自由との付き合い方、自由を得たことによる孤独と公共の福祉

自由であることは、手放しで喜べるほどいいものでもないよね、という話のメモ。

自由であることには耐え難い孤独と痛烈な責任が伴う

市民が「自由」を得たのは、日本では明治維新を経てから。
多数の犠牲を伴って手に入れた「自由」によって、人々は幸福になったのか。

なぜ高価な代償を払って獲得した「自由」を味わった近代人がファシズムに熱狂したのか。

孤独の責任の多さに多くの人々は疲れ果て、ナチズムの全体主義に傾斜したのだとフロムは考えた。

その上で幸福を実現するためには、自分自身で考えて、感じて、話すことが重要であり、何よりも「自分自身であること」に勇気と強さを持つことだ。

武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50 (山口 周) 

例えば農民の子は、農民にしかなれない、という時代を考えてみよう。現代の感覚からしたら職業を選べないなんて信じられないが、その分、自分で職業を選ぶ必要はなかった。

就職活動でどの会社に応募するか、面接でどう答えるか、自分は転職するべきなのか、個人事業主になるべきか、起業するべきか、友だちのほうが年収が高いとか、同期に出世で抜かれたとか、悩む必要はなかった。

自由があって、選択肢が増えた分、自己責任が増えた、というお話。

恋愛・結婚関連で言えば、非モテどうこうの論争も、自由を得たことによる延長線上の問題といっていいだろう。

何人たりとも、他人の自由を侵害してはならない。

人は本来自由であって、この自由を制限することは誰にも許されない。ただ他人の自由と衝突する場合においてのみ、自由は制限されうる。

下記のQuoraリンク回答より 「誹謗中傷と表現の自由、これらの線引きはなんでしょう?」

これは法律ではなく拡大解釈だが、電車内のマナーも似た事象だと思う。電車という同じリソースを共有しているからこそ、周りの人のイヤホンの音漏れ、貧乏ゆすり、座ったほうがよさそうな人が来たときに席を譲る、といったマナーが求められ、自由は制限される。

家庭内の家事のルールも同様で、自分以外の人と何かを共有するなら、必ず自由は制限され、ルールが作られる。



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