恋するひとを探さない
12月下旬、街はクリスマス一色。
イルミネーションはキレイだから好き。光っているから好き。
でも、光のピーク、24〜25日に街を探索するのははばかられる。彼女がいないからだ。
周りの目を全く気にせず”キレイだな〜”と思える根性がない。
くだらないブログばかり書いている僕でも、今までの人生、それなりにひとを好きになってきた。恋愛という意味で。
僕は惚れっぽいところがあるので、お付き合いできたかはともかく、好きなひとがいなかった期間があまりない。
でも今、好きなひとがいない。こんな話、ほんとどうでもいいけど、僕にとってはどうでもよくない。いろいろと気づきがあった。
まず、自分に集中できる。自分はこんなことを考えていて、こういうことがしたいんだなという気持ちに正直になれるようになった。ほかに考えることがないから。
そして、何も考えずにできる遊びをする時間が増えた。ゲームとか。
僕はこの手の遊びを”バブみ”があると呼んでいる。乳飲み子に戻れる遊び。
こないだ、友達とゲームをしながら
「バブみが多い。」
と言ったら、
「使い方を間違ってるよ。」
と言われた。そうなの?
とにかく、僕はいつも悩んでいるので、バブみを摂取しやすくなったのはいいことだ。
こうして振り返ると、どこかスッキリした自分について、さらに気づくことがある。
僕はひとを愛するとき、好きだなあという気持ちと一緒に、好きなひとになにかを与えなければいけない義務感にかられている。
これまで僕がもらってきた無償の愛。ほんとうに、他人なのになんでこんなに俺のことを考えてくれるんだと思ったことが何度もある。
幸せでありがたかった。嬉しかった。
それに対して、”お返しをしなければ”という気持ち。
これは間違っている。こうあるべきじゃないと思う。
極端な話、血の繋がった家族であれ他人である。だから、一緒に生きるなら、なにかしらを交換することになる。
優しさに対して、優しさを返したり、まあ、ピアスとか、おいしい料理とか、そういうものを返したり。それはいいんだ。箱の中身はなんだっていい。
問題は過程、僕の愛はこの過程において幼稚だ。
僕が”無償”だと感じてきた愛に対して対価を支払おうとするのは傲慢だ。全然わかってない。
しかも、自分がそうするように相手も何かしてくれるだろうという期待をしてしまった場合、憎しみすら生まれる。”こんなに気を遣ってるのになんでだよ”という感情。悲劇だ。
まあ、仮に僕の元カノたちが座談会を開いたら、”そんなことないよ”といってくれる人もいるかもしれない。僕にも無償の愛があったと。
(そんな座談会、この世の何よりも地獄だから絶対に嫌だが。)
無償が翻り、いつのまにか有償になるときがある。
“お返ししたい”が義務になったらダメだ。うわあ、愛、むずかしすぎる。再履修。留年だ。
いつかまた好きなひとができたら、こういうところは敏感でいたいな〜と思う。
そんな大切なひと、わざわざ探さないけど。
「スキ」を押して頂いた方は僕が考えた適当おみくじを引けます。凶はでません。