましょう」と幾度となく言われてきたが、「自分の気持ちを考えましょう」とは誰も言わなかった。自分の気持ちを考えなければ、人の気持ちなんて分かる筈がないということに気付くのに、何十年も時間がかかってしまった。

まとめ・これからについて

雑なまとめになるが、お守りにしている言葉を紹介したいと思う。

柴田聡子

"日常生活でも自分の言葉に説得力を持たせるのは大切だし、すごく難しい。だから、どんなにありきたりだろうが「自分が本気でそう思っている言葉で喋る」という努力は人間としてしたいと思います。"

大村はま

"読書後の感想なども、感動するほど、言い表す言葉が浮かばないもので、それは単に表現力がないということと別物である。それを無理に言葉にさせてしまうと、適当に、とにかく言う習慣が身に付いて、言語生活者として基本的な『本気で考えて、本気のことを素直に言う』ということがなくなっていく。"

まだ自分の気持ちを素直に人に伝えることは怖い。でも、言葉を大切にしたい。それは自分を大切にすることに繋がるから。30代に突入してからの生き辛さと向き合ってみた結果、「自分の感情に気付いてあげること」「ポジティブな感情もネガティブな感情も受け入れてあげること」「それが自分を愛するということ」「自分が満たされていないと他人を大切にするなんて出来ないということ」にやっと気付くことが出来た。楽に生きる為には、自分の感情に素直に生きるだけで良いなんて盲点だった。私はもう以前の様に闇雲に悩んだりしないだろう。

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