星のように愛が降る _Coccoプロムツアー@Zepp Namba
12歳の私にCoccoを紹介してくれた女の子は、Coccoをかなり拗らせていた。
拗らせに拗らせていて、彼女の中でCoccoはまごうことなき神様だった。
私も彼女と仲良くしていたし、趣味も似通っていたから、Coccoの音楽にどぶんとハマってCoccoしか聴かなくなったりCoccoの音楽で絵を描いたり小説を書いたりとにかく世界がCocco一色になった時期がやってくるのは当然の成り行きだったかもしれない。12歳の私にとってもCoccoはまごうことなき神様だった。
けれど少しずつ目が覚めていくようにして、今度はCoccoを崇め奉っている、Coccoを神様のように見ている人たちのことが苦手になった。Cocco以外にも素晴らしい歌手なんてたくさんいるじゃないかと思っていた。Cocco、Coccoって、どうしてみんなそうCoccoなんだよ。どうしてみんな口を揃えてCoccoなんだよ。おかしいだろ、そんなにCoccoを神様のように崇めてちゃ、Coccoの方が可哀想だよ。
そんなふうに思い始めてから、Coccoはだんだん私の中から遠ざかっていった。変わらず彼女の音楽は聴くけれど、私にとってCoccoはもう神様ではなく、ただ、一人の歌手だった。そんなに多くはいない好きな歌手たちの、その中の一人の歌手になった。そうなるように、した。もう神様にしたくなかった。一人の歌手としてCoccoの音楽を聴きたかった。
20年経った。変わらず私はCoccoの音楽を聴いている。Coccoも活動25周年を迎え、アルバム『プロム』をリリースし、全国ツアーをするという。
ふうん、という気持ちで、まあ応募はするし当たればいいけどそんなこと言ってこの絶望的なくじ運じゃ絶対当たらないだろうなという気持ちで、住んでいる大阪公演だけに申し込んだ。
そうしたらどうしたことか当選してしまった。なるほど、私くらいのくじ運の人間ですら当たるんだからみんな当たってるんだろうなと思っていたら、案外みんな当たっていなかった。どうも、すごい偶然を引き当ててしまったようだった。
うわあ〜、Coccoだってよ、緊張するねえ。私は友達に何度も喋った。だってなんだかんだ言って20年聴いてるわけだしねえ。いや〜Coccoか、緊張するなあ、あはは。
そう話す私はまるで12歳の自分を見ながら、もう過ぎ去ってしまった彼女の熱を懐かしんで、まるで何かの幻に会いにいくような気分だった。
なんかここ3年くらいの曲のセトリみたいだから今めっちゃ聴いてる。
そうは言いつつさ、休止前の曲歌われたらやっぱテンション上がるでしょ。
上がるよね。「焼け野が原」とか歌われた日にはもう情緒が爆発するね。
君が焼け野が原になるやつだね。
いなくなるやつだわ、私。
果たして、私はいなくなっていない。
数日前に偶然見かけた名古屋公演の感想ツイートに2020年〜2022年のセットリストだと書かれていたので『クチナシ』と『プロム』を数日前から何度も聴いて臨んだ。
そうしたら、大体、そうだった。そして私もいなくなっていないので、活動休止前の、私の中で彼女が神様だった時の楽曲は歌われなかった。
でも、それでいいんだと思った。
彼女は今後メディアに顔出しをしないと発表していたので、ライブではどうなのかなと思っていたけれど、ライブでも正面から歌手を照らすシーリングライトやスポットライトは使われなかった。その代わり、極彩色の照明が真上から、背後から、彼女を照らし、そして客席の私たちを照らした。客席に惜しみなく光を向けるライティングは、まるで彼女の意識がこのホール全体に拡張しているように思えた。私は今、彼女の中にいるのかもしれないと思った。彼女の、彼女の目に映っている、あるいは、彼女の心の中にある、その風景、彼女の感情のその色とりどり、それが、ここにあるのかなと思った。いたのかもしれない、彼女の中に。短い時間の中。
彼女の声は伸びやかで、突き抜けていて、ハードなサウンドにも引けを取らない声量があって、そんな細い体のどこから声が出ているのかとても不思議で、それから、その伸びやかでパワフルな声量は、私が神様だと、この人のことを神様だと思っていた頃の彼女には、なかったもののように思えた。この人は25年をかけて、「歌手」である自分を受け入れて、磨き続けてきたんだと思った。
そんな圧倒的な声量と表現。
そう溢れてみなぎっている。
この人はみなぎっている。
音楽を愛し、沖縄を愛し、海と大地を愛し、人間を愛し、愛を愛して、その力が全身に、みなぎっているんだ。
自分を突き動かすもの全て受け止めて、全て残さず力に変えて、この人は今しかないこの瞬間を歌い、生きているんだ。
最後の曲のライティングに、ああ、愛は降るのだなと思った。
星のように愛は降るのだ。この人の溢れてみなぎる愛はまるでsupernovaで、このホールに余さず降り注いで、その愛を受け取る私たちはみんな、星の子たちであったことだ。惜しみなく与えられる愛、惜しみなくここに降る愛、そのまばゆさ、その力強さ、今日も明日も生きてあれとこの手を握るあたたかさ。
愛が降る瞬間を、この目で見た。
彼女は前進する。25年を経ても前へ前へと進んでいく。
彼女は過去の曲に縋らなくてもいい。彼女にはちゃんと今歌うべき、彼女にとって歌いたい音楽がある。彼女は前進する。過去の手を振り払って未来へと歩む。その足取りは困難も悲しみも苦しみも全部を抱きしめて、生きる苦しみを知っているからこそ軽やかに前へ。
私も前進しなくては。12歳の私をいつまでも繭の中にしまい続けて大事に大事に抱えているのもいいけれど、来月には32歳になってしまうこの身、それだけじゃもうダメなんじゃない?
彼女は誰の神様にもならなくていい。
彼女はもう私の神様じゃない。
今夜、私が短い時間に会いに行ったのは、自身の声を、音楽を磨き続けた一人のプロの歌手で、愛に溢れ朗らかに笑う一人の女性だった。
今日も明日も生きてあれと、この身に降り注いだ愛を思って、私は今夜を過ごすだろう。明日を過ごすだろう。精一杯とは言えなくても、なんとなくでも、どうにかでも、生きて、12歳から20年、32歳を迎えるだろう。
そしてたまには12歳の私を思い出して、神様だった頃の彼女を思い出して、ほんの少し寂しくなって、それでもこれからの彼女の人生に幸あれと、できるなら私の人生にも幸あれと、晴れやかに願うだろう。
晴れやかに願うだろう。