誰かのために。
何をする時でも、自分だけのためじゃなくて、誰かのためにやることの方が意味がある。
なぜか僕はそう思ってしまう。昔からそうだ。
高校3年生の時、センター試験を控えていて、業後の追加授業をやっている時、僕は出席するはずの授業を投げ出し、同じ部活の後輩のところへ向かった。
その年が1つ下の後輩は、顧問の先生と関係がギクシャクしており、部活を辞めるか続けるかの選択に迫られているところだった。
僕は彼が部活を辞めるか続けるかは本人に任せていたが、1年続けてきた部活を辞めるか続けるかということは高校生活にとって大きな岐路になると思った。
だからこそ、その決断を彼自身が一人で抱え込まず、冷静になって判断して決めて欲しいと思った。
結局彼は部活を辞めたし、彼にとってその選択が後にどう影響したのかは僕には分からないが、彼が納得して決断出できていたと感じた。
このような感じで、僕は僕自身が誰かの役に立つと感じることを優先して行いたいと思う。
これだけ聞くと聞こえがよいのだが、問題は次にある。
例えば進路や受験勉強。僕はありきたりなやりたいことが明確になっていないタイプのため、全て流れのままに進路を決めてきた。
勉強は嫌いではないが、明確になっていない目標のために頑張ることもできず、そもそも自分が頑張ったことで、この努力が誰かの役に立つのだろうか?とも感じてしまう。
自分でも現実逃避をしている青臭さに鼻をひん曲げてられていることは分かっているが、どうにも「自分のために」が「誰かのために」に繋がっているとは理解できていない。
だから一人で美味しいご飯を食べることも、絶景を見ることも、独り占めすることも、Netflixをずっと一人で見ていることも、どこか勿体無いような、申し訳ないような気持ちを抱えてしまう時がある。
だからこれからは、自分の感じたこと、理解したこと、思ったことをこうしてNote記していこうと思った。
そうすれば、自分だけのものだったこの感動、この知識、この悦びを誰かに繋げられるのではないかと思った。
そうであれば、この自分の時間も無駄ではなかったと思える気がする。
この文章を書くこと自体が最も自分のためになり、自分のためにやっていることなのかもしれないと感じながら、こうして思いを書くこと、誰かに届くようにと思うことはいいことだと思った。
誰かのために(自分のために)これからNote書いてみようと思った話。