ー生きているということー
谷川さんが訃報が流れた今日
谷川さんはもう、ここにはいなくて
あちら側にいらっしゃるのだな、なんて
雲に半分に隠れた夕暮れの空を眺めていた
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世界との自分との深い谷を知り
嘘をつく言葉に絶望していた思春期に
それでもこの世界に生まれてこられてよかった
この人がいるなら大丈夫かもしれないそう思わせてくれた人
谷川さんの生きるという詩は生きてみる、力を与えてくれた
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生きる
谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
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時を経て30代に入ろうという頃、ニューヨークから帰り
日本で実家から初めて離れて、暮らした南阿佐ヶ谷の家は
期せずして谷川さんのお家からとても近くて
(『私の家への道順の推敲』でも南阿佐ヶ谷からの道のりを描かれていた)
タンクトップ姿で車を洗う姿
(しっかりと生活の筋肉がついた素敵な腕だった)
Tシャツにデニムで颯爽と散歩される姿をよくお見かけしたし
夜遅く帰宅する時にも、お部屋の明かりが灯っているのを眺めては
なんだかとても嬉しくなったものだ
それはまぎれもなくあの場所を離れがたかった大きな理由の一つ
何度目かの賃貸更新を終えた頃
南阿佐ヶ谷の駅を降りてすぐにあった書店「書楽」で
何気なく氏のエッセイ「ひとりぐらし」を開くと
[結婚式に出るのはつらい経験に違いない。その点、葬式には未来というものがないから何も心配する必要がない。未来を思って暗い気持ちになることはない。「葬式考」より]
とあって
友人にさえも分かち難い妙齢の心を、また解ってもらえた気がした
こうしてお隠れになる一年程前の記事では
「死体は脱ぎ捨てた洋服」
なんておっしゃってるのをお見かけしたけれど
寂しくなります
衣装の作家のようなものになった私にとっての服も
変わらずそれほど儚く頼りないものですし
でもかりそめでも何かを着て
私たちはこの世界に繋ぎ止められているのですね
もうあの軽快なTシャツのお姿をみられないのかと思うと
あの逞しい腕を思い出しても
やっぱり寂しくなります
あなたの部屋の明かりがついていること
生きていているということ
もういない、ということ
「ほんとうに出会った者に別れはこない」
またあなたの言葉を唱えながら
どこか意地悪っぽい眼差しと
その奥の赤ん坊みたいな光と
万年青年のようなその確かな佇まいを思い出すのです