9/10 早朝読者会『ピエロ伝道者』坂口安吾 レポ
読書会をやってみて
坂口安吾『ピエロ伝道者』の読書会を3名で行いました。
今回も作品を全員で輪読した後、感想の共有をしました。
主に以下のような話題で盛り上がりました。
参加者の感想
やすふみさん
今回の早朝読書会で扱った坂口安吾の「ピエロ伝道者」は切れ味鋭く示唆に富むエッセイだった。『青い馬』創刊号に掲載された弱冠24歳の安吾の堂々たるマニフェストである。印象深い冒頭の星取棹の笑い話。梅雨どきの夜空の晴れ間に星を見つけた嬉しさから一心不乱に長棹を振り廻して星を取ろうとする小坊主。そこに賢しらな注釈を加えてはいけない。「大人」の反省を促すことを意図したり、泪や感慨の裏打ちによって笑いを担ぎ出すような「奇術」を弄して「悲しき笑い」としてナンセンスを作り出そうとする当世流のナンセンス文学は、そのために「芸術を下品に」し、笑いを「騒がしいものに」しており、そもそもナンセンスの域にさえ達していないと安吾はバッサリ斬って捨てる。芸術にとって本質的なことは、めいめいの器にしたがって、笑いであれなんであれ、素直な、噓偽りなき「一途」を歌い上げることである。《すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。その人その人の容器に順って、悲しさを歌い、苦しさを歌い、悦びを歌い、笑いを歌い、無意味を歌う。それが一番芸術に必要なのだ。これ程素直な、これ程素朴な、これ程無邪気なものはない。この時芸術は最も高尚なものになる。》。それぞれ各人の人柄にしたがって、ほとばしる「一途」に、安吾は芸術としての真正な何か、芸術の本源的な契機を見出している。「一途」であれば「悲しき笑い」であっても「正しい」とされる。つまり安吾は「泪」そのものを否定しているわけではなく、表現者が真摯で「一途」な表現欲求を、自己自身の内に駆動力として持たぬまま、俗情と結託して、涙と滑稽の混淆物を作り出すような「無理な奇術」を芸術の真髄をおとしめるものとして批判しているのだろう。かつて江藤淳が辻邦生の歴史小説『背教者ユリアヌス』について「フォニイ(phony)だ」と批判したことがあるが、《内に燃えさかる真の火を持たぬまま文を書き詩を作る人間は、(…)つねにフォニイであろう。》(江藤淳「『フォニイ』考」(1974年))と述べる際の江藤の言う「内に燃えさかる真の火」は安吾の言う「一途」と相通ずるものがあるかも知れないと思う。この「一途」は翌年の「FARCEに就て」では「高い精神」と言い換えられることになる。
読書会で共有した資料の書誌情報は以下の通りです。
・安楽庵策伝『醒睡笑 全訳注』pp.133-135、講談社学術文庫、2014年
・「星落とし」『日本昔話通観●第10巻 新潟』p.869、同朋舎出版、1984年
・小林真二「ファルスとナンセンス文学―坂口安吾「ピエロ傳道者」論―」『國學院雑誌』第97巻第7号、pp.44-54、1996年7月
この作品に対する主催者の考え
ここに書いています。
次回
来週以降の予定は以下の通りとなっています。すべて土曜朝6時から7時開催です。
興味ある方は、ぜひご参加ください。
9/17 オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』https://peatix.com/event/3341886/view
9/24 休み
10/1 夏目漱石『夢十夜 第二夜』予定