第六夜 『蝶』 / 満月連載 夢日記
ある満月の夜の、夢日記。
男は羽根をもがれたまま、もう一度飛ぼうとしていた。
強烈な光を浴びたリングの上で沈んだあの時、運命という残酷な裁きに、もがれたのだ。
勿論、油断や慢心と言った言葉に置き換えるのは容易である。
しかし、遅かれ早かれそういったぬかるみにハマる運命だったのだ。
どの分岐点を選んだとしても、きっと同じような幕引きになったはず。
俯瞰で見てしまえば、至極単純なこと。
ただ、そのぬかるみには底がなかったのだ。
男はヴィンテージのソファに深く沈み込み、もう何年も、それを自分の過失として反芻し続けた。
誰もが羨む豪邸。一生で使いきれない富。それらはもう男にとってなんの価値もなかった。
あの日を境いに、プライドが欠けてしまったから。
力無くだらりとぶら下がった腕の先に、握ることもままならない拳が在った。
それを庇うように立ち上がると、鏡の前で自分を見つめる。
男は現役時代、ヒール役に徹したキャラクター性の人気から、広告などの仕事に追われ、ほとんどトレーニングをする時間を取らなかった。
それでも天性の才能で、その地位を守り続けた。
負ける恐怖を知らなかったが故の、一過性の強さであった。
あの運命の日、恒例の挑発パフォーマンスをしたタイミングで運悪くスリップし、その一瞬の隙を突かれると、男は片目の視力を失った。
網膜剥離だった。
視界が狭まり、混乱した男は綺麗な右フックを打ち込まれ、無様に崩れ落ちた。
衝撃だったのは、大会の一回戦で当たった、ノーマークの相手だったこと。失望のバッシングは、試合後も鳴り止まなかった。
だがしかし、そのまだデータのない無名選手は、のちの王者に輝くことになったのだった。
幸いその後の手術で視力はある程度復活したものの、敗北を知った男の動きはまるで別人だった。
あと一歩が踏み出せない。後退の意識が邪魔をし、相手に対するプレッシャーがまるで欠けてしまった。
もう既に、男の背中に羽根はなかった—。
鏡の前で、いつぶりかも分からない拳の動向を確かめる。
まるで意志と直結していないそれは、記憶の残像とは大きくかけ離れたものだった。
それでも、ただただ無心に繰り返す。
水を飲み、肉を喰らい。
消耗しきった身体を地面に横たえる。
目覚めればまた同じ毎日の始まりと終わり。
屈託のない本能が、無駄な動きを削ぎ落としていくような感覚が芽生えるのに、どれほどの月日がたったのだろう。
研ぎ澄まされた闘争心が、微かに燻り始めるのを感じた。
まるで生命線であるかのような拳の軌道は、少しずつであるが、着実に速く鋭くなっていく。
筋肉の繊維単位で鋭敏になっていく、確かな応え。
たとえ未発達だとしても、もう二度と手に入らないと思われた羽根が、生えたのだ。
破壊と再生。想像と創造。
その繰り返しの日々の先にある、一筋の光にすがった男は、無心で拳を振り続けた。
ある時目覚めると、男はソファに沈み込んでいた。
どうやらトレーニングで果てたまま眠っていたらしい。
いつものように鏡を見据える。
すると、自分とはかけ離れた自分が映った。
それは、羽根のもがれたままの鈍重な獣だった。
来る日も来る日も妄想に明け暮れた、肉の塊。
終わらない末路の先。
男の夢は只の夢であって、もう夢ではなかったのだ。
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