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Life is beautiful

 魚津に帰省している間じゅう、言葉はどこが引き受けるものなのかということと、わたしが捨て置いてきたものたちと、流れた歳月のことをずっと考えていた。

 言葉について。わたしは、19を目前にしてこの町をひとり出て行くまでは、この町の言葉を話していた。周囲もみんなこの町の言葉だった。高校生よりも、中学生よりも、小学生よりももっと前、わたしの身長がまだ1メートルにも満たないような本物の子供だったときは、自分は標準語を話しているものとさえ思っていた。
 その思い込みが崩れたのは、ある日どこかで盗み見た、幼稚園と保護者を結ぶ連絡帳の内容による。
 母が、幼稚園にわたしを迎えに行った帰り道、わたしはきっと、その日幼稚園であったことをつぶさに母に話したのだろう。そのことについて、母はあとから連絡帳に書いたのだった。
 千裕は、帰ってからも「お母さん、今日、  をしたがいぜ」と、何度も話していました。
 目を疑ったのだ。標準語の書き言葉で表された文章の中に紛れたわたしの言葉だけが異質だった。どうしてわたしはこんな変な言葉をしゃべっているのだろうと思った。だけどそこだけを何度も読み返すうちに、別に変な言葉ではないことに気付いた。それはふだん、確かにわたしが話している言葉だった。わたしだけじゃなく、母も、父も、弟も、先生も、みんな。それは文字として残してみると、本当に異質なものに映った。それこそが「方言」というものだった。
 この瞬間、わたしは、世界は標準語と方言のふたつに分かれること、そして自分が毎日話しているのは「方言」の方であることを知った。
 10年以上が経ち、わたしは高校を卒業した。大学にも合格して、神戸にやって来た。1年の留学を挟んで5年を神戸で生活するうちに、わたしの体の中から町の言葉が消えた。神戸や大阪にいるときは、町の言葉の感覚を一切思い出せなくなった。関西の言葉で毎日を生活して、ものを考えた。今でも大学の友達や職場の先輩に「富山弁しゃべってみてよ」と言われるとものすごく困る。わからないからだ、本当に。相手は関西弁でしゃべっているのに、それに対してわたしが町の言葉で返すというのは、ドイツ語で訊かれていることに英語で答えるようなものだった。
 一時は、わたしは本当に町の言葉を忘れ切ってしまったのではないかとも思った。だけど、それは不思議なことに杞憂だった。季節の節目に魚津に帰って家族と話すと、わたしは自然と町の言葉になった。それはまるで、スイッチが切り替わるかのようだった。
 今年、真夏に帰省してみて、やっぱり同じことが起きた。
 言葉は、特に方言というものは、本来人間が持ち出せるものではないのかもしれないと思った。言葉は、人間ではなくあの町そのものが引き受けているものなのかもしれない。あの町の空気と水、青く深い海、作りものじゃなく美しい草木。それらすべてが土台としてそこに居てくれなければ存在しえないもの。言葉とは空気であり、水であり、その場所で人間を生かすものすべてである。人間よりもずっと地に足がついた、深い根を持つ生きものだ。そして、その町に居てこそ美しいもの。外国の海に、夕日に、「夕焼けこやけ」が似合わないのはそういうことだ。
 だから、人間には持てない。特にわたしのような、場所を移ってばかりの人間には。
 ドイツ語に生かされていた時期もあったけれど、もう細胞は入れ替わってしまっただろう。今は、大阪の言葉と魚津の言葉のふたつを、場所を移るとともに、スイッチを切り替えて使っている。

1.8月13日
 朝はやくに両親が墓掃除に出かけて行った。天気予報が思わしくなかったので、雨が降らないうちにすべてを済ませてしまおうとしていた。
 玄関先で、祖母があれこれ掃除道具を渡しながら言う。
「花も、全部挿してきてね。もう仏様みんな来られとるからね」
 1時間ほど経って両親が帰ってきた。3人でトーストを食べて、しばらく休んで、化粧もしないまま車に乗り込んだ。
 田舎だから、お参りしなければならない墓がたくさんある。まずは、高架下にある小さな墓地。ここにわたしの家のお墓がある。だから、わたしがこのまま結婚もせずに死んでしまえばこのお墓に入る。毎日電車の音が響く。車両が変わらないからなのか、線路の構造がそうなのか、電車が通る音のリズムは物心ついた頃から一度として変わったことがない。
 次に、小高い山の上にある町でいちばん大きな墓地。すごい車の数で、魚津にもまだこんなに人が居たのかと思った。
 車を降りれば、控えめに鳴く蝉。湿度の高い空気。
「こんなに墓ばっかり増えて、墓を守ってくのも一苦労だわ」
 一面に広がる墓石の群れに母がしみじみため息をつく。
「死んだ人間の方が多くなってくね」
「ほんとやわ」
 その次、市をまたいで母方の家のお墓参り。3月に祖父が死んで、それを機に墓そのものを新しくした。新しいぴかぴかのお墓に一番乗りで入ることができて、あの気難しい祖父もきっと大満足だろうと思う。
 だけど、今年の正月にはまだ居たのだ。あっという間に、骨だけになってしまった。
 わたしは墓地を見渡す。墓石の前にはそれぞれ色鮮やかな夏野菜たち。
 お昼になる前に家に戻った。食事をして、夕方に母方の実家へ行くまで高校野球を見ながら本を読んで、昼寝した。
 母方の実家は、子供がどんどん大きくなり、どんどん狭くなっていく。
 かつて小さかったわたし、弟、そして従姉弟たち。いつもお誕生日席に座っていた祖父の場所には小さな写真とウィスキーのグラス。従姉弟たちは、みんな生まれたときから知っている。だけど、わたしと一番年が近い5歳下の従妹も専門学校を卒業して、この春から美容師として働いている。目が覚めるようなオレンジ色の髪が潔い短さでそこにある。彼女の妹は今年高校3年生。姉とは対照的な真っ黒な髪。わたしが卒業した、神大国際文化学部を目指すという。それから従弟。父親によく似た大柄で、だけど心根はとても優しい。たまにしか会わないわたしとはもうあまり口を聞いてくれなくなった。
 しばらく経って、わたしの弟が仕事を終えて、金沢から車を飛ばして帰ってきた。
 仕事帰りの人間ばかりで、3時間もすれば次々に脱落していき、隣の部屋で各々が枕もなく自由な格好で眠りこけている。高3の従妹はひとりテーブルに座り、参考書を開いている。わたしはその背中をぼんやりと見ていた。わたしも、あんなことをしていただろうか。していたのかもしれない。そんなとき、かちんとくる一言が飛んだ。
「大学って、なんとなくやろ? 頑張らんでも、なんとなーく、入るもんやろ?」
 三姉妹である母の、末の妹の旦那の一言だった。この人は、酒が入ると余計なことばかり言う。わたしはいつもかちんときている。だけどこの人には、自分がまずいことを言ったと気付くことがそもそも無い。
「なんて失礼な」
 わたしは言った。
「大学に入るのは、必死なことやよ」
 母の2番目の妹、高3の従妹の母がわたしの代わりに答えた。
 ここには、少なくとも両親の世代には、出て行った人間はいなかった。誰ひとりとして大学を出てはいなかった。みんな高校を卒業し、この町を選んで結婚し、子供を産み、この町に根ざして生きてきたのだ。だから、わからないのだ。この人たちにとっては、大学に行くということも、県の外に出て生活していくことも、ひいては進学校に入って受験勉強をするということも、何もかもが、わからないのだ。
 わたしが、ここからいちばん最初に出て行ったのだ。

2.8月14日
 早起きをして、弟とふたりで映画を観に出かけた。ふたり揃って帰省する間は、わたしは彼の車でどこにでも行く。
 お昼ご飯をどこで食べようかとレストランフロアをうろうろしているときに、いつもは休憩スペースになる空間に、似顔絵販売のブースが出店されていた。
 何気なくその前を通りがかったとき、ふたつあったブースのうちひとつの作家の顔が、心につと残った。
「あの似顔絵作家さん、わたしの小学校のときの同級生かもしれん」
「どっち?」
「あの、左側の人の方」
「声かけたら」
 人違いだったら、そもそもわたしのことを覚えていなかったら、と思いつつも足は自然と逆戻り、彼女の方へと吸い寄せられていった。
 目が合って、わたしが彼女の名前を呼ぶ前に、彼女はわたしを見て、首をかしげながらも言った。
「ちいちゃん?」
 さやちゃん。わたしも自然と声が出た。小学校1年生で転校したわたしの、たった1年だけの友達だった。1クラスしかない小さな教室の中で、彼女といつも遊んでいた。7歳だった頃から、とても絵が上手い女の子だった。彼女の絵といつも自分を比べていたから、わたしはあの頃、自分は絵が得意な人間だと思ったことは一度もなかった。
 さやちゃん。
 それから、しばらく話した。久しぶりの再会は嬉しかったけれど、7歳から25歳になるまでにはいろんなことがあって当たり前で、同じ人間でも経緯がわからなければ違う人間に見える。仲良しだったさやちゃんは、今では立派に自立した女性だった。ぱっちりとした大きな目だけはそのまま大事に残しながら。
 さやちゃんからの、いちばん、わたしの胸を打った言葉。
「今でも絵を描いてるの?」
 わたしは、首を振るしかなかった。「もう今は、描いてないの」たった一言答えることに、こんなに痛い思いをしたのはいつぶりだったのだろう。
 わたしという人間が、今になっても彼女の中で「絵を描く女の子」として残り続けていることに、信じられない思いと、乖離してしまった今のわたしへの失望と、さやちゃんへの、ほんの少しの嬉しさと大きな感謝が残った。
 だからわたしは答えることにしたのだ。
「今は、文章の方を書いているの」
 さやちゃんの目が、少しだけ輝いたような気がした。

 夜は、父の弟家族と中華料理。6歳下の従弟は高校を卒業し、この春から地元の工場で働いているという。髪を茶色に染めて、ピアスも開けて、わたしにも、弟にも、敬語で話すようになった。この子も産まれたときから知っている。彼のお父さんが、彼のお母さんをはじめて家に連れてきた日のことも、結婚式でのふたりの晴れ姿も。
「わたしたち、今年で結婚20年なんね」
 彼のお母さんが言った。
「それを会社の人に言ったらね、あのときの白いドレス着たちいちゃんのことを覚えとる人がおってね、あの子ほんとに可愛かったお人形さんみたいやったって未だに言っとるがよ。赤い口紅ひいてね、式場を飛んで歩いとるちいちゃんのことよ」
 いきなりわたしの話になって、目がぱちぱちと揺れた。わたしの向かいに座る母も「ええ?」と目を丸くして驚いている。ゆっくりと、記憶が掘り起こされはじめた。神社で挙げた結婚式、そこから花嫁さんを家まで連れて行く「お手ひき」の役目。着物姿の花嫁さんとわたし。家に帰って、そこから白いドレスに着替えて披露宴に向かう。タキシード姿の、わずか4歳だった弟とふたりで、新郎新婦へ花束贈呈。
 そんな日が確かにあったのだ。こんなにきちんと覚えているのだ。
「誰か全然関係ない人の記憶にも、そのままの姿で残っていられるっていうのはすごいことやね」
 帰りの車の中、母が嬉しそうに言った。

3.8月15日
 10時に予約を入れて、美容院に行った。母が通い始めて、そこにわたしも連れて行かれるようになった、母娘二代でお世話になっているところだ。場所こそ一度移転したものの、ずっと長く勤めている美容師さんもたくさんいる。
 そしてこの春から、前述のわたしの従妹も働き始めた。
 目が覚めるようなオレンジ色の髪がわたしを出迎える。ご案内します、こちらへどうぞ。よそ行きの声がくすぐったい。案内された先の席、「ちひろちゃん! 久しぶり!」と迎えるいつもの美容師さんの笑顔。
 従妹は、カラーだけを手伝ってくれるという。国家試験に合格して免許を手に入れても、スタイリストになるにはクリアしなければならない項目がたくさんあるらしい。従妹は、シャンプーと白髪染めをクリアし、次からストレートパーマをモデルを使って練習するのだという。白髪染めではあらゆる親戚に声をかけまくり、みんな彼女に染めてもらったということだ。
「ざっちんとちひろちゃんが従姉妹やって聞いてねえ、でも言われてみれば、似てる気がするわ」
 美容師さんが言って、わたしは「ええ?」と驚いて、従妹はただにこにこと笑っている。
「よく一緒に遊んどったん?」
「わたしはあんまり面倒見なかったけど、弟とよく遊んでた」
「ああ、確かにそうやったかも」
 本当に、長女のくせにわたしは情けないくらいに面倒見が悪かった。母方の従姉弟たちにしても、父方の従弟にしても、弟がよく面倒を見ていた。わたしはひとりでぼんやりしているか、大人の話を黙って聞いているだけの子だった。
 だからわたしは、彼女たちや彼らには、あまり好かれていないだろうと思っていた。
 従妹が去ったあとで、美容師さんが言う。
「今日ちひろちゃんが来るっていうからね、ざっちんが、ちいちゃん可愛いですって言うんよ。わたしはあんな髪型せんけど、でも可愛いと思うって言っとったわ」
 それを聞いて、また不思議な気持ちになる。慌ただしく動き回っている従妹の姿がその時だけ見えなかった。
 カラー剤の準備をして、従妹がやってきた。
「では塗っていきまーす」
「はーい」
 彼女の手がわたしの髪を掬った。
 見習いとは言え、ゆっくりでも慣れた手つきでぺたぺたとカラー剤が塗られていく。わたしは黙ったままで、雑誌に目を落としたまま、だけどこの時間を、体の中でながくながく引き延ばすように噛みしめていた。
「ちいちゃんって、ストパー当てたことあるん?」
「ないなあ」
「いいな、髪ぴんぴんやねえ」
 髪がぴんぴんという言い方を、わたしは今でも思い出しては笑っている。さらさらでもなく、まっすぐでもなく、ぴんぴん。
 彼女は立派に美容師だった。わたしの弟と、祖母の家の階段を駆け上がって2階を大冒険していた小さな彼女ではないのだ。自分の車で通勤して、自分でお金を稼いでいるのだ。
 ここにあるのは歳月だ。たしかに流れる貴い歳月そのものだ。

 町の人間として生きていくこと、町の一部として生きていくことは、ださいことだと思っていた。
 高校が、少なからずそういう学校だったから、わたしもそう思っていたし、きっと周囲の半分くらいもそう思っていたことだろう。あの日のわたしには、たとえ大学に進学するにしても、このまま町に残ってここで生きるということを、考えもしなかった。選択肢のひとつにも上らせなかった。というより、気付いてもいなかった。この町は、いずれ出て行くためにあるのだと心の底から信じていたのだ。
 だけど友達は、家族は、親戚は、愛する可愛い従姉弟たちは、ここに根を張り生きている。自分の人生を否定せず、必要以上に肯定もせず、ただ自然に生きている。
 わたしはそれができなかっただけなのだ。
 歳月、月日、小さくても立派な歴史。日本海に面した小さな町が世界の片隅で積み上げてきたものは、どこの誰に見せても何にも恥ずかしくない。ここに根を張る人間にしか作れない輝きだ。海は、空は、空気は、言葉とそして歳月は、息を呑むほど美しい。
 わたしを「ちいちゃん」と呼ぶ人たちが、今この瞬間も幸せであってくれたらいいと思う。

 わたしの髪は軽くなり、思っていたより明るくはならなかったけど、光に当たると綺麗な茶色になった。車を運転できないわたしのために両親が迎えにやってくる。
 すると走って入口まで駆け寄ってくる、美容師さんと従妹。
「ありがとうございましたー」
 わたしは手を振り、車に乗った。

Life is beautiful
2015/08/19
(Summer 2015)

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