#24 犯罪に至る背景
このチャンネルを始めようと思ったきっかけでもある高知東生さんが、田中聖さんの実刑判決についてツイートしていました。彼に必要なのは刑罰ではなく治療なのだ、薬物依存症という病気なのだ、と。
たまたまYouTubeで流れてきた報道チャンネルでもこの田中聖さんのニュースを取り上げており、気になって再生してみました。でも、コメント欄を見て苦しくなり、見終えることなく閉じる。
そこのコメント欄に並んでいたのは、田中聖さんや薬物依存症者に対する批判。一般的には当然と感じることかもしれないけれど、私はとても悲しく、苦しくなりました。
高知さんのツイートに対するリプやYoutubeのコメントには、「病気だとしても、違法なものに手を出しているのは自分」「罪を犯した理由にストレスや心の病気などと言い訳するのはやめて」というものがありました。
確かにそうです。確かにそうなんですけど、それとこれとは別というか…私はもう少し違う意見を出したいなと思ったんです。
私は、自分が犯罪に手を染める可能性って十分にあったんじゃないかと思っています。たまたま運がよかったからそういったことにならずに生きているけれど、出会う人や出会う環境が違ったら、自分が犯罪者になっていたんじゃないか、と。
頼り方を知らなかったり、拠り所がなかったりしたときに、自分を唯一認めてくれる人が罪を犯す人だった場合、私はたとえ”よくない方法だ”とわかっていても、選んでしまうと思います。罪に加担することでしか、自分の存在を保てないことだってあると思うのです。
罪を犯してもいいということではありません。状況や環境で、そうせざるを得ないことだってある、そういう世界があると思っているという話です。
「自分は過酷な環境だったけど、道を踏み外すことなく踏ん張ってきた」。そういう人もいるでしょう。
でもそんな強い人ばかりじゃないんです。人にはそれぞれ気質も特性もあって、その人はそれに耐えられる人だっただけ。頑張ってきたことは確かに称賛されるべきことだと思うけれど、自分の努力が報われていると自慢しているようなもので、解決方法として提示していることにはならないのではないでしょうか。
罪を犯してしまったことに対する償いは必要だと思います。被害者がいる場合には、被害者の方が十分にケアされることも大切だと思います。でも、犯罪者がどうして罪を犯してしまったのかを知ることも、大切だと思うのです。それぞれ切り離して考えていくことが、再犯防止やそもそも事件を起こさないような環境をつくることにつながっていくのだ、と。
どうしたって防げないことがあるのも知っています。感情の欠如など、どうしようもない現実があることも。
それでも、防げることもあるはずだ、と思うのです。
中学生の頃、『青の炎』という映画を観て、衝撃を受けました。17歳の少年が義理の父親を殺害するサスペンスです。貴志祐介さんによって書かれたもので、原作本もページが擦り切れぼろぼろになるまで何度も繰り返し読みました。
17歳の少年にとって脅威である存在から、大切なものを守りたかった。大人に相談しても解決方法が見当たらない。頼れる人もいない。ただひたすら自分の信じた道を進むしかなかった。進んでも結局、報われることもなかった。とても重く、切ない物語です。
犯罪と刑罰について考えていたときに思い出したこの作品。
映画のレビューには、「解決法が殺害というのはいかがなものか」「自分ならもっと上手くやる」と主人公を責めるようなものもありました。私はそれらに対し、他の選択が見えなくなるほどに、主人公は追い込まれていたんじゃないかと反論したくなるのです。どうしたって視野が狭くなることだってある。”それが正義だ” と信じ込んでしまうことだってある。
追い込まれた状況を体験してきているから、こういう意見になるのかもしれません。体験していない人、そんな感覚を知らない人もいると思っています。だから、その人たちを否定したり批判したりということもしません。ただ、そういう世界に触れてきた自分としては、主張したいことがありますね。
一方的に人を責めることをしないのは、こういった作品との出会いも関係しているのかもしれません。そして私自身が暗い世界で生きてきたということも。
世間的にはこれらの意見は批判されることのほうが多いでしょう。それでも私は、”人を責めることよりも、人を見ることのほうが大切だ” と言いたいです。
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