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被害者救済法について思うこと

 こんばんは、12月になり一気に寒くなりましたね。

 安倍晋三元総理の暗殺事件から問題になっていた旧統一教会。霊感商法被害者の救済法案が成立しました。私は立憲民主党はとてつもなく嫌いなのですが、今回前向きに法案成立に動いたのは非常に良かったと思います。

 日本ではオウム真理教など、カルト宗教の問題は社会に根付いた病魔です。もちろん被害を減らす役割はありますが、この法案一つで解決できるほど甘い物ではないでしょう。詐欺でもなんでも、忘れた頃に姿形を変えてまた現れます。

 なぜこんなことが起こるのか?宗教法人格を利用し荒稼ぎをする法人側はもちろんですが、どう見ても怪しい宗教にのめり込んでしまう人間がいるのも事実です。私が法律に関していつも思うのは「法律は人の心まで変えることはできない」ことです。当たり前の話ですが、たとえ霊感商法を規制しても献金をすることで満たされる人間もいるはずです。法律で縛ったとはいえ、その人の心は路頭に迷いまた新たな「心の救済」を探し求めるでしょう。その時目の前に現れるのは宗教か、はたまた健康食品を売りつける悪徳業者か?

 弱者はいつでも救済を求めていて、それを埋めるために最も簡単な方法で満たそうとする傾向があると思います。ホストにはまる女性もその種類の人間では?こういう人たちに必要なのは自立と成長、霊感商法一つを解決しても彼らにとっての「宗教」はあちらこちらにあるはずなのです。

 安倍元総理を暗殺したテロリスト、絶対に許すことはできませんが彼の母親も同じような種類の人間だったのでしょう。旧統一教会にのめり込む前は「朝起会」とかいう果たして宗教なのか運動なのかよく分からないものにハマって子育てもおろそかにしていたそうです。要するに、満たされればなんでも良いのです。
 このような弱者がひたすら欲望、救済を追い求める社会を故石原慎太郎先生は著書「新・堕落論」で「平和の毒」と表現していましたが、カルト宗教は弱者に毒を埋め込む最たる媒体なのでしょう。

 私もそういう平和の毒がまち散らされた時代を生きてきた世代ですが、やはり「平和」とは漠然としていくらでも形を変えうる物。ある人は家族と楽しく過ごすのが「平和」という人、ある人は金を荒稼ぎして好きなものを食べ酒を飲み、男でも女でも欲望のままに手に入れる。平和の形も人それぞれです。現に、カルト宗教に救いを求める人がまだまだいる。

 被害者救済法の成立、確かに本人や家族にとっては経済的な救済にはなるでしょう。しかし、取り残された「信心」はどうなるのか。ここまでくると法では解決できない点で、まだ禍根を残す問題だと思います。

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