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アウトサイド・モノクローム/2話

【1話】

―――――(5)―――――


恭仁は高校に進学した。卒業生の99%が国公立大学へ行く進学校で、恭仁の姉の霧江も通い、兄の貞義や隆一も通ってきた高校だ。2人の兄は卒業して首都圏の国立大学に進学、キャリア警察官の道を志した。だが長男の貞義は国家公務員試験の合格に至らず、卒業後は帰郷。大卒資格の地方公務員にて警察学校の門を叩く。次男の隆市は在学中、貞義より頭脳明晰であり成績はトップクラス、倉山一族の悲願たるキャリアへの道に照準を定めていた。

「兄貴は遊び過ぎてたのさ」

春休みで帰郷していた隆市が、手酌でビールを注いだグラスを傾け嘲った。

「恭仁、兄貴が東京でどれだけブイブイ言わせてたか、お前知ってっか?」

恭仁が頭を振ると、隆市が居間をぐるっと見回し、彼に顔を寄せて囁いた。

「女漁りだよ。難関大の身分を鼻にかけてサ、顔合わせる度に女が違うんでブッたまげたね。まぁ俺も彼女の1人や2人そりゃいるけど? 兄貴の女癖の悪さときたら異常なもんだ。女が俺を放っておかないんだって言って憚らず取っ替え引っ替えのやりたい放題さ。親父が聞いたら卒倒するだろうな」

恭仁はどこか遠くの世界の出来事のように、隆市の言葉に生返事で応えた。

「俺の調べによりゃ、倉山の家系にゃ代々たらしの傾向があるぜ。男も女も関係なくだ。祖父さんや親父、あのクソ真面目の堅物どもも今となっちゃあ口を固くしてるが、若い頃は波乱万丈だったろうよ。血には抗えないのさ」

隆市は片手で卑猥なジェスチャーを象り、ゲヘヘと低俗な笑みをこぼした。

「女だけには気を付けろよ、恭仁。色恋にのめり込んだら穴二つ。どっちの穴に入れっちまうかは入れた時のお楽しみ、ってお前にゃまだ早かったな」

隆市はグラスのビールを呷り、瓶もラッパ飲みで飲み干すと、両手の卑猥なジェスチャーを前後させ痛快に笑った。彼の眼差しが据わってギラつく。

「恭仁、俺はやるぜ。警察庁に乗り込んで一山当てて、権力も金もいい女も物にしてやる。長男より優秀な次男が居たと、家系図に語り継がれるようなぶっとくて長い伝説的な人生を生きてえ。それでこそ男の生き様だろうが」

上気した顔で隆市が捲し立てると、お前も頑張れよと恭仁の肩を叩いた。


―――――(6)―――――


1年生となった恭仁は、慌ただしい学業の日々を過ごしていた。入学試験の恭仁の成績は中の上程度。気を抜けば追い上げられ序列を引っ繰り返される油断できない位置。幸運にもトップクラスの末席に滑り込めたが、恭仁には序列など端から興味も無かった。端から進路は決まっているようなものだ。

「倉山クンは余裕でいいよな、家が警察だから。将来安泰で羨ましいよ」

恭仁はクラスメートとの自己紹介から、刺すような皮肉に肩を竦め、飄々と学校生活を過ごした。周囲は互いにマウントを取り合い、自分の立ち位置を高めようと躍起だ。成績だの実家の太さだの、しょうもない話を笠に着て。

ある時、鷲津というクラスで成績が5本指に入る男子、有名企業の支社長のドラ息子に金持ち自慢のマウントを取られた。恭仁は欠伸をこぼして鷲津の話を半分以上聞き流し、彼の取り巻きたちを憐れみの目で見渡して言った。

「それはキミの親が凄いんであって、キミ自身が凄いわけじゃないよね」
「俺を舐めてんのか! お前なんか小指の先でブチ転がしたるわ雑魚が!」
「試してみる? 5歳から武道やってる僕より、キミの小指が強いか」

激怒した鷲津が拳で殴った。恭仁は彼の拳を受け止め、即座に腕を極めた。

「貴方たち、何やってるの!?」

騒ぎを聞きつけた学級委員の女子生徒、伊集院が2人の間に割って入る。

「暴力しか取り柄のねぇ不良が、何でこんな人間のクズが上流階級の学校に紛れ込んでんだよ。公僕のガキの分際で調子に乗んなよ、捻り潰すぞ」

鷲津は痛む腕を押さえて恭仁を睨み、ゴミを見る目で捨て台詞を吐いた。

「倉山クンも、入学早々に暴力沙汰とか高校生の自覚あるの? 貴方の居た中学では当たり前だったかも知れないけど、それを高校まで引きずられたらみんなが迷惑するのよ。顔の傷なんか見せびらかして馬鹿じゃないの?」

恭仁は生傷の走る顔を強張らせ、お母様に殴られんだ、と言い返そうとして情けなくなり口を噤んだ。鷲津が舌打ちし、伊集院が見下して踵を返す。

それから恭仁はクラスで孤立した。恭仁の誰にも物怖じせずに堂々と振舞う態度は、序列底辺の分際を弁えない身の程知らずと陰口を叩かれた。しかし恭仁は平気だった。母親のストレス発散の標的でしかない、家庭内において理不尽な暴言暴力を思えば、クラスの口だけは達者な連中などカカシ同然に無害なものだ。恭仁には依然として、学校は天国のような快適空間だった。

友達は無い。彼女など求めるべくもない。理不尽に殴られぬだけ上出来だ。

「体験入部どうですか!」
「ちょっとだけでも見ていてください!」
「相撲部、相撲部どうぞ!」

放課後に新入生を待ち受けるは、引く手数多の部活の勧誘。恭仁は上級生の入部の誘いを躱しつつ、学舎を足の向くまま歩き回って探検した。その内に来たことのないフロアに足を踏み入れてしまい、迷子になったことを悟る。

「取り敢えず、1階に降りればどうにかなるだろう」

階段を降り、突き当りが見える左手には研修室。看板には『射撃部部室』と記されていた。引き戸の前にはジャージ姿にポニーテールの上級生と思しき女子生徒が立っており、人気の無い廊下でやる気の無い声を上げている。

「しゃ、射撃部? すいません、ちょっといいですか。道に迷って――」

不穏な部名に恭仁が眉を顰めつつ声をかけると、恭仁に気づいた女子生徒が気怠そうな顔で振り向き、彼に目を留めた。恭仁が自分とは無縁の部活だと高を括っていたら、彼女は眠たげな目をカッと見開き、獲物に狙いを定めたハイエナのように白い歯を剥き出し、獰猛な笑顔でドドドと駆け寄った。

「キミ1年生? もしや射撃に興味ある? 見学だけでもどうぞ! ね!」
「いや見学とかそういうんじゃ――」
「遠慮しなくていいから寄ってらっしゃい見てらっしゃい! ね! ね!」

先輩女子生徒のグイグイ来る勢いに押され、恭仁は人攫いもかくやと部室に引きずり込まれた。窓に遮光カーテンの引かれた研修室、教卓の前に箱型のブルズアイ標的が目線の高さで並び、生徒たちが屯する部屋の後方との間に10メートルほどの距離が取られ、シューティングレンジが設えられていた。

「射撃はね、体格も性別も関係なく誰でもできる、奥の深いスポーツだよ」

女子生徒が胸を張って得意げに語ると、パシュンと電子合成された安っぽい銃声が響いて恭仁を出迎えた。彼は直ぐ帰ろうと思いつつ、好奇心を隠せず部室を観察する。立って撃つ者も居れば、座って撃つ者も居た。その誰もが分厚い木製銃床に重銃身、調整可能な覗き穴型照準器の競技ライフルを持ち神妙な顔で標的に向かっていた。火薬の煙や炸裂音とは無縁の空間だった。

「ライフルとか初めて見るでしょ? ビックリした?」
「射撃って不穏な言葉に驚きましたけど、弾が出ない物もあるんですね」
「ビームライフルって言うの。電気を使って弾が出ないから安全なんだよ」

恭仁は感心して頷き、観察を続けた。見るからに重厚そうな原色のコートを着た者たちが、弓を引くように左半身を標的へ向けて立ち、銃のグリップを右手に握って先台を左手で持ち、左肘を腰に預けた姿勢で銃を構える。

「何だか凄い格好ですね」
「競技射撃って、普通の人が想像するような射撃とは違うから。部員の子が着てる射撃コートはガッチリ硬くて、あれを着ると構えが決まるんだ」

立射姿勢で木製銃床を肩と頬に押し当て、構えられたライフルが狙いを定め撃発されると、標的のブルズアイの上に鎮座する王冠マークが点滅した。

「あれが点いたら、10点に当たったってこと。1回の射撃で取る最高点ね」

射手のやや前方の机に置かれた小さな標的のような機械が、ブルズアイ上の着弾点と点数を示す数字を、赤く光らせた。射手の傍らにも合板と鉄板とを張り合わせたような機械が鎮座し、レシートじみた紙を吐き出している。

「みんなが立って撃ってるわけじゃないんですね」

椅子に座り、制服姿で机上に肘を突いて撃つ者たちを恭仁が示す。その中に短髪の女子生徒の姿を認め、恭仁は瞠目した。学級委員の伊集院だ。射撃に興味があるとは意外だ。彼女は射撃に集中しており、恭仁に気が付かない。

「競技では立って撃つけど、初心者はまず銃に慣れないとね。最初は重くて構えることもままならないから。私も最初はああやって撃ったものだよ」

恭仁は伊集院の横顔から点数盤に視線を移した。射撃音。9時方向に4点。

「興味沸いた? やってみない? 今はちょっと射座が満席だけど」

恭仁は強張った笑みで肯定も否定もせず、射座を見渡す。顔見知りと隣って撃つのは気が進まない。射座の奥に目を凝らすと、窓際でピストルを構える男子生徒に目が留まった。部屋の奥で撃つなら伊集院にも気取られまい。

「へえ。ライフルだけじゃなく、ピストルもあるんですね」
「よく見てるね。もしかしてピストルに興味ある?」
「何だかライフルより手軽そうな気がするので」
「みんなそう思うよね。でも実際は……まあ体験した方が手っ取り早いね」

女子生徒が恭仁を手招きし、ごった返す射座の後ろを通り抜けて、一番奥でピストルを構える、小柄な男子生徒の側に辿り着いた。彼はライフルを撃つ部員とは異なり、射撃コートでなくジャージを着ていた。手を包み込む形のグロテスクに大きいグリップを片手のみで握り、ライフルより一回り小さい標的を狙い撃って中心に当たれば、標的下部の緑ランプが赤く点滅する。

「地頭園クン。竜ヶ島第一高校射撃部、ビームピストル射撃のエースだよ」
「どうかしました、岩切先輩」

岩切という女子生徒の声に、地頭園という男子生徒が振り返る。彼の顔には眼鏡を思わせるブラインダーという道具が掛けられ、左目が隠されていた。

「体験入部だよ。ピストル射撃、興味があるんだって」
「難しいけど大丈夫?」

地頭園は目隠しを跳ね上げると、恭仁と顔を見合わせて息を呑んだ。恭仁は素知らぬ仏頂面で行儀よく頭を下げ、岩切がドヤ顔で腕組みして頷いた。

「お願いします」
「エースのお手本見せちゃってよ。ね!」
「うす」

地頭園が頷き、左手をポケットに入れると、右手で銃を構えた。ライフルの構えを鏡映しにしたような、右半身を標的に向けた姿勢。足を肩幅に開いて腰を後傾気味に据え、ピストルを持つ手を真っ直ぐ伸ばして、銃口先端から左半身まで一直線の姿勢を形作る。首だけ90度回して標的を狙った。

「軍人とかお巡りさんの構え方とは全然違いますね」
「人が銃を構えるというより、銃が人を構えさせるような感じだよね」

パシュン。地頭園が引き金を弾くと、点数盤のブルズアイの中心から僅かに12時方向へずれて赤点が灯り、8点と表示された。地頭園は撃ち終えた後もそのまま10秒以上はピストルを構え続け、長い残心を終えると銃口を静かにテーブルへと下ろす。彼の口は不服そうな真一文字に引き結ばれていた。

「ちょっと緊張したでしょ」

地頭園はテーブルのフェルトを張った天板に銃口を置き、口惜しげに頷くと左手でピストル上部のレバーを往復させた。標的に再び構えて撃つ。今度は標的の下方が赤く点滅し、点数盤に10点の表示。地頭園は表情を和らげた。

「彼は競技会の入賞を狙ってるから、真剣に練習してるけどね。始めの内は気負わないで、楽しむことが大事だよ。誰でも最初は初心者だから、ね」

恭仁は岩切に後押しされ、地頭園の横に進み出て説明を受ける。

「前の照星(これ)と後ろの照門(これ)を揃えて狙う。高さだけじゃなく左右の隙間も合わせないと、弾は真っ直ぐ飛ばない。構えた状態で一直線に揃うのが理想だけどね。銃口を突き出したら自然に下げて、標的の黒い丸を追い越して止める。丸の中心じゃなくて底に合わせる。一直線にした照星と照門の上に黒点を乗せる感じかな。構えつつ吸った息を吐きながら引き金も絞り始めて、狙いが落ち着いたタイミングで静かに絞り切ると、当たる」

地頭園はピストルを構え、上からゆっくりと銃口を下ろして狙いを定めると引き金を絞り、空撃ちのち残心。剣道の素振りに似ていると恭仁は思った。

「狙いがピッタリ合ってから、引き金を引いちゃいけないんですか?」
「難しいね。片手で持った銃は動き続けるから、狙いを定めた後に引き金を絞ると、その勢いで狙いがブレる。同じ姿勢を保つのがとにかく大事だ」

分かったような分からないような説明だ。恭仁は曖昧に頷くとピストル型の電子銃を手に取り、ズシリと重量に驚き目を見開いた。地頭園が横合いから手を伸ばし、照門前方の装填レバーを前後させる。レバーの穴に引っ掛かる閂のような部品が引き起こされ、撃鉄のようにカチリと音を立てた。

「これを動かすと撃てる。毎回これをやらないと、撃っても意味がないから気をつけて。引き金を引けば手応えがある。じゃあ構えて、撃ってみて」

恭仁はピストルを見様見真似で構えて、照星と照門を横一列に並べて標的の6時方向を狙った。手の内で照準が小刻みに動き、狙うのが容易ではない。

カチン。引き金を絞り切る瞬間、バネ仕掛けが弾ける感触があった。恭仁はパシュンと響く銃声を聞きつつ残心して、ゆっくりとピストルを下ろした。

「「……8点」」

地頭園と岩切が同時に呟いた。点数盤には中心から10時方向へ僅かにズレて赤点が灯り、先程の地頭園が撃った時と同じ点数が表示されていた。それは同じ8点ではあるが、撃ち慣れた地頭園と初心者の恭仁では、意味が違う。

「まぐれですよ」

それが、恭仁と射撃との初めての出会い(ファーストコンタクト)だった。

「マジか」
「最初は標的に当たらなくてもおかしくないけどね」

地頭園と岩切が驚きの顔を見合わせる。明らかに2人の顔つきが変わった。

「示現流の稽古で、手の力を鍛えてたお陰ですかね」
「示現流? 何それ?」
「地頭園クン、知らないの? 示現流って剣道みたいなあれでしょ?」

岩切が徒手で素振りの仕草を見せると、恭仁は無感情な顔を微笑ませた。

「正確には少し違って、剣道より古い剣術なんです。まあ剣道も小さい頃は祖父の道場で習っていましたが。示現流を習ってかれこれ5年くらいです」

銃を再装填し構え、撃って残心し、再装填しまた構えて、撃って残心する。

「他にも空手とか合気道とか柔道とか、親の勧めで色々やってます。一向に上達しませんが。だから心の強さと、型を覚えることは自信ありますよ」

恭仁がはにかんだような苦笑で振り返ると、地頭園が相好を崩して頷いた。

「あー道理でお前ガタイがいいわけだ。俺はてっきり不良かと思ってたよ」
「凄いね、倉山クン。お祖父さんの道場って、そういう家庭なの?」
「家系なんです。父も祖父も曽祖父もそのご先祖様も、ずっと警察官です」

岩切と地頭園は沈黙する。何も恭仁の話に驚いたからだけではない。恭仁は地頭園の構えを脳内でシミュレートし、射撃を反復する。地頭園が訝しげにプリンタを操作し、レシート様の感熱紙へと印字された記録用紙を千切って確認すると、集計した点数を見てフムンと唸り、岩切に用紙を手渡した。

「55点。1発も0点が出てないな。お前もしかして射撃やったことある?」
「初めてです。先輩の指導を聞いて、撃ち方を真似してみただけです」
「凄いよ、倉山クン! 初心者とは思えない。スジがあるんじゃないの?」

岩切が歓声を上げ、地頭園が少しむくれた顔を見せる。誉め言葉には接待の意味も含まれていたが、記録用紙に刻んだ結果は紛うことなく恭仁の素質を示していた。全てが出来過ぎていた。お膳立てが揃っていた。恭仁が今まで血の滲む努力で習得した武道のおかげで、射撃を覚える素地が出来ていた。

「1発当てただけならまぐれでも、10発当てたならもうまぐれじゃないね」

岩切が値踏みする眼差しで恭仁に微笑んだ。彼女の笑みがハイエナのような獰猛さを帯びて歯を剥き出し、たじろいだ恭仁が両手を上げて後退る。

「あ、あの僕もうそろそろ帰らせていただきま……」
「これって運命の出会いじゃない!」
「何言ってるんすか、岩切先輩」
「倉山クン、入る部活ってもう決めてあるの?」
「いえ、決めてはいないんですが」
「ならやっぱり射撃部、入るべきだよ! 射撃やるべきだよ絶対! ね!」
「岩切先輩、食いつき過ぎっすよ。倉山クンが引いてるじゃないっすか」
「だって絶対才能あるのに、射撃やらないなんて絶対勿体ないよ!」
「まあ確かに。お前ちゃんと練習を積めば、直ぐ上手くなるは思うけどね」
「ほら! うちのエースの太鼓判、やっぱり間違いないよ! ね!」
「ちょっち待って、俺が言い出したみたいな風に言わないで下さいよ」

恭仁は引き笑いを浮かべつつも、内心では激しく揺れ動いていた。世辞でも才能があると言われた。射撃をやって楽しかったのも偽らざる本音だが。

「ごめんなさい。冷やかしなんです。僕、武道の稽古が忙しくて、射撃部で練習できる時間は無いんです。歩き回ってる内に迷い込んで、断り切れずに部室まで入っちゃって。時間を割いていただたいたのに申し訳ないです」

恭仁が平謝りすると、岩切と地頭園が我に返った顔で振り返った。

「いやそんなマジに謝らなくたっていいけど。事情は人それぞれあるだろ」
「でもやっぱり勿体ないよ! 私はやってみるべきと思うワケ。ね?」
「仕方がないじゃないですか先輩、こいつも後腐れあって帰り辛いでしょ」
「なーに地頭園クン。可愛い後輩が入ってくれるのがイヤっての?」
「いやそういうワケじゃないですけど」

マズい、このままでは丸め込まれてしまいそうだ。恭仁がそう思った時には鞄を引っ掴み、平身低頭に頭を下げると、先手を打って駆け出していた。

「本当にすみません! 今日はありがとうございました! 失礼します!」

周囲の部員たちが呆気に取られるのも構わず、恭仁は部室を飛び出した。

「待って、ちょっと待って! 待て!」

岩切が後に続き、恭仁を逃すまいと後を追いかけ、彼の前方に回り込んだ。

「ハァ、ハァ、ハァ……何とか追いついた」
「い、意外と足早いですね……」

思わずたじろぐ恭仁に、岩切が真剣な眼差しでズズッと距離を詰めた。

「あのさ、倉山クン」
「え、えっと……何度頼まれても、入部するのは」
「そうじゃなくて。キミさ、本当に射撃、やる気、ない?」
「ですから……」
「話は最後まで聞いて。犬吠坂って場所に射撃場があるの知ってる? 私も中学生の頃は、良く練習で撃ちに行ってたよ。キミも部活は無理でも趣味の範囲内で、時間がある時、少しずつでも撃ってみたら。って私は思うな」

初耳の情報に恭仁が目を丸くすると、岩切はふっと相好を崩した。

「興味あるって顔じゃん。遊びに行ってみたら。射撃って、楽しいよ」

彼女は言い残すと、してやったりの表情で颯爽と部室に戻って行った。


―――――(7)―――――


古ぼけたバスのエンジンが騒々しい唸り声を上げ、走り出す。竜ヶ島の街を国道沿いに北上し、郊外に抜ける道。恭仁はラフな格好で出口近くの窓辺に腰を下ろし、胸の高鳴りを隠せず目を輝かせ、車窓の風景に目を凝らす。

バスが市街地を縦断する縣(あがた)川に掛かった橋を渡り、犬吠坂に続く山道へと巨体を駆った。家と学校とを往復する生活では見ることが出来ない新鮮な風景が、灰色がかった彼の人生に彩りを取り戻させるようだった。

並び立つ民家と雑多に伸びる路地、板金工場にジャンク屋、雑貨屋の店先に置かれたバス停を通り過ぎ、無骨に聳える高速道路の高架下を潜り抜けた。

「次は、射撃場前。射撃場前でございます」

ピンポーン。恭仁の伸ばした手が、降車ボタンを押して点灯させた。

「次、停まります……」

気怠そうな運転手の声が車内放送に流れ、恭仁の期待をいや増させる。

バスは縣川に注ぐ支流沿いの道を緩やかに進んで、周囲の人家は急速に数を減らしていく。野球場のネットを横目に過ぎ、道の傾斜が俄かに強くなって恭仁の胸の鼓動が早まる。彼は懐の小銭入れをギュッと握りしめた。

鄙びた流し素麺屋、材木屋に資材置き場、神社へと誘う看板。眼下の小川が離れいよいよ山の中へ。坂道を登るバスが、動きを止めた。目的地だ。

「射撃場前、射撃場前です。お降りの際は、足元にご注意ください。本日は竜ヶ島交通をご利用くださり、ありがとうございました」

車内放送に恭仁は表情を引き締め、しかし堪え切れぬ笑みを湛え、運転手に会釈して運賃箱に小銭を投じ、バスのステップから歩道へと降り立った。

一見すると、周囲は何もない山道。恭仁は背後を振り返り、それから前方を仰ぎ見た。射撃場は曲がり道を上った先だろうか。ターンと彼の度肝を抜く甲高い破裂音が、山の空気ごと彼を震わせ、彼方へと突き抜けて行った。

扉を閉ざしたバスが、立ち尽くす恭仁を余所に発進し、黒煙を盛大に吐いて坂道をえっちらおっちら駆け上がる。そして彼は静寂の中に取り残された。

恭仁は意を決し、山道を登る。緑の翳りの中に、コンクリート造りの四角い建物が輪郭を現した。鋭い破裂音が、木立の合間から轟く。銃声だろうかと恭仁は訝り、開かれた門扉を通り抜け、運動場のようにだだっ広い駐車場に歩みを進める。右手に近代的なコンクリート建築物と、正面の階段を登った奥にガラス戸で横長の建屋。建物の前には車が数台ばかり停まっていた。

右側の建物には、縦書きの大看板で『竜ヶ島ライフル射撃場』と誇らしげに記されている。何度目かの破裂音を背に、恭仁は開け放たれた引き戸の中に歩みを進めて行った。土間の右手、窓口の奥に座る禿頭の中年男が、恭仁に気づいて小窓を引き開ける。恭仁は落ち着かない様子で男に会釈した。

「こんにちは。こちらの受付票に名前と住所と日付を書いてください」
「ええとすいません、初めて来たので、色々と分からないのですが」
「初めてでしたか。そしたら中で説明しますから、とりあえず受付票を」

恭仁は頷き、受付票にペンを走らせた。射場主と思しき中年男は恭仁の名を一瞥し彼の顔をまじまじと見つめた。恭仁は不思議そうに男を見返す。

「竜ヶ島市の倉山さん? ひょっとして警察にご家族がいらっしゃる?」

射場主の言葉に、恭仁は顔の筋肉が引き攣るのを自覚した。

「ええまあ。どうしてお分かりに?」
「倉山善吉さんと言えば、射撃で有名ですからね。ご存じないですか?」
「何か聞き覚えのある名前です。父方の親戚にそんな人が居たかも」

ピンとこない顔で恭仁が返答すると、射場主は何かピンときた顔で頷いた。

「それより、外で花火みたいな凄い音がしましたけど」
「多分、スモールボアですね。今の時間、いつも練習に来る方が居るから」

スモールボアとは、小口径の22LR弾を使う競技用の装薬ライフル。恭仁には知る由も無いが、階段上の建屋には22口径用の50メートル射撃場があった。

「じゃ、行きましょうか」

男が受付横の扉から歩み出て、受付の隣にある体育館じみてごつい引き戸を引き開けると、カーンと心臓が止まりそうな破裂音が、恭仁の耳を衝いた。

「ビックリしました? 空気銃ですよ」

萎縮する恭仁に射場主が笑い、手近な射座を指して言った。入口近くに並ぶ10レーンほどに区切られたブース。射撃コートを着た射手が、メカメカしいエアライフルを立射で構え、小さな正方形の標的紙を狙ってピタリと姿勢を固めては、火薬より優しいが鋭い銃声を放ち、鉛のペレット弾を撃ち込む。

見ているこちらが息を止めたくなるような、緊迫感に満ちた光景だった。

「緊張しないでいいですよ」
「そんな大声で喋って大丈夫ですか?」
「この程度の話し声程度で狙いが逸れるなら、集中力が足りない証拠だよ」

射座の手前には、何を持ってきたのだろうと問いたくなる、巨大なバックが無造作に幾つか置かれていた。恭仁は荷物を踏まぬよう、足元に注意しつつ射場主に先導されて射場の奥に進む。至近距離で聞く空気銃の音は強烈だ。

「こんな物で撃たれたら死ぬな」
「そのための銃刀法ですよ。持ち主以外が銃に触るのは絶対にダメですから気をつけて下さい。こちらの奥の方がビームライフルの射場になります」

空気銃の射座と壁で区切り、場内の向こうに広がるのは同じ10レーンほどのブース。空気銃用と違うのは、電光標的に点数盤にプリンタなど結線された一連の機械類。射座に座っていたのは、どう見ても小学生の子供たちだ。

「こんな子供たちが」
「ええ。何事もスポーツは、若い頃から始めるのが一番ですからね」

驚く恭仁を一瞥し、射場主は誇らしげに言葉を返した。

「とはいえ、射撃は何歳から始めても遅くはありませんよ」

学校で使うような机と椅子のセットにつき、新旧入り混じった電光射撃用の競技銃……ビームライフルを構えて競技射撃に興じる少年少女たち。机上にパンタグラフジャッキが置かれて狙いの高さに嵩上げされ、接点を保護する角材の上にライフルのフォアグリップを依託して、狙いを安定させていた。

「じゃあライフルを準備しましょうね」
「いえ、ピストルでお願いします」

恭仁は即答だった。パシュンパシュンパシュンと射場主の背後で少年少女が続け様に電光を発射し、何人かの標的で10点圏の王冠マークが点滅する。

「ピストル、難しいですよ」
「お願いします」
「持ってきますから、ちょっと待っててください」

射場主が元来た道を取って返し、恭仁が子供たちに視線を戻した。ある子は熱心に狙い、またある子は気怠げでやる気がなく、カチカチと引き金を絞り標的を断続的に撃っていた。たまにウィーンと古めかしい感熱式プリンタが記録用紙を吐き、壁の奥で空気銃の発射音がカーンと轟く。恭仁はそわそわ所在無げに周囲を見回した。射場主が黒い銃ケースを両手に携え、間もなく戻って来た。ビーム用の射座の一番手前側に、射場主がケースを置いた。

「こちらがビームピストルですね。撃ち方は知っていますか?」

射場主がケースを開くと、射撃部でも見た物と同型のピストルが姿を現す。

「竜ヶ島第一高校の射撃部の体験入部で、少しだけ教えてもらいました」
「ああ、竜ヶ島第一高校ね! ここで射撃を習った子たちの中で、あそこの射撃部に行く子も結構おりますよ。中には全国大会に行った子もいますね」
「凄いですね。実は部員の方に、ここを紹介してもらったんです」
「そうだったんですか、なら話は早いね。電源はここ。射撃部で使った銃と構造は同じ。撃つためにはこのレバーを動かして、それから構えて撃つ」

射場主はスッと慣れた様子でピストルを構え、パシュンと撃った。点数盤に7点が灯る。射場主は首を捻り、もう一度撃った。今度は9点が表示された。

「10点を狙ったつもりだったんだけどな。まあいいや、撃ってみて」

射場主の一挙手一投足を観察していた恭仁は、銃を手渡されて構えた。

標的に対して90度の向きで立ち、首だけで標的を見て方で銃を構え、上から銃口を下げるようにして標的に狙いを定め……ゆっくりと引き金を絞る。

「5点か」
「いや初心者にしちゃ悪くないよ。ちゃんと的の中に納まってるからね」

恭仁は何度も射撃を繰り返し、射場主の指示に従って姿勢を調整してはまた狙って射撃する。恭仁の射撃の集弾性の良さに、射場主は何度も頷いた。

「プリンタはここを押せば印刷出来て、また最初から点数を記録する」

射場主がプリンタのボタンを押し、記録用紙を千切って恭仁に手渡した。

「それじゃ、好きに撃ってもらっていいですから。分からないことがあればまた聞きに来てください。休憩する時は、銃口に蓋を被せておいてね」
「はい、ありがとうございます」

恭仁は拍子抜けするほどあっさり説明を終えられ、射撃場に独り取り残され射撃を始めた。ゆっくりと時間の流れる空間、電光射撃と空気銃の発砲音が交錯するほか射手たちは口数も少なく、標的を撃つことだけに集中する。

恭仁は黙々とビームピストルを撃ち続けた。数十発も撃つとピストルを握る腕が痺れてきたので、彼は銃口にミトンのような布の蓋を被せ、ピストルを置いて休憩した。射座の手前の小さな机にはペットボトル。銀色の金属屑が中にはミッチリ詰まっている。壁際に置かれたワックスの空き缶にも、同じ金属屑が大量に収められていた。恭仁にはそれが何か見当もつかなかった。

「どうですか。ずっと撃ち続けると疲れるから、時々休憩してください」

様子を見に来た射場主に、恭仁は振り返ってペットボトルを指差した。

「はい。ところで、ここにある砂利みたいな粒々って何ですか」
「鉛ですね。空気銃の弾。ボトルに詰めて、腕を鍛えるのに使うんです」

射場主がダンベルを上げ下げする仕草をすると、恭仁は頷いた。あの重量を支えて何十発も撃ち続けるなら、腕の筋肉を鍛える必要があるのも必然だ。

「ピストル射撃は、狭き門ですがその分やり甲斐がありますよ。頑張って」

恭仁は頷き、射撃を再開した。点数を打ち出して一喜一憂し、休憩しつつも自分のペースで撃ち続けた。100発を過ぎた辺りで、初めての10点を撃って人知れず喜びを覚えた。その間にも彼の背後で小学生たちが帰り、その後は中高年や若いカップルの初心者が来て射撃を体験し、2時間が過ぎた。

「もうそろそろ、帰りのバスが来る時間だ。急がなきゃ」

地方のバスは本数が少なく、乗り逃したら大変だ。恭仁は射場主を呼んだ。

「今日はもう終わりにしますか」
「はい。楽しかったです」
「それは良かった。その点数票は持って帰っていいよ」
「今日はお世話になりました」
「お疲れ様。倉山さんによろしく」

射場主の何気ない言葉で、恭仁はふと現実に引き戻されて真顔で頷く。

「カレンダーに書いてる休日以外は、基本的に開いてるから。とは言っても銃や射座が開いてるとは限らないけど。またいつでも気軽に来てね」
「はい、また来たいです」
「じゃあ気を付けて」

恭仁は射場主に頷きかけて、射撃場を後にした。重い足取りで山道を下ってバス停に着き、ぼんやりと空を見上げてバスを待つ。遠くに工場の機械音が金切り声を上げ、鳥の鳴き声が響き、空を数羽の鳥が飛び去って行く。

束の間の安息の時は過ぎ、恭仁はまた現実へと帰っていく。


―――――(8)―――――


恭仁は感情を押し殺した無表情で屋敷のドアを開け、玄関に歩み入る。

「ただいま戻りました」

誰も返事をする者がおらずとも、他人行儀で挨拶を口にした。居間の中からテレビ番組の、女性役者のセリフが聞こえた。恭仁は水でも飲もうと居間に歩み入ってキッチンへと向かう。居間の中央に据えられたテーブルの両端に置いてあるソファ、その向こう側に母親の手前側に香織がもたれ、テレビの古いドラマの再放送を気怠げに眺めていた。手前側のソファには姉の霧江が腰かけ、やはり気怠げにスマホに視線を落として弄っている。

「どこ行ってたの恭仁」
「ちょっと遊びに」
「遊びって、あんた友達いないでしょ。もしや友達でもできたワケ?」

恭仁に背を向けたまま、霧江は面白がってしつこく聞いてきた。

「別に。休みの日に僕がどこへ行こうと勝手でしょう」
「そりゃそうだ」

どうでも良さそうに霧江が言うと、恭仁は眉根を寄せキッチンに向き直る。

「あんた、どこに行ってきたの!」

今度は鋭い剣幕で、香織の問いが飛んできた。恭仁が顔を向けると、香織がいつものように引き攣った怖い表情で、彼を鬼のように睨みつけていた。

「別に僕が――」
「つべこべ言わずに、親の質問に答えなさい!」
「うっるさいな。お母さん、いちいち怒鳴らないでよ」

恭仁は吐こうとした溜め息を呑み、何か気の利いた建前を脳裏に探した。

「まさか、何か親に言えない場所に行ってきたとでもいうの!?」
「そんなことないですよ。ちょっと射撃場に。スポーツ射撃をしに」
「ああ、そういや同じクラスの射撃部の子が噂してたわ。あんたのこと」
「どういうこと!? 私は何も聞いてないわよ!」
「だから怒鳴らないでって言ってんじゃん」
「霧江は黙ってなさい!」

面倒臭そうな霧江の言葉をピシャリと黙らせ、香織が有無を言わさぬ表情で恭仁に向き直る。そのうちいつもの調子で手が出そうだな。恭仁は思った。

「体験入部に行っただけですし、射撃部に入部する気もありません。武道の稽古も今まで通りキッチリ行ってます。誰にも迷惑はかけていません」
「私はそんな話を聞いてるんじゃないわよ! 一体どういうつもり!?」
「どういうつもりとは、一体どういうことですか?」
「1から10まで説明されないと分からないの!? 射撃なんて、銃みたいな人殺しの道具がスポーツですって!? そんなの私は絶対に許さないわ!」

キャンキャン耳障りな声で、香織は頭ごなしに恭仁に喚き散らした。恭仁は不愉快さを隠さぬ表情で香織を一瞥し、聞かなかったことにして歩き出す。

「何なのその顔は! 言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」

恭仁はゆっくりと溜め息をこぼし、歩みを止めて香織に振り返った。

「でしたら遠慮なく、言わせていただきます。貴方はどうして、頭ごなしに僕のやることなすこと否定するのですか? 僕が射撃部に行って、射撃場に行ったことで、母さんにどんな迷惑をかけましたか? 銃が人殺しの道具と当たり前のように言いますが、スポーツ射撃は安全に配慮した競技です」

あーあ言っちゃった。と言わんばかり、霧江が背を向けたまま肩を竦める。

「あんた、あんたってガキは……」

言うが早いか、香織はわなわなと全身を震わせ、バネ仕掛けのように素早く立ち上がって示現流のごとく腕を振り上げ、恭仁に駆け寄って平手打ち。

「つべこべ口答えしないで! 親の言うことを黙って聞きなさい!」

一度、二度、三度。殴られ慣れた恭仁は、殴られる瞬間に打つ方向とは逆に身体を逸らすことで、打撃の勢いを殺すテクニックをも身に着けていた。

「何よその目は! 脛齧りの分際で、親に文句があるっていうの!?」
「あります。少なくとも、人に迷惑をかけない範囲において――」

ここで先ず恭仁は頬を殴られた。それでも恭仁は恐れることなく、真っ直ぐ香織の顔を見つめた。何かの強迫観念に表情を強張らせた、母親の顔を。

「――僕が休日にすることや行く場所に、何か言われる筋合いは無いです」
「私が迷惑してるのよ! 何でわからないの! あんたもおおおッ!」

香織は繰り返し恭仁を平手打ち、平手打ち、平手打ちした。癇癪は収まらず彼女は今の奥に駆け、柱にかけられた節くれだった懲罰棒を手に舞い戻る。

「もう一度言ってみなさい! 母親の言うことが聞けないっていうの!?」
「これ限りはどうしても聞けません。許してもらえなくても構いません」

言い終わる前に、乾いた竹の棒が頭頂部に振り下ろされ、痛みが弾けた。

「殴られても止めません! 初めて僕がやりたいと思ったことなんです!」
「もおお、この聞き分けの無いクソガキ! どうしてあんたってヤツは!」
「どうして殴るんですか! どうして言葉で説得する代わりに、そう暴力に訴えるんですか! 僕は家畜ですか! 僕は母さんの奴隷か何かですか!」
「母さんって呼ぶんじゃねえ! お前は私の子供なんかじゃねえくせに!」

ハタと恭仁は訝しみ、思わず顔を上げて香織の顔を覗き込んだ。渾身の力で振り下ろされた懲罰棒が、恭仁の額でひしゃげ音を立て、弾け飛ぶ。

「何でお前みたいなガキと、私が家族ごっこしなくちゃいけないのよ!」

香織は圧し折れた竹棒を苛立たしげに投げ捨て、恭仁の向う脛を足蹴にしてソファに戻る。恭仁は裂けた額から流血し、霧江を振り返った。霧江もまた恭仁を見ていた。霧江はバツが悪そうに目を細め、スマホに視線を戻す。

「まさか、知らないかったのは僕だけ? みんな知ってて黙ってた?」

誰も何も言わなかった。香織は当てつけのように、テレビの音量を上げる。

恭仁の顔からスッと表情が消えた。元より彼は、家中で不用意に表情を顔に表したりせぬよう努めていたが、今この時は完全に、顔の精気が消失した。

恭仁は額から血を垂らしたままキッチンへ歩き、冷蔵庫を通り越して台所のラックから包丁を抜いた。香織も霧江も、恭仁の動きなど気にも留めない。

恭仁は包丁を手に、無言で居間へと戻った。霧江はスマホを弄るのに夢中で包丁に気が付かない。恭仁は無造作にリモコンを掴み、テレビを消した。

「何すんのよ!」

香織が苛立たしげに怒鳴り、霧江がテレビを一瞥し、2人が同時に恭仁へと振り返った。霧江が蒼褪めた顔で息を呑み、香織も包丁と恭仁を交互に見てパクパクと口を開く。恭仁は片手のリモコンを放り出して、もう片方の手の包丁の柄を香織の方に向けると、音を立ててテーブルに叩きつけた。

「ようやく合点がいきました。今までの母さん……香織さんが僕にしてきた仕打ちの全てに。僕のことが不愉快なら、今ここで僕を殺してください」
「恭仁、あんた自分が何言ってるか分かってんの!?」
「姉さん……いえ、霧江さんは口を挟まないでください」

恭仁は感情の無い声で、霧江を一瞥もせずに冷淡に告げて突き放した。

「香織さんが僕のことを憎んでいるのは、よく分かります。僕の知り得ない何かが色々とあったんでしょう。別に構いません。どうしようもないことはどうしようもありません。でもこれ以上はもう耐えられません。香織さんが何かにつけて僕を痛めつける気なら、これで永遠に終わらせてください」
「……はああああッ!? 何でお前みたいなクソガキ殺して、私が犯罪者にならないといけないわけ!? 死にたきゃお前が一人で勝手に死ね!」
「母さん、いくら何でもその言い方は酷すぎるよ!」
「うるさいんだよ! ならお前が殺せ! このクソガキ! 殺せ殺せ!」

香織は霧江に向かって喚き散らすと、ソファにもたれて馬鹿笑いした。

「ホラさっさと死ねよ! 早く死ね! ちゃんと見といてやるからしっかり死ねよ! 死ねるもんなら死んでみろ! 早く、早く、はーやーく死ね!」

この女は何かがおかしい。今更そのことに気付き、恭仁は千尋のごとく深い絶望を顔に表した。何かが壊れている。病んでいる。修復不能なまでに。

「死ねって言ってるだろ! 腹掻っ捌いて死ね! おら口だけか、死ね!」

それに気づくのは余りに遅すぎた。僕の失ったあるべき青春は失われ果てて二度と戻ってこない。僕は一体何のために、誰のために生まれてきたのか。

「分かりました。お世話になりました」

恭仁は包丁を手に取ると、絨毯の上に膝を折った。咄嗟に手を伸ばす霧江を力任せに振り払って突き飛ばし、ジャージのジッパーを開き、下着を脱ぐ。

「死ーね! 死ーね! はーやーくー死ーね! クーソーガーキ!」

恭仁は包丁を両手に握って、切っ先を腹に突きつけ、暫し言葉を探した。

「親知らず/浮世は桜/野辺の塵」

今際の際に納得できる言葉を導き出せ、恭仁は会心の笑みを浮かべた。

恭仁、お前はやればできる男じゃないか。それでも、痛いものは痛いなぁ。

腹を刺し貫いたきり、もう1ミリだって動かせやしない。

自分で腹を切った昔の侍は、偉かったんだなぁ。

僕の本当の親は、一体誰だったんだろう。

……。

2人分の甲高い悲鳴が、倉山家の窓を破らんばかり朗々と響いた。


―――――(9)―――――


恭仁の割腹自殺は未遂に終わった。病院で手術を受けて、一命を取り留めた彼は病室の寝台で目を覚ます。恭仁は包丁を腹に刺しただけで、肝臓などの主要な臓器は無傷であり、腸の損傷も最小限だったのは不幸中の幸いだ。

「恭仁! お前、何でこんなことしたんだ!」

父親の利義が警察から取る物も取り敢えず病室へ駆けつけ、有無を言わさず恭仁の頬を殴ったことで、恭仁は日常に戻ってきたことを実感した。

「父さん」
「何だ!」

恭仁は利義と真正面から向き合い、自分の放った言葉に眉根を寄せた。

「利義さん」
「な、何だ」

恭仁が不穏に目を光らせ、低く押し殺した冷静な言葉で告げると、激昂した利義が狼狽えたように言葉の調子を落とす。何かを察したような様子だ。

「霧江さんから聞きましたか」

霧江を一瞥して恭仁が問い返すと、霧江は恭仁の入院に必要な荷物を詰めたバッグを放り、顔を逸らした。利義は横歩きで霧江を庇うように進み出た。

「聞いたとは何をだ。恭仁、なぜそんな他人行儀な物言いをする」
「利義さん」
「恭仁!」
「僕は」
「聞いてるのか!」
「僕の話を聞いてください」
「いい加減にしろ!」
「それはこっちのセリフですよ!」

倍々ゲームで大声を上げる2人の姿に、霧江は利義の影で溜め息をついた。

「いいから俺の質問に答えろ!」
「質問するのはこっちです!」

怒鳴り合いは最高潮に達し、病室の他の患者たちが騒々しさに舌打ちした。

「利義さん。僕の腹切りの理由なんて下らない事より、今ここでどうしても貴方に聞かなきゃならないことがあります。確かめなきゃならないことが」
「だから何だ!」

恭仁が冷徹な声色で静かに告げると、利義は激昂して喚き散らした。

「義母(かあ)さん、香織さんは僕のことを、自分の子供じゃないと確実に言い切りました。利義さんはどうですか。貴方は本当に僕の父さんですか」

利義はギクリと肩を震わせ、傍目に気の毒なほどわなわな震え、狼狽した。

「霧江さんは何も言わないですが、何か知ってるようには見えます。すると義兄(にい)さん、貞義さんと隆市さんも知らないはずがない。貴方たちは何を考えているんですか。なぜ僕個人の事なのに、僕だけを仲間外れにして貴方たちだけが当たり前のように知っていて、僕には黙っているんですか」
「違う! 違う恭仁、そうじゃない! それはお前の思い違いだ!」

利義があたふたと弁解の言葉を口走る姿を、恭仁は無言で見据えていた。

「お前が成人したら言うつもりだった。大人になるまでは黙っていようと」
「なぜですか」
「お前のためだ! 思春期にお前だけ俺たちの子供じゃないと、自分だけは養子なんだと教えられ、学校で笑い物や爪弾きにされたりしないように!」

養子。利義は確かにそう言った。利義もまた恭仁の親でないということだ。

「親は違えど、俺たちは一つ屋根の下で暮らす家族だ。恭仁が成長するまでみんなで力を合わせて守って行こう……そう、約束したはずなのに……」

恭仁は溜め息をこぼし、病室を見渡した。香織の姿はどこにもなかった。

「お母さん、完全におかしくなっちゃったよ。あんたのせいでね!」

利義の背後から霧江が歩み出ると、涙を溜めた目で大手を振った。

「あんたが自殺紛いのことなんかするから!」
「他に方法がありましたか」
「黙って耐えてれば良かったでしょ! あんた一人で!」
「理不尽に殴られて、自分の子供じゃないとまで言われてもですか!」
「そうよ! 今まで通りあんた一人で耐えてれば、全て丸く収まってた!」
「憎まれて殴られるだけの存在なら、死んで居なくなっても同じことだ!」

恭仁の積年の怨嗟が込められた怒りの言葉に、霧江もまた怒り心頭だった。

「何でそうなるのよ! 死ねば全てが解決するっての!? 自分だけ死んで楽になりたいとか考えたワケ!? バカじゃないの! 今まで育ててくれた父さんと母さんの気持ちを考えたことある!? 悲しむって思わない!?」

恭仁は疑心暗鬼の眼差しで霧江から利義に視線を移し、溜め息をこぼした。

「本当に悲しむと嘘偽りなく言い切れますか。自分の意見を押し付け、僕の気持ちを踏みつけにしてきた貴方たちが。今まで家族みんなから受けてきた辱めの数々を、僕は一生忘れません。どの口が言うのですか。僕が死んだら家族が悲しむなんて、どう考えたらそんなお花畑な発想が出てきますか」

気色ばんだ霧江が飛び出そうとするのを、利義が羽交い絞めして抑え込む。

「このバカタレ! 何でお前はそうなのよ!」

恭仁は心から軽蔑する眼差しに、霧江は喚き散らして利義の羽交い絞めする腕を振り解き、右手を振り上げて恭仁に迫る。恭仁は冷ややかに見返した。

「僕をそうしたのは貴方たちでしょう。殴りたいなら殴ればいい」

恭仁は感情を殺した平坦な声で、霧江を真正面から見て言い切った。霧江は奥歯を噛み締めて涙を溢れさせると、何回か躊躇して結局、恭仁を殴った。

「殴られたのがあんただけだと思ってるの!? 母さんは昔ッから精神的に不安定なの、わかるでしょ!? 薬だってずっと飲んでたわ。私も兄さんも小さい頃から何かにつけて殴られたわ、それでも母さんはいつか良くなると信じてずっと耐えて来た! あんたみたいな人殺しの子供を家族に――」
「止めろ霧江! それ以上言うな!」

霧江はボロボロと涙を流しながら恭仁を繰り返し殴り、割って入った哲義に振り上げた拳を掴んで止められ、その場に腰砕けとなって泣き崩れた。

「元はと言えばお父さんのせいでしょ! お父さんが恭仁を家族にしてから母さんがどれだけ悩んだか分かる!? 恭仁の秘密が近所にバレないようにずっと神経すり減らして、私たちも母さんから叩かれて、いい迷惑よ!」

霧江が放った言葉に、利義は呆然自失と言葉を失い立ち尽くす。次から次に掘り起こされる新情報に恭仁は眩暈を覚えたが、貞義と霧江の混乱ぶりでは事の次第を聞き質すどころではない。病室はそれきり重い沈黙に包まれた。

義理の母、倉山香識が発狂した。恭仁がそう知らされたのは、彼が入院して数日経過した後だった。情緒が壊れ、壁に向かって譫言を語り、近づく者を恭仁と呼ばわって暴れ回る。やむなく精神病院に入院させられたという。


【アウトサイド・モノクローム/2話 おわり】
【次回へ続く】

From: slaughtercult
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