自由との付き合い方、自由を得たことによる孤独と公共の福祉
自由であることは、手放しで喜べるほどいいものでもないよね、という話のメモ。
自由であることには耐え難い孤独と痛烈な責任が伴う
例えば農民の子は、農民にしかなれない、という時代を考えてみよう。現代の感覚からしたら職業を選べないなんて信じられないが、その分、自分で職業を選ぶ必要はなかった。
就職活動でどの会社に応募するか、面接でどう答えるか、自分は転職するべきなのか、個人事業主になるべきか、起業するべきか、友だちのほうが年収が高いとか、同期に出世で抜かれたとか、悩む必要はなかった。
自由があって、選択肢が増えた分、自己責任が増えた、というお話。
恋愛・結婚関連で言えば、非モテどうこうの論争も、自由を得たことによる延長線上の問題といっていいだろう。
何人たりとも、他人の自由を侵害してはならない。
これは法律ではなく拡大解釈だが、電車内のマナーも似た事象だと思う。電車という同じリソースを共有しているからこそ、周りの人のイヤホンの音漏れ、貧乏ゆすり、座ったほうがよさそうな人が来たときに席を譲る、といったマナーが求められ、自由は制限される。
家庭内の家事のルールも同様で、自分以外の人と何かを共有するなら、必ず自由は制限され、ルールが作られる。
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