ドリス Doris
水底に取り残された。プールではないし、穏やかな海か、みずうみか。薄暗くて、静かで、澄んでいる。
水面から、オルゴールのような音楽が聴こえた。たしか、これは、ディズニーランドで聴いたことがある。イッツ・ア・スモールワールド。それが、くぐもって、歪んで、耳の奥まで響いてくる。
おはよう。誰に向けるとでもなくこころのなかでつぶやく。俺は軽やかに、水を掻きながら、イルカのように上昇して水面に顔を出す。おはよう。
急に眩しい外界の光に晒されて目を細めながら岸にたたずむ女の人を見つけてうれしくなり、大きく手を振ると彼女の元へクロールで泳ぎ出した。そうだ、あれは、ヒメだ。
おはよう。彼女に訊きたいことがあったのだ。俺の記憶は欠損して、肝心なこと、いつも最も近くにあるのに思い出せない核のようなものがある。彼女は俺の失くした記憶を知っている。
ここはどうやら入り江らしい。砂浜のヒメが近づいてくる。岩場に手をかけて、岸に這い上がる。ひさしぶり、おはよう、髪の毛、いまはピンクなんだ、そう話しかけた。
「あなたは何を言ってるの? 失くした記憶? あなたの記憶を私が知ってるわけないでしょ」
「いや、そのままという意味ではないよ。記憶は記憶だ。時間が経てば曖昧になるし、記憶の元になった出来事は二度と戻ってこない。誰だってそう。俺が訊きたいのは、記憶の鍵のことだよ」
「鍵?」
「ヒメのポケットには俺の記憶の鍵が入ってるんだ」
ヒメはフリルのついたワンピースの小さなポケットに手を入れてまさぐり、目を見開いた。手にはユニコーンカラーの光輝く鍵。
「何で?」
ヒメは不思議そうに鍵を眺める。
「ほら、言ったでしょ。その鍵を探してたんだ」
ヒメは首を捻る。
「こんな鍵、入れた覚えない」
「んん、ずっとそのポケットに入ってたの」
「ふうん、どっちにしろあたしのじゃないし、あげる」
ヒメはあっさり鍵を俺に手渡した。
「もう用は済んだ?」
「ああ、ごめん、ヒメ。その鍵はヒメしか扱えないんだ」
訝しげな表情でヒメは黙っている。
「ええとね、あのさ、ヒメ自身も鍵だし、そのキレイな鍵と見えない糸でつながってるの。両方揃わないと記憶の扉は開かないんだ」
ヒメは何度か頷き、真っすぐ俺を見た。
「鍵、鍵ってさ、あたしは道具なの?」
俺は誰だ。水底で何をしていた?
俺には名前らしきものがついていた。かりそめの名前を、思い出そうと思えば思い出せる。だが、俺が知りたいのは、俺の本当の名前だ。それはきっと、神様から与えられる名前なのだ。本当の名前は、記憶の奥深くに眠っていて、それを知るためにヒメの力が必要だった。
「そんなことない」
「どうして? そうでしょ、あたしは道具なんでしょ」
「ヒメ。聞いてくれ。俺は自分の姿もわからない」
静寂が昼下がりの砂浜を通りすぎる。ふいに、身体が濡れていないことに気づいた。
「俺は、さっきまで海の底にいて、記憶を取り戻そうと、ヒメに会いに」
「海の底?」
振り返ると泳いできたはずの入り江は姿形も失くなっていた。
もう一度ヒメのほうを見る。
すると、突然、喧騒に放り込まれた。横を誰かが早足に通り過ぎる。俺は素早く身をかわし、辺りを見回す。
俺たち二人は、繁華街を行き交う人ごみの真ん中にいた。
「いつからここにいた?」
ヒメは動じていないかった。
「何言ってるんだか。ねえ、大丈夫?」
俺は、はぁと溜息を吐くと、ヒメの両肩を掴んで尋ねた。
「ヒメ。俺が誰で、どんな姿をしてるのか教えてほしい」
ヒメも溜息を吐き、仕方ないという表情で答えた。
「キミはドリス。生まれつきの罪人。堕落してるの」
「ありがとう。ほかは?」
すれ違いざまのサラリーマンが俺に向けて「ドリス」とつぶやく。カフェの看板の前にいる若い女が俺を見て何か言っている。唇を読むと「ドリス」。
ヒメは気怠い笑みを漂わせ、それ以上答えなかった。
ガラスのウィンドウに映る自分の姿を見る。背の高い、黒いシャツを着た男がいる。少し長い黒髪。これが俺の姿か。
ふいに、遠くからイッツ・ア・スモール・ワールドが流れてきた。耳の奥まで届く、あの心躍る音楽。
「ヒメ。音楽のとこまで行こう」
そう言ってヒメに手を伸ばすと、床を踏み外すように暗転し、金色の光の中を真っ逆さまに落下していた。ヒメも同じスピードで落下している。ヒメに訊く。
「あのさ、また会えるかな?」
「さあね、本当の名前を思い出したいんでしょ?」
「うん」
「あらあら、泣いてるの?」
えっ、と言って、瞼を拭うとたしかに濡れている。
指先を見ると渇いた血がこびりつていた。
象が落ちてくる。兎が。カラフルなキャンディや宝石、生き物の臓物が。俺たちと一緒に落下している。
どのくらい時間が経ったのかわからない。一瞬前の気もするし、一年前の気もする。目を開けると、俺は草木もない荒野に倒れていた。
俺の名前はドリスじゃない。独り荒れ果てた大地に投げ込まれたのがその証拠だ。神様は、ここで本当の名前を手に入れろ、と言っているのだ。死の匂いのする場所へ。甘い香りのするその場所。そこできっとヒメも待っている。
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