表記 ⑴

文章を書く上で、意識的に、漢字ではなく平仮名を用いて表記する単語がいくつかある。「日本語的に」とか「国語的に」という話をされてしまえば弱いので、私のイメージ的に ❝使い分けたい❞ のである。

1⃣ 「ひと」

私は、生物種としての人間を表現するときには「ヒト」という片仮名表記を用い、物質的なモノとしての人間を表現するときのみに「人」という漢字表記を用いるようにしている。そして、それ以外の場合には「ひと」という平仮名表記を用いるようにしている。生物種の表記は、学名 (属名+種小名) または、日本語で表す際には、片仮名表記の和名とするのが一般的である。「人」という表記は、私の中で入れ物・器としての意味合いが強く、魂・心・性格といった器に入れる中身の部分が抜け落ちているように感じてしまう。そのため『彼は○○な性格である』という場合には、『彼は○○な人である』ではなく『彼は○○なひとである』というふうに書きたい。しかし、「人」という字が他の漢字と熟語になった場合には、「人」という漢字に対する入れ物感は薄れるため『彼は○○な人物である』というふうに表現することに違和感はなくなる。

2⃣ 「もの」

物体を表す「物」、ひとを表す「者」。その両方の読み方であるために、どちらの意味も含ませることのできる「もの」と「モノ」。片仮名を使うのはどういう場合に多いかと考えると、和語ではないもの・擬音やオノマトペ・固有名詞が主であると思う。そんな中あえて「モノ」のように漢字もしくは平仮名表記で意味の通じるものを片仮名表記にした場合には、強調することによって何かしらの意味を持たせたいのかなと思われても仕方がない。「もの」に関しては、違和感があって漢字の使用を避けているのではなく、物質と捉えられても人物と捉えられても良い場合に、区別なく対象を指定するのに便利だから という理由である。そのため、漢字を使っているときは「物」なのか「者」なのかをハッキリと区別したいときである。

3⃣ 「とき」

私は滅多なことがないかぎり「時」という漢字は使わない。その理由としては、「時」という漢字を用いた場合には、ある事象が起こった際の一瞬の時間しか切り取れない・定義できない という感じがするからである。対して「とき」と平仮名表記にした場合には、指定できる時間に前後の幅があり、さらにその事象が起こる条件などもひっくるめて指定する感じがするからである。つまり「時」という表記には時間の概念しかないが、「とき」と表記することによって時間以外の概念も含まれる。普段私が文章を書く際には、作業中の時間のみを切り取ることは無く、作業を行う状況や環境についての意識や意味についても含める場合がほとんどなので「とき」を使う。

時間が関わるものだと「いま」と「そのあと」も平仮名表記にすることが多い。これらも「とき」と同様に、時間の概念にプラスして状況や条件の意味も含めたいことが多いからである。

4⃣ 「こと」

「事象」などのように熟語にすることなく「事」という漢字を単独で最後に用いたのは何年前なのかも覚えていないくらいである。それゆえ、なぜ「事」を用いないのかの理由を探ることさえ困難である、が思いつく理由としてはやはり、「こと」に対して「事」の指定する範囲が狭いように感じられるためである。「事」が物質や事象しか指定できないのに対して、「こと」は理由や条件などの目に見えないものまで指定できるように感じられる。

5⃣ 「わかる」「わからない」

『□□を明らかにした』というときに「分かる」という表記ではなく「わかる」という表記を用いるようにと、研究室に所属し、ゼミの要旨を書くときに教わった。理由は不明。以前の記事に書いた、教育者としての能力皆無な准教授M氏の教えであるため、この書き方が合っているのかは依然としてわからないが、この書き方に慣れてしまっているのと、他の研究室から上がってくる卒業論文などを見るに、「わかる」「わからない」を用いるのがどうやら科学論文の世界では一般的なのだろう。それだけに、テレビ番組のテロップ等で「分かる」「分からない」の表記を見るたびに少しモヤっとする。

「できる」に関しても、M氏に言われて「出来る」表記をやめ、周りを見るに平仮名表記が一般的だと悟ったものである。また、「できる」に関しては通俗的にも漢字表記を用いていることが少ないように思うのは私だけだろうか?

6⃣ 「子ども」

一時期? (いまも?) ) 「子供」という表記の「供」という字が【贄】を連想する的な意味で使うのが良くないみたいな感じになったため私も使わなくなった。一方、『こどもの日』のように「子」という漢字も使用せず、すべて平仮名表記というパターンも存在するが、親世代に対する子世代という意味で「子」という文字は (自分の中で) 外せなかったので、「子ども」という表記を使用している。

7⃣ 「~たち」

「~たち」に関しては一番難しい。意味合い的な嫌悪感ではなく、文字の並び的な嫌悪感なのである。あまり使わない「人」に引き続く場合には「人たち」と用いたい一方で、「ひと」や「子ども」のように平仮名に引き続く場合には「ひと達」や「子ども達」のように漢字を用いないと気持ちが悪い。「人達」、「ひとたち」、「子どもたち」は変な感じがして文章が頭に入ってこない。

8⃣ 「たぶん」

maybe を和訳するときに「多分」を使うことはまず無い。というか、今までに使ったことがないかもしれない。これも平仮名でないとおかしいと思ってしまう。直観的なもので特に理由は見当たらないが。


ここまで書いてきて思うのは、見た目の嫌悪感で用いていないもの以外は、読み手に意味をふわっと捉えさせたいものが多いように思う。良く言えば【読み手に想像の余地を残したい】、悪く言えば【突っ込まれたときに逃げ道を残しておきたい】ためである。

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