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マトリョーシカ
車はいろんなことに使われる。
仕事したりレジャーに行ったり、
場合によっては命を救ったり、あるいは命を奪ったり、、、。
もし車に運転者がいなければこんな疑問が湧いてくるだろう。
なぜ車はあんなことをするのだろうか?
その疑問を調べるために細かく車を解体し分析したくなる。
しかしわかるのは車の機能だけだ。
やはり車には運転者がいる。
車の作用は運転者によるものだ。
脳も同じことが言えないだろうか?
機能的に見れば脳はタンパク質でできた、微弱な信号が流れる電気回路に過ぎない。それが核融合や地球温暖化など地球構造を変えてしまいかねない影響を世界に与えている。なぜ脳はそんなことをするのか?脳を分解してもわからない。脳の機能がわかるだけだ。やはり運転者に問うしかない。
脳にとっての運転者は意識である。
人間の生命を維持しながら、あらゆる神経を切断したらその人間は何を意識するだろうか?
反応するためのあらゆる情報はゼロになる。彼は死んでいない。反応できないだけだ。
では神経切断と老化による神経の崩壊にどのような違いがあるのか?
老衰とは上手く反応できないだけではないのか?
動かなくなった車の中にも運転者がいるように、動かなくなった脳の中に意識がいるのかもしれない。
ここまで来て違和感が一つ残る。車の中の運転者も身体を持ち、その中に脳があるならば、意識もまた脳の運転者として身体性を持って存在し、その運転者(脳)の中の意識が云々と、入れ子構造は永遠に続くのではないか?
結論を先送りする、答えにならない答えではあるが、永遠に続く入れ子構造に意識がつながっている様は美しい。
遺伝子や素粒子も同じように無限の入れ子構造を持っているのではないかとさえ思えてくる。うまく説明はできないが、究極の根源とされたものが再び分解され、その構造を説明するパターンは永遠に続くような気がする。
結局人間はプロセスに閉じ込められて根源にも果てにも到達することがない。
永遠に続くマトリョーシカ。
釈迦の手のひらは広大なのだ。人間ごときが推し量れる広さではない。孫悟空なら知っている。
我々はそこでもがき苦しんだり笑ったり愛したり怒ったりしている。
始まりも終わりもなく、どうしようもない。
ただ唯一言えることは、
これを読むあなたは
あなたが探している運転者に間違いない。
我思う、故に我あるからね。