作家になった友人の「覚悟」
久々にFacebookを覗くと、中学からの友人が「本を出版しました」と投稿していた。
出版社のサイトに飛ぶと、試し読みすることができた。夫とのセックスレスをめぐり葛藤する女性の心情が描かれた小説。没入して読むあまり、途中までこの小説は友人の実体験を書き起こしたのかと勘違いしてしまった。間違いなくフィクションのはずなのだが。
展開に夢中になり一瞬で読み終えた後、心に湧いてきたのは「友人、すげえな」であった。友人の類まれなる文章力もさることながら、それを上回って驚嘆させたのは、こんなにリアルで、登場人物の機微が伝わる性描写を書き切った友人の、なんというか「覚悟」であった。
友人とは中高一貫の女子校で6年間ともに過ごした。男子の目がないことをいいことに、学校では挨拶代わりに下ネタを言ったり、しょうもないことで日々ケラケラと笑い合っていた。とても楽しく、何の責任感もない時代だった。
いつしか私たちは高校を卒業し、友人は有名私立大の文学部へ、私は地方大学の歯学部へ進んだ。
大学は離れたものの、ゆるく繋がっていた私たちは大学生になってもときどき連絡を取っていた。私が冬休みにいきなり東京に押しかけたとき、就活で忙しいのにもかかわらず、ディズニーランドに付き合ってくれた。夜は快く私を家に泊め、一人用のベッドを私に譲り、自分は下に寝るね、と自然に言ってくれるような友人だった。こんな身勝手な私に対して、本当にやさしかった。
友人のやさしさに甘え、やさしさこそが友人の一番の長所と認識していた私は、友人の作家としての「覚悟」を目の当たりにしたとき、後ろから殴られたような気がした。
そして目が覚める思いだった。
友人は、地方から押しかけたワガママな私を温かくもてなしながら、就活にも成功。私よりも早く社会人となり、年月が流れた今、とある出版社で編集者としてバリバリ働いている。
私も歯学部で6年間過ごした後は、歯科医師として、いわゆる社会人となった。世の中における小さな歯車の一つとして、できるかぎり周りと調和することを目指して過ごしてきたし、そうあるべきだと思っていた。
しかし、小説で堂々と性を書き切った友人の姿勢は、自分を殺し、良い人間を演じ、社会に埋没する大人たちへのアンチテーゼにも受け取れた。そして、自分が描きたいのはこれだ、という「覚悟」を表明しているように見えた。めちゃくちゃカッコよかった。
では、今の私にそんな「覚悟」はあるだろうか。
私は、所属する組織において、角を立てることをひどく恐れている。
自分の発言や行動で、相手から不快に思われることがとても怖い。だからいつも必要以上にへりくだってしまうし、当たり障りのない発言しかできない。その結果、相手からマウントを取られることもしばしば。マウントを取られた後で相手に歯向かうことは決してしないが、相手がマウントを取ってきた時の表情、声色、話した内容、そのすべてを脳裏に焼き付ける。
そして、自分が何かを達成したい時の原動力にしている。
そんな、何ともひねくれた方法でしか生き抜いてこれなかった自分を、友人の小説を目の当たりにしてひどく恥じた。
自分の意見や憤り、そして情熱を、隠すのではなく正しく昇華することこそ、大人のあるべき姿ではないのかと。
私は友人のように、自分をさらけ出す「覚悟」がなかった。ずっと逃げていた。
今回友人の小説と出会って、私は変わることにした。いや正しくは、変わらないとこれから生きていけない気がした。
自分を殺して生きるのはやめる。そんな生き方はニセモノだし、卑怯だ。
私はこれからも、組織の中ではできる限り「良い子」でいようと振る舞うかもしれない。そうすることが組織の一員としては正解だろうし、そうでないと社会はうまく回っていかないからだ。
ただこれからの私は、このnoteという場所で、自分を解放してみることにする。
自分のエネルギーをここにぶつけてみたい。どうなるかわからないが、できるところまでやってみる。
卑怯者の自分に、終止符を打つために。
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