アウトサイド・モノクローム/3話
―――――(10)―――――
「前から自殺しようと考えたことはあったかい? それとも衝動的?」
「小さい頃から、自分の人生が辛いとはずっと思っていました。でも自殺を考えるほどではなかったです。死を意識したのは、その時が初めてでした」
寝台に半身を起こす恭仁の答えを聞いて、白髪に眼鏡の医者がバインダーの問診表に記入しつつ、頷いた。医者は暫し考え、問診票から顔を上げる。
「自分の腹を刺したのは、確実に死ねると判断してのことかい?」
「僕は武士の家系の末裔ですから、死ぬ時は潔く侍のように切腹すべきと」
「べき? 義務感、あるいは強迫観念に囚われての行動?」
医者がペンの頭を振り向けて問い返すと、恭仁は少し考え頭を振った。
「憧れてたのかも知れません。自分の命を懸けて何かを訴える生き様に」
「切腹を試したのは悪手だったね。傷が深かったら、腸内細菌から腹膜炎を発症して治療も出来ず、苦しみに苦しみ抜いた挙句に死ぬところだったよ」
医者が毒の強い皮肉を吐いて、恭仁は笑みを強張らせた。恭仁が割腹自殺を試みて学んだことは、人はただ腹を刺しただけで、どれほど凄まじい苦痛を味わうかという点に尽きる。腹を横一文字に割り開くなど不可能だ。脳髄が生きる苦しみを痛感するばかりで、ひたすらに無様だった。胸中は無力感で満たされた。死に遂げる技術も根性も無く、死に損ないの惨めさが募った。
「今回は命拾いして良かったね。まだ死にたいって気持ちはあるかい?」
「死ぬって苦しいですね。実感しました。切腹する勇気はもう無いです」
「自殺する勇気なんて、持たなくていいんだよ。質問はこれで終わりだ」
問診を終えた医者が病室を立ち去ると、看護師が忌々しげに恭仁を睨んだ。
「お前みたいなのは迷惑なんだよ……命を粗末にするんじゃねえよバカが」
恭仁にだけ聞こえる声で忌々しく吐き捨てると、看護師も病室を後にした。
―――――(11)―――――
恭仁は寝台で身じろぎし、疼痛を催す腹の縫合痕を病衣の上から摩った。
「自殺する勇気なんて持たなくていい……か」
恭仁は医者の言葉を反芻し、溜め息をこぼした。包丁を持ち出したら何かが変わると思ったか。義母の愛情を確かめたかったのだろうか。自分も家族の一員だと認められたかったのか。自分が孤独だと認めたくなかった一心で。
「茶番だな。馬鹿馬鹿しい三文芝居だ」
自殺未遂を表沙汰にしたくない倉山家の根回しにより、恭仁の入院は表向き病気の手術とされた。昼、担任の白石が病室へ見舞いに訪れた。テニス部の顧問を務める若い男性教師だ。みんなお前を待ってるぞ、早く元気になって戻って来い。彼は持ち前の前向きさと楽観的な熱血精神で恭仁を励ました。
「心にもない心配をされるより、100倍マシだよな」
今の恭仁に必要なのは、心配や同情ではない。逆境を跳ね除けて立ち上がる負けん気と強さだ。僕は強くならなければならない。割腹自殺で死んだのは幼い頃に泣き腫らしていた己自身だ。痛みを恐れ、戦うことを恐れ、誰かに傷つけられることを恐れていた弱い自分だ。恭仁はそう考えることにした。
「倉山クン、意外と元気そうじゃん」
日の暮れかかった空を眺めていた恭仁は、近づく足音と自分を呼ぶ声に驚き寝台から半身を跳ね起こした。腹にズキリと痛みが走り、歯を食いしばる。
「伊集院さん」
短髪で神経質そうな顔の女子生徒。クラスの学級委員だ。制服姿の伊集院は学生鞄を片手に提げ、もう片方の手で花束を携えて恭仁の前に立った。
「見舞いに来てくれたんだ。ありがとう」
「別に、あんたのためじゃない。クラスの代表として仕方なくね」
伊集院は不機嫌そうに答えつつ寝台を回り込み、窓際に据えられた床頭台に歩み寄ると、連続飲食店強盗を報道するTVの前に、花束を投げ出した。
「底辺が底辺を襲っただけの下らない話。底辺に生まれた自分が悪いのよ」
伊集院は報道に軽蔑の呟きを述べつつ、足元に鞄を放ると腕組みし、恭仁を振り返って上から下まで見回した。不穏な沈黙に恭仁は無言で目を逸らす。
「射撃部。倉山クンさ、体験入部に来てたでしょ。私も居たけど、倉山クン気づかなかった? 逃げ出したりして、見てるこっちが恥ずかしかったよ」
伊集院の有無を言わさず詰るような口調に、恭仁は苦笑いで振り返った。
「今すぐにでも入部させられそうな勢いだったから、つい。親の許しもなく部活に入ったら、武道の稽古を疎かにする気かって怒られちゃうからね」
「倉山クン、私たちもう高校生だよ? いつまで親の言うことハイハイって聞いてるつもりなの? ペットじゃあるまいし自分の意見は主張しなきゃ」
恭仁が押し黙って頭を振ると、伊集院は腕組みした手の人差し指で二の腕を何度も打ち、片足を頻りに踏み鳴らし、俯いて喉を唸らせた。恭仁は彼女の苛立ちの正体が分からず当惑する。やがて、伊集院が決然と顔を上げた。
「倉山クン。本当は病気じゃなくて自殺未遂だって噂、聞いたんだけど」
伊集院は単刀直入に問うた。安直な言い逃れを許さぬ鋭い目つきで。恭仁は暫し彼女と睨み合い、やがて投げ遣りに頷いた。別に隠す気も無かった。
「まあね。キミに説教されるまでもなく、僕も自分の意見を主張したのさ」
恭仁の答えに、伊集院は青褪めた顔で唇を震わせた。何事か訴えようとする吐息は風切り音となって歯の隙間を零れ落ち、声となって意味を成さない。
「わ……私……も」
震える伊集院の両目に涙が滲む。気づいた彼女は口惜しげに奥歯を噛み締め背を向けて、制服の袖で乱暴に顔を拭うと、平静を装った顔で振り向いた。
「最低。クラスで死人なんか出したら、みんなの迷惑ってわからないの?」
伊集院は鼻声で恭仁を罵ると、鞄を手にして病室から駆け出して行った。
―――――(12)―――――
数日後。恭仁は驚くべきことに、祖父の鉄義が見舞いに来た。雪駄を履いた作務衣姿の背筋は凛と立ち、歩む姿は揺ぎ無し。鉄義が威風堂々たる様相で病室に歩み入ると、恭仁と対面する位置にパイプ椅子を引き寄せてすらりと腰を下ろした。ミル挽きのコーヒーの香りが漂う。鉄義は喫茶店の紙袋からカップを取り出して蓋を外し、ナチュラルのエチオピアモカを啜った。
「僕をお叱りにならないのですか、お祖父様」
恭仁が強張った声で問うも、鉄義は黙して答えない。いつもの師範の姿とは様子の違う祖父に、恭仁は困惑した。道場では決して見せぬ一個人としての祖父の姿を、恭仁はこの時初めて見たのだ。鉄義はじっと考え込んでいた。
「飲むか」
鉄義は思い出したように、紙袋からもう一つカップを取り出し、恭仁の手に押し付ける。恭仁が蓋の口からコーヒーを啜るのを、鉄義は静かに眺めた。
「武士道というは死ぬことと見つけたり、か。そんな生き方はもう古い」
鉄義は茶器じみてカップを捧げ持ち、湯気立つ水面に目を落として言った。
「先祖、倉山道之助昭義の時代、武士は滅んだ。武士道の体裁ばかり拘って過去の焼き直しに飽き足らず、時代に忘れられた結果、兵どもが夢の跡だ」
鉄義がカップに口をつけて顔を上げ、恭仁と目線を合わせる。
「お前は武士ではない。自害など笑止千万。自分の生きる時代を忘れるな」
恭仁はこの時、初めて真の意味での祖父の教えを聞いた。
「子は親に逆らわぬが世の勧め。しかし子は親に抗うが世の理。いつの世も親の心子知らずだ、恭仁よ。血の繋がりこそ親子の全てか、心さえ繋がれば親子たり得るか。お前が如何様に考えるにせよ、等しく親心に偽りは無い」
勝手なことを。恭仁の心中に記憶と感情が荒れ狂い、彼の顔が自ずと歪む。
「僕は義父さんや義母さんと、心が繋がっていたとは思えません」
鉄義は痛恨の極みのごとく眉間に皺を寄せ、ゆっくりと頭を振った。
「利義と香織を責めるな。あれらは不器用なりに努力した。利義の責任感の強さもあればこそ、早紀恵はお前を兄に託した。香織は倉山家の嫁に恥じぬ辛抱強さで利義に従い、お前を受け入れた。悩み苦しみも当然あったろう」
「早紀恵……それは僕の本当のお母様?」
「お前の産みの母親。利義の妹で、善吉の姉だ」
鉄義はコーヒーを呷って溜め息をこぼし、懐かしげな顔で宙を見上げた。
「あれは身体が弱くてな。身体の弱さがゆえ心が強く育った。一度決めたら人の話に耳を貸さぬ頑固さがあった。都会に出て、男と結ばれやがてお前を身籠った。男は警察官だった。だから信じた。だが彼奴は卑しい獣だった」
話し始めに満ちていた穏やかな笑顔は、終わる頃には怨讐を孕む鬼の形相にすり替わっていた。恭仁はコーヒーを半分ほど呷り、鉄義に身を乗り出す。
「お祖父様。僕の本当のお父様の名前は何ですか」
鉄義が平手を突き出し、恭仁を制した。恭仁は口を噤み、座り直す。
「恭仁。お前が産声を上げた時、彼奴はそこに居なかった。酒と女と博打に溺れて借金が嵩み、悪党と汚れた手を握り合った。借金取りに極道、腐敗を嗅ぎつけた同僚。彼奴は邪魔者を次々と短銃で射殺し、逃げ切れぬと悟れば最後は早紀恵に縋った。倉山家に匿ってくれと。呆れ果てた早紀恵が彼奴に三行半を突きつけて、進退窮まった彼奴は自分の頭を短銃で吹き飛ばした」
鉄義は矢継ぎ早に喋ると、コーヒーを飲み干した。まるで現実味の無い話に恭仁は呆然自失となり、やがて義母の銃に対する過剰反応の理由を悟った。
「彼奴の父と母、お前の父方の祖父と祖母は、倅の悪行を恥じ入るどころか筋違いにも早紀恵を詰った。倅が狂ったのは嫁の甲斐性が無い所為だなどと勝手なことを宣った。許せぬ侮辱! 俺は嬶と一緒に連中の家に乗り込んで腐れ外道に絶縁を叩きつけると、早紀恵とお前を連れ帰った。だが早紀恵は彼奴の死に心を病んで、風邪から肺炎を拗らせ逝った。お前が2歳の時だ」
怒りに震える鉄義の手の内で、カップが握り潰されて床に滑り落ちた。
「恭仁よ。俺は彼奴が、あの人畜に劣る鬼が憎い。それでも恭仁、忌むべき彼奴の鬼の血が、お前の身体にも半分流れているのだ。狂おしいことに!」
鉄義が顔を覆って悶える姿に、恭仁は頭を振ってコーヒーを飲み干した。
「お祖父様。しかし僕には、だからこそ知る義務がある。お父様の名を」
「お父様だと!? 父親の本分を忘れ、お前たちを置き去りにして身勝手に死んだあの人でなしを、お前は父と呼ぶか! あんな畜生に名など無い!」
「例え鬼や獣であっても、その人は紛れも無く僕の本当のお父様です!」
口角泡を飛ばして反論する恭仁に、鉄義がやおら身を起こし、掴みかかって恭仁の襟首を締め上げた。弾かれたコップが壁を打ち、飛沫が床を汚す。
「やはりお前は早紀恵の息子だ。人の話に耳を貸さぬ頑固さ、愚かさ……」
「お祖父様、話を逸らさないでください!」
鉄義は憤懣やるかたない顔で恭仁と額を突き合わせ、剥いた歯の噛み締めた狭間より獣じみた唸り声を上げるも、恭仁は恐れずに鉄義と向き合った。
「名は……その腐れ外道の名は……二階堂……二階堂肇(はじめ)……!」
鉄義は唾棄するような苦々しさでその名を呼び、恭仁を荒っぽく突き放すとバネ仕掛けのように立ち、踵を返して振り返らずに病室を立ち去った。
―――――(13)―――――
入院して初めての週末。見舞いに来た眼鏡に小太りの中年男が誰か、恭仁は思い出せなかった。中年男はウグイス色の上着にストーンウォッシュ加工のジーンズと、ウグイス色のクラークスの革靴を履いて、輸入食品店の紙袋を片手に、人好きのする笑顔で手を振った。恭仁は訝しげに会釈で応える。
「よう恭ちゃん、久しぶり。長く見ない間に、すっかりデカくなったな」
男はニコニコと笑ってパイプ椅子に座り、恭仁と対面する。恭仁は生返事で応えつつ、男が何者か必死に思い出そうとした。男が様子を察し苦笑する。
「長く会わないんで忘れちまったか。善吉だよ善吉。お前の親父の弟」
善吉は紙袋から犬マークのフェンティマンス・コーラを取り出し、栓抜きで抜栓して口をつけると、恭仁に肩を竦めて言った。善吉の恵比寿じみた顔はどことなく利義や鉄義に似ていた。恭仁は合点の入った顔で何度も頷いた。
「この前、叔父様の名前を窺ったんです。射撃場に行った時でした」
「叔父様なんて寒気のする呼び方は止めてくれ。そんな言葉が許されるのはお嬢様だけだ。叔父さんと呼びなさい。いや待て、射撃場と言ったか?」
鉄義や利義とは異なる、善吉のフレンドリーさに恭仁は戸惑いつつ頷いた。
「高校の射撃部の体験入部で、ピストル射撃を少しばかり。スジがあるって言われたんですが、入部は無理と断ったら、射撃場を紹介してくれまして」
「成る程、そういう成り行きで。おっちゃんも今でこそセンターファイアがメインだけど、エアをコツコツ頑張ってた頃は足繁く通ったもんだよ」
善吉が腕組みして頷き、昔を思い出してしみじみ語る姿に恭仁は微笑んだ。
「で、恭ちゃんもピストルを究めようってワケかい。おっちゃんみたいに」
「どうなんでしょう」
恭仁の煮え切らない答えに、善吉は頷く準備の整った姿勢でずっこける。
「義母様と、射撃のことで口論になりまして。お前は本当の子供じゃないと言われ、頭に血が上って自殺未遂を。見舞いに来た義父様から僕は養子だと聞かされ、お祖父様からは僕の本当の両親の話を教えてもらいました」
善吉は溜め息をついて足を組み、椅子に深くもたれて瓶コーラを呷った。
「義母様の怒った理由が分かったんです。銃が人殺しの道具って、その時は何をバカなことをって思いましたが、今ではよく分からなくなりました」
「恭ちゃんはどう考えてる? 今でも銃が、人殺しの道具だって思うか?」
恭仁が善吉から目を逸らして曖昧に首を傾げると、善吉はコーラを口にして笑みを浮かべると、明言を避ける恭仁に肩をせり出し、身を乗り出した。
「おっちゃんが答えを教えようか? そうだ。鉄砲は殺しの道具さ。疑問の余地など無く。そんな基本を分かってない人間に、銃を持たせてはならん」
善吉は笑っていた。その双眸は爛々と力強い眼光を放っていた。
「剣道や弓道を考えてみろ。あれは元を辿れば、戦場の殺し合いで役立てる技術だった。殺しの兵法が武道となり、平和な時代に人を殺さぬスポーツとなるためには、長い年月と多くの人の手を経た改良が、なおかつ非殺傷化が不可欠だ。転じて、鉄砲はどうだ。残念ながらどちらも満たしてはいない」
善吉は聡明な教授じみて、得意分野の熱弁を語り、椅子にもたれた。
「射撃という競技はまだ野蛮なんだよ。勘違いするな、おっちゃんは射撃が好きだ。デブでも活躍できるからな。おっちゃんは昔からデブで、鈍臭くて剣道も柔道も上達しなかったが、大学で射撃に目覚めた。警官になったのもピストルを撃つためだ。特連員で存分に撃たせてもらったし、自慢でないが国際大会まで行った。鉄砲遊びが過ぎて、この年になっても独身だがな!」
善吉はおちゃらけた顔で言った後、鉄義を思わせる厳格な表情を見せた。
「いいか恭ちゃん、射撃競技には一生をかけて打ち込む甲斐がある。しかし命の危険と常に隣り合わせなことは、絶対に忘れてはならんぞ。実弾射撃を例えれば、真剣を使う居合道だ。そんな殺傷能力の高ぇモンが剣道や弓道と同じ土俵に立ち、一般人に受け入れられるなんてこたぁ土台無理なのさ」
善吉は言いたいことを言い終えてコーラを飲み干し、大きくゲップをした。
「叔父さんが射撃をしていること、お祖父様はどう考えてるんですか?」
「罰当たり程度には考えてるだろうな。おっちゃんはどの道、落ちこぼれの末っ子だからどうでもいい。競技で実績も出してるから、何を言われようが関係ないね。射撃はおっちゃんの生き甲斐だ、他で何があろうが別問題さ」
善吉は革靴の黄色い靴底を恭仁に向けて、手持ち無沙汰に空き瓶を弄る。
「まあ恭ちゃんにしてみりゃ、自分の家族の不始末だ。おっちゃんみたいに他人事じゃいられねえし、悩むのも無理ねえ。お前さんの義理の母ちゃんがああだこうだと口を挟むのも分かる。それをなにくそと跳ね除けるぐらいの精神力が無けりゃ、競技射撃で天辺は目指せねえ。それを理解した上でまだ射撃がやりたいなら、好きにしろ。おっちゃんに言えるのはこの程度だ」
善吉の講釈に恭仁は聴き入って何度も頷き、善吉に真剣な眼差しを返した。
「叔父さん。ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「何だ。女の口説き方以外なら、おっちゃん大抵の質問には答えられるぞ」
善吉は片手で紙袋に空き瓶を放り込み、大仰に腕を広げて恭仁を促した。
「二階堂さん。僕の本当のお父様。そのお父様とお母様、つまりお祖父様とお祖母様に会いたいんです。話がしたい。連絡先、ご存知ないですか」
善吉が真顔に戻り、広げた両手を後頭部に組んで溜め息をこぼす。
「参ったなぁ恭ちゃん。そりゃちょっとで聞くような質問じゃないぜ」
「お義父様やお祖父様に聞いても、教えてくれないと思って。実際に会って僕自身の目で人となりを確かめたいんです。倉山家は二階堂家と絶縁したとお祖父様は言いましたが、それはお祖父様の都合で僕には関係ありません」
善吉は険しい顔で腕組みし、片足で貧乏ゆすりしながら深く頷いた。
「成る程な、既に肚は決まってるってことか。親父の判断に逆らって先方に会いに行くとなれば、只事じゃ済まねえぞ。分かってるだろうな」
「お祖父様とは正々堂々と話を付けます。僕には知る必要があるんです」
「頑固なとこは姉さん譲りってワケだ。厳しいことを言うが、先方に会いに行けても、お前が歓迎される保証はないって考えは、心の隅に置いておけ」
善吉が眼鏡を正し、双眸をギラリと光らせる。恭仁は固い表情で頷いた。
「よろしい、そういう考え方なら協力できるぞ。もし相手の家に乗り込んで丁々発止を繰り広げる気だったら、おっちゃんは手を貸すのを断ってたぜ」
「よろしくお願いします」
善吉はニヤリと笑って腰を上げると、恭仁の垂れた頭をポンポンと叩いた。
「強いな、恭ちゃん。その根性があれば、射撃の世界でもやってけるさ」
善吉が紙袋を肩に担いで踵を返し、恭仁が後姿を視線で追い。そして病室に歩み入る、ボストンバッグを抱えた短髪の少女に気づいた。リネンの上着に七分丈パンツ、スニーカー。伊集院だ。善吉が彼女とすれ違うと、伊集院が会釈した。善吉は彼女に微笑みかけ、片手を振って応えて病室を立ち去る。
「あの人は?」
「叔父さんだよ。ピストル射撃が上手くて、国際大会まで行ったんだって」
伊集院は瞠目して言葉を失い、善吉の出て行ったドアを暫し見つめていた。
「それより伊集院さん、どうしたの?」
「倉山クン、ずっと病院で寝てて、戻って来た時に勉強について行ける?」
伊集院は気を取り直して振り返ると、バッグのジッパーを引き開けて逆様に引っ繰り返し、寝台のオーバーテーブルに大量のノートを撒き散らした。
「あんた、トップクラスに入れるくらいだから、勉強できるんでしょ。私のノート見せたげるから、学校の勉強に追いつけるよう少しは努力しなさい」
たじろぐ恭仁を、伊集院が椅子に腰かけつつ険悪な顔で上目遣いに見た。
「勘違いしないで。クラスで落ちこぼれを出したら、面倒なだけだから」
「アッハイ、ドーゾヨロシクオネガイシマス」
「それで良し。手加減なくガンガン詰め込んでいくから、覚悟しなさい」
国語英語数学公民地理と、恭仁が休んできた期間の授業の内容が、伊集院のノートを通じて怒涛のように恭仁へと押し寄せてくる。彼女は記憶の範囲で教師の話も再現し、語り口こそぶっきらぼうだが、効率よく手当たり次第に勉強を詰め込んでいく。恭仁は苦闘しつつも、彼女の秀才ぶりに感心した。
「伊集院さん、教えるの上手いね。教師とか向いてるんじゃないかな」
「教師? あんな薄給で扱き使われる底辺職、割に合わないよ。高い給料とやり甲斐のある仕事、両方欲しいに決まってるでしょ。ふざけないで」
口の悪さも相変わらずだ。恭仁は閉口して、ノートの内容に集中する。
「倉山クンこそ、どうなの。何かなりたい仕事とか無いの」
「僕の家は、一族みんな警察官だから。僕もきっと警察官になるよ」
「夢とかやりたいこととか無いの? 流れに身を任せる人生でいいの?」
「分からない。僕にそんなこと真剣に聞く人は、キミが初めてだと思うよ」
伊集院が手を止め、胸を押さえた。何かに備えるように深呼吸を繰り返す。
「……あのね、倉山クン。私も、したことあるんだ。中学2年の、頃だった」
恭仁は伊集院の決然と強張った顔を一瞥し、無言で俯いて先を促した。
「私、小学生の頃からずっと塾通いで、遊ぶ暇なんか無くて。私もみんなと遊ぶんだって反抗して、大喧嘩になって。お父さんに頭ごなしに怒鳴られて私も言い返したら、口答えするなって殴られて。怖かった。悔しかった」
ノートの紙面にぽたっと水滴が落ち、シャーペン書きの文字が滲む。
「夜も眠れないぐらい不安で、毎日ずっと苛々してて、頭がおかしくなって病院に行って、睡眠薬を貰ったの。寝る前に薬を1粒取り出して見た時ふと思ったの。これ全部飲んだら死ねるかもって。気づいた時には、2週間分の睡眠薬を全部取り出して、口の中に流し込んでた。何もかも解放されるって最初は安心したけど、変な汗が出て息苦しくなって、頭がグニャグニャして怖くなった。誰も知らない所で、自分がバラバラになって消えるみたいで」
伊集院は肩を震わせて止め処なく語り、上着の袖で涙を拭い鼻水を啜った。
「……倉山クンは、死ぬの怖くなかったの?」
「僕の場合はノリと勢いで、グサッとやっちゃったから。死ぬのが怖いとか悠長なこと、考える余裕すら無かったね。もう痛くて痛くて、何でさっさと死なないんだろうって思ったよ。切腹は痛いし格好悪いし、最悪だった」
恭仁がフラットな表情でおどけると、伊集院は涙をこぼしながら失笑した。
「バッカじゃないの。そんなの痛いに決まってるじゃない」
「バカだよね。そんな当たり前のことも知らなかった。僕たち、大馬鹿だ」
「あんたと一緒にしないでよ」
恭仁は人差し指の腹で両目をそっと拭い、苦笑いで頷いた。2人はそれきり沈黙した。伊集院は息を詰まらせ、前髪の影で上着の袖を頻りに動かした。
「伊集院さんは、この気持ちを乗り越えたんだな。僕も強くならなきゃ」
伊集院はハンカチで鼻をかむと、恭仁を見ずに『授業』を再開した。
―――――(14)―――――
恭仁が退院して帰宅すると、居間の絨毯がフローリングに姿を変えたことに先ず気付いた。ソファやテーブルの位置は乱れ、壁には傷が刻まれ、大窓のカーテンは千切れかけていた。恭仁の切腹の残り香と、それを上回る義母の悍ましい発狂の爪跡が残されていた。家の時間はまだ止まったままなのだ。
責任感に駆られた恭仁は、一先ず家中の掃除に取り掛かった。神棚を整えて手を合わせ、調度品の埃を落として拭き上げ、掃除機と雑巾で床を拭い取り水回りを磨き上げる。壁に残る狂気の痕跡だけはどうしようもなかった。
西洋レトロ調のダイヤル式電話機が着信音を響かせ、恭仁が受話器を取る。
「私は補修があって帰りが遅くなるから、夕飯の準備はお願いね。あんたが入院してる時、私に散々手間かけさせたってこと、覚えておきなさいよ」
霧江からの皮肉を込めた言伝だ。香織は長期入院が必要で、いつ帰れるかも分からない。利義は仕事が忙しくて帰宅もままならず、家事は恭仁と霧江の分担という取り決めだったが、事実上は恭仁の手に委ねられたも同然だ。
その日の夜は珍しく、利義が帰宅した。彼は、秩序の取り戻された我が家の光景に目を見張り、役割を取り戻した浴槽に浸かり、稚拙でも温かい料理が並ぶ食卓を恭仁と霧江と3人で囲み、互いが家族であることを思い出した。
今こそ、話すべき時が来た。恭仁は決心し、鉄義と霧江に近い将来の展望を主張した。示現流を除く武道の習い事は辞めたいこと、射撃部でピストルの道を究めたいこと。自分のもう片方のルーツたる二階堂家と会いたい思い。
「あんた何ふざけたこと言ってるの! 自分の都合ばっかり好き勝手に!」
「落ち着け、霧江」
声を荒げる霧江を利義が諫めると、彼は口をへの字に曲げ悩ましく唸った。
「善吉と話をしたようだな」
「はい。入院中に、叔父様が見舞いに来てくださり、お話を伺いました」
利義は頷き、テーブルに肘を突いて組んだ手に顎を載せ、沈思した。叔父と義父の間で何らかの話があったらしい。霧江は不満そうな顔で恭仁と鉄義を交互に見遣りつつも、自分から積極的に話に口出ししようとはしなかった。
「父さんはお前の決心に異論を挟む気はない。親父が許すとは思えんがな」
「善吉叔父様も、似たような話をしました。お祖父様は僕が説得します」
「なら、父さんから言うことは何もない。お前の思う通りにしてみろ」
話はまとまりかけた時、今まで黙って聞いていた霧江が、箸をテーブルへと力任せに叩きつけ、裏切り者を弾劾するような眼差しで恭仁を指差した。
「私は納得していないから! 恭仁、あんたが今まで誰に育ててもらったか分かってるの!? 今更うちを捨てて、二階堂の人間になるつもり!?」
「そんな言い方があるか、霧江!」
「義姉様は僕を首輪で繋がないと不安なほど、僕が信用できませんか!」
恭仁の上げた痛切な叫びが、睨み合う鉄義と霧江を振り向かせた。赤面して涙ぐむに霧江に恭仁は正面から向き合い、力強い眼差しで心から訴えた。
「義姉様の話は誤解も甚だしいです。僕が倉山の名字を捨て去り、竜ヶ島を出るなどあるはずもない。この家には恩も義理もある。二階堂家に会うのと倉山家の義理と、何の関係がありますか。倉山家にどんな思惑があるにせよ僕には会いに行く必要がある。もう片方の家族に。それもまた義理です!」
「うるさい、バカ! 分からず屋! お前なんかもう知らない!」
霧江は食卓に両手をついて喚き散らすと、食べかけの料理を放置して居間を飛び出し、自室に駆け込み叩きつけるように扉を閉じた。恭仁が息をつく。
「霧江もお前の言うことは分かってる。だが女は理屈じゃないんだ、恭仁」
鉄義は唐揚げを頬張ると、黒い盃の焼酎をきゅっと飲み干し、そう諭した。
―――――(15)―――――
翌日、恭仁は久しぶりに高校へ通学し、教室に顔を出した。彼が歩み入ると教室の喧騒が一瞬途絶え、暫し後に至る所でひそひそ話が始まる。気にせず席に着く恭仁の前に、取り巻きを侍らせた男子、鷲津が仁王立ちした。
「おいおい倉山ぁ、自殺未遂って聞いたが、元気そうじゃねえか、ああ?」
「鷲津クンほどじゃないさ。自殺と言っても未遂だよ、ちょっと腹を刺して悪い血を抜いただけさ。お陰で頭がスッキリして、今日から頑張れそうだ」
恭仁が意味深な笑みで切腹のジェスチャーをすると、鷲津と取り巻きたちが明け透けに引いた。彼らの背後で、伊集院が恭仁を尻目に口角を上げる。
「ケッ、何自慢してんだよ、気持ち悪い。この気違いが!」
鷲津一行が解散する姿を、恭仁は涼しい顔で見送った。彼が戦うべき相手は鷲津のような低レベルなマウント野郎ではない。もっと強情な古強者だ。
何事もなく1日の授業を終え、放課後。教室を出る恭仁の後ろから、速足で追いつき恭仁の隣に並ぶ女子生徒。伊集院だ。隣り合って階段を降りる。
「伊集院さん。入院してる時は、勉強教えてくれてありがとうね」
「学校ではその話はしないって約束したでしょ」
「御免、そうだったね」
「倉山クン、それより射撃部に入る気、本当に無いの?」
「今は他に片付けたい用事があって、そっちを優先したいんだ」
伊集院は驚きに相好を崩し、階段で立ち止まる。気にせず降り続ける恭仁の背中を見ると、慌てて階段を駆け下りて、恭仁の隣に並んで鼻を鳴らした。
「やっぱり射撃やりたいんじゃん、倉山クン」
「色々あってね。いつ部活に入れるかも分からない状況なんだけど」
「卒業間近って時に入るなんて言ったら、承知しないから」
1階に降り立った2人が、下駄箱と射撃部の部室で逆方向に分かれる。恭仁は穏やかな笑みで伊集院に手を振った。伊集院はむず痒い顔でそっぽを向いて歩き出し、数歩後に立ち止まると、恭仁の背中を肩越しに見て歩き出した。
恭仁は剣道場に顔を出した。祖父の鉄義に会うためだ。恭仁が話をしたいと鉄義に言うと、鉄義は無言で竹刀を手にし、恭仁に渡した。恭仁は意を酌み道場の剣士たちが打ち合う横で、1日の稽古が終わるまで素振りに励んだ。
「話があります、お祖父様」
稽古を終え、剣士たちの引き払った道場で、恭仁は鉄義に話を切り出した。
「僕は、二階堂家に行こうと思います」
正座をして向き合う鉄義の、固く閉ざした双眸がゆっくりと開かれる。
「倉山家としては絶縁していても、僕は自分自身の目で確かめる――」
「議を言うなッ!」
鉄義が傍らの竹刀を掴み取り、恭仁の言葉に被せて振り下ろす。恭仁もまた傍らの竹刀に手を伸ばし、鉄義の居合じみた面の不意討ちを受け止めた。
「お前は、俺の決めたことに逆らうつもりか」
「お祖父様がそう言うなら、そういうことになります」
「この親不孝者がッ!」
鉄義は瞬時に激昂してすっくと屹立し、立て続けに竹刀を振るった。恭仁は立ち上がって剣戟に竹刀を合わせ、振り回される竹刀を次々と受け流した。
「お祖父様に何と言われても、決心は変わりません。認めてください」
「俺に逆らおうなどと、10年早いわ! 俺の意見に逆らって、自分の意見を認めて欲しければ、力尽くで倒せ。真剣勝負で、俺から1本取ってみろ!」
それから、恭仁と鉄義の剣道場での死闘の日々が始まった。防具を付けない真剣勝負だ。その実情は師範たる鉄義の一方的な勝ち戦だった。歴戦の兵に恭仁は太刀打ちできるはずもなく、道着の上からその身に竹刀を文字通りに叩き込まれて、容赦なく打ち倒されたが、恭仁は総身を打ちのめされつつも鋼の意思でこれを耐え凌いだ。示現流の稽古が無い日は、剣道場に通い詰め剣士たちと共に稽古して、稽古が終わると、夜の剣道場で実戦を交わした。
顔に痣を作った恭仁の姿に、霧江や伊集院は顔を青褪めたが、決意を誓った恭仁は揺るがなかった。示現流師範の調所や、利義や善吉は恭仁の在り方を尊重し、余り根を詰めすぎるなよと、男らしい励まし方で彼を後押しした。
時間は忽ち過ぎた。ゴールデンウィークが過ぎ、梅雨明けを迎え、もう直ぐ夏休みというところまで時は過ぎれど、恭仁はただの一本たりとも鉄義から取ることは叶わなかった。鉄義は手加減なしのエゴをぶつけた。負け続ける恭仁は霧江に呆れられつつも、傷だらけで粘り強く鉄義と戦い続けた。
「恭ちゃん。最近はどんな感じだい」
「これが全然。お祖父様から一本取れる気配も無いです」
「親父に認められるのは生半じゃいかんだろうが、まあ気長に頑張れや」
月に1度ほどのペースで、善吉は時間を作って恭仁と顔を合わせた。恭仁は携帯電話を持っていなかったので、連絡は家の電話へと来る。頻繁に電話を交わす叔父と恭仁に、利義は不干渉を通した。何かが変わろうとしていた。
そして、夏休みを間近に控えた土曜日。恭仁は早朝に道着でランニングして朝食を摂り、学校に行って補修を済ませ、帰宅して昼食を食べた。それから家の掃除を軽く済ませると、庭の片隅に立てた示現流の立木を、木の丸棒で激しく打ちつけた。棒は木刀でなく、刀の寸法に切り詰めた木材だ。激しい立木打ちに耐えきれず、棒は容易く折れた。恭仁は折れる度に新しい丸棒を手にして木人に打ち込む。そうやって折れた木が、周囲には散乱していた。
立木打ちと猿叫の奏でる騒音に、恭仁の気が狂ったのだと勘違いした隣人が文句を言いに来たこともあり、道着姿の恭仁が出迎えると、殺気立った姿に隣人は退散し、代わりに鉄義へ文句を言った。彼が一喝して追い払ったのは言うまでもない。そんなこんなで、恭仁と鉄義の根気比べは続いていた。
夕方になり恭仁は立木打ちを終えると、熱いシャワーを浴びるのと水風呂に浸かるのを交互に繰り返した。夕飯を支度する背に、霧江からうるさいだの勉強の邪魔だの文句を言われつつ、味噌汁を味見して頷き、剣道場に赴く。
「お願いします」
防具を付けた稽古を終えて、人の去った剣道場。恭仁と鉄義は、道着のみに身を包んで正座し、向かい合って黙想する。2人が腰を上げ、竹刀を抜いて正眼で構え、切っ先を交わし打ち合いを始めた。鉄義は還暦の過ぎた身体で10代の恭仁を上回る機動力を見せ、始終自分のペースで恭仁を翻弄する。
「籠手、面!」
幼い頃は痛みに涙した籠手への打撃も、恭仁は耐え忍んだ。示現流で鍛えた力ありきの打撃で打ち込めるほど、剣道師範の鉄義は甘くない。正々堂々の打ち合いで勝つ他ないのだ。恭仁は殆ど朦朧としながら竹刀を握り、鉄義とつかず離れずの間合いで切っ先を交わし、鍔迫り合いを真っ向から受け止め撥ね返して、自分から打ち込んでは鉄義に捌かれ、躱され続けて、それでも諦めずに祖父へ向かい続けた。互いの汗が熱気となって道場に満ちていた。
「突きいィッ!」
機先を制する鉄義の一撃。恭仁は後退せずに、最小限の動作で突きを捌いてカウンターの面を打たんと振りかぶる。鉄義は素早く後退する。普段ならば深追いせずに、仕切り直しを図るところだ。恭仁は敢えて追撃した。それは彼の脳がそう考えたというよりは、身体が勝手に動いた。あれこれの考えは朦朧たる脳内から消え失せ、より肉体に近い脊髄の反射が脳に成り代わって動きを司る。鉄義は後退して回り込みつつも、隙あらば打ち込まんと竹刀を幾度となく振るった。恭仁はその度に打ち込みを捌き、鉄義に体勢を整える時間を与えまいと前進し続けた。恭仁は数ヶ月間の死闘を乗り越え、着実に成長していた。立木打ちの荒稽古で疲弊した心身が、無駄な動きを切り捨て鉄義の流水のごとく動きに追従する。鉄義は顔の皺を深め、双眸を細めた。
「突きッ!」
恭仁が鋭く間合いを詰め、突き返す! 鉄義はそれを弾きつつ、円の歩調で回り込んで恭仁の面に打ち込む! がそれはフェイント! 恭仁がすかさず竹刀を引き戻して切っ先を上向かせると、鉄義はがら空きの胴に踏み込んで鋭い打ち込み! 恭仁は予期していたように鋭く竹刀を振り下ろし、鉄義の胴打ちを弾き逸らす! 鉄義はバネ仕掛けのように勢い良く後退、弾かれた竹刀を構え直そうとしたが、恭仁の踏み込みが早い! 両者、鍔迫り合い!
「恭仁ィッ! 貴様そこまでして、あの腐れ外道どもの家に行きたいか!」
「腐れ外道かどうか! それを決めるのは僕です、お祖父様!」
「威勢のいい口は、俺から一本取った後に叩いてみろ!」
「いつまでも負け犬のままでは、いられませんッ!」
鉄義が歯を剥いて蒸気のごとく鋭い息を吐き、恭仁は赤熱する鍛鉄のような不屈の闘志を双眸に燃やす! 両者、鍔迫り合いする腕に渾身の力を込めて竹刀が音高く軋む! 沈黙から不意の脱力、そして突き飛ばし! 後退した両者が竹刀を構え直して、互いを討たんと踏み込む! 鉄義は咄嗟に素早い籠手を狙うも、肝心の籠手に切っ先が届かず迷いが生じる! 恭仁は咄嗟に竹刀の切っ先を大上段に突き上げ、両手と柄を耳の横まで持ち上げていた!
「ヌッ!? 恭仁、貴様ァッ!?」
示現流の蜻蛉を取って、恭仁は鉄義の彷徨う切っ先を痛烈に打ち下ろす!
「エェーィッ! エエエェーィッ!」
恭仁の踏み込みは止まらない! 竹刀を恐るべき速度で再び跳ね上げ、面!
「ヌグゥッ!?」
一撃必殺の勢いを乗せた竹刀の打撃が、鉄義の額を伝わって彼の正中線から地面へと突き抜ける! 鉄義は倒れまいと踏み止まり、両者動きを止めた。
「……フン。一本取られちまったか」
鉄義は鼻を鳴らし、竹刀を下ろして思わず呟く。恭仁は息を吐いて油断なく残心した後、竹刀を正眼に構えてゆっくりと後退る。鍛鉄のごとく熱い瞳で最後まで鉄義を見続け、竹刀を納め、礼。鉄義はどっかりとその場に座ると満足げな顔で恭仁を見上げた。一本取られた額は、赤く腫れ上がっていた。
「やれやれ。てっきり情けねえ面で泣き落としすると思ってたんだがな!」
「そんなことで認めてもらっても、意味が無いんです」
恭仁がすらりと正座で腰を下ろして告げると、鉄義はカッカッカと笑った。
「意味なんかねえよ。どうせ、ジジイの下らねえ遊びだ。1日2日で諦めると思ってたのによ、何ヶ月も勝つまで粘り続けると思わんだろ。条件を出した手前、引っ込みもつかねえしよ。お前の勝ちだ、恭仁。俺は疲れちまった」
つくづく理不尽な人だ。恭仁は肩を落とし、鉄義に苦笑を向けた。
「勝手にどこへでも行け、バカ者が。後悔しても知らんからな」
「認めていただいて、ありがとうございます」
腕組みして鼻息を荒くする鉄義に、恭仁が三つ指を突いて平身低頭した。
―――――(16)―――――
恭仁はアンティーク電話機の受話器を手にして、深呼吸をした。意を決してダイヤルに指を通して、善吉に教わった電話番号をフリック。呼び出し音が鳴るごとに、恭仁の胸の内で鼓動が高まった。プツリと電話が繋がった。
「はい、二階堂ですが」
気品を感じさせる、しわがれた女性の声。恭仁は呆然として言葉を失う。
「もしもし? もしもし? はぁ、まただわ。もういい加減にして」
疲れ切った様子で忌々しげに呟く声に、恭仁は我に返って口を開いた。
「あっ、えっとあの、切らないでください!」
「誰なの? お願いだから、悪戯なんてバカなことは金輪際止めて頂戴」
「お、お祖母様。僕は、恭仁です! 倉山恭仁! 貴方の孫の――」
女は嘲うように鼻を鳴らすと、無言で電話を切った。恭仁はツーツーツーと受話器の向こうで無情に響く電子音を聞き、暫し呆然として立ち尽くした。
「あんた何やってんの?」
物陰から猫のように見ていた霧江が声をかけると、恭仁は無言でゆっくりと彼女を振り返った。彼の目から二筋の涙が流れ、静かに受話器を置いた。
後日。恭仁は善吉に呼び出された。鉄義から一本取った功を労われ、今まで彼が来たことの無い本格ステーキ店にて、善吉との食事を誘われたのだ。
「何で私も一緒なのよ……」
「恭ちゃんだけ引っ張って行ったら、霧江ちゃん怒るでしょ」
「キモ。霧江ちゃんとか馴れ馴れしく呼ばないで」
2人がじゃれ合っている横で、恭仁は無言のままテーブルを見つめていた。
「そう気を落とすな、恭ちゃん。歓迎される保証はないって言ったろ。今は飯食え飯。何せあの親父のいけ好かねえ面に、真剣勝負で打ち合い1発でもぶち込んだんだからな! これは相当な快挙だぜ。兄貴も姉貴も喜んでる」
姉貴と言われ、恭仁は顔を上げて善吉と視線を合わせた。
「1度や2度断られたぐらいが何だ、親父をブチのめしたお前だぞ! 今日は美味いモン喰って、機嫌直せ。人間なあ、美味いモン喰えば大概のことには大らかになるってモンさ。難しいことは食ってから考えりゃいいんだよ!」
「そんなこと言って、あんたが食いたいだけでしょ」
「おっちゃんも食いたいさ。デブだからな。デブは1食抜くと死ぬんだよ」
善吉と霧江が漫才をしている間に、ステーキが運ばれてきた。善吉と恭仁は山のような赤身、霧江は国産黒毛和牛の小さなサーロインステーキだ。
「うっわー旨そーう! いっただきまーす!」
霧江が両手を叩いて目を輝かせ、我先にと食べ始める。1ポンドステーキを眺めていた恭仁は、善吉に促されて頷き、ナイフとフォークを手に取る。
弱火で芯までじっくり焼かれた厚みの赤身肉は、ナイフを容易く受け入れて切り裂かれ、恭仁の口の中へと納まる。恭仁が美味に目を見開いた。善吉は自分の事のように自慢げに頷くと、掃除機めいた勢いで肉を吸引し始める。
「うま、うま、うま。やっぱり肉は赤身に限るぜ」
「何それ貧乏臭い。サシのたっぷり入った肉が美味しいに決まってる!」
「分かってねえな霧江ちゃん。脂の多い肉は直ぐ腹に溜まるが、良い赤身は2ポンドだって食えるぜ。おっちゃんは何歳になっても食べ盛りだもんで」
「げぇー。肉なんて、量食えばいいってモンじゃないでしょ」
焼肉議論に花を咲かせる2人の横で、恭仁は無言で肉を裂いて食べ続けた。
そして時は過ぎ、夏休み。恭仁は『帰省』の軍資金にと、今まで義母の手に預けられたままだった、溜まりに溜まったお年玉を渡された。恭仁はそれでSIMフリーの新品スマートフォンと、中古の小さなノートパソコンを現金で一括購入した。善吉の勧めだ。回線は格安SIMを、利義の名義で契約した。
恭仁は、あれから何度か二階堂家に電話を試みたが、名前を出す度に電話を切られて、嘘つきと罵られ、終いには電話にも出てくれなくなった。しかし恭仁は諦めなかった。住所は善吉に聞いていた。恭仁は補修や家事の合間にテザリング通信でPCを手繰り、繰り返し地図で道筋を調べ、飛行機や旅館も自分で予約した。代金の振り込みも、慣れない手で銀行のATMを弾いた。
時は更に過ぎ、お盆の前日。恭仁は諦めがちに電話機のダイヤルを回した。
呼び出し音が何度も鳴る。電話には出ない。それでも恭仁は諦めず、一縷の望みを賭けて電話を鳴らし続ける。電話には出ない。電話を切られるまでは諦めない。電話を切られたとしても、飛行機や旅館は既に予約している。
「二階堂です! もう電話はこれで最後にして!」
「明日、貴方がたのお宅に向かいます。倉山恭仁でした」
淡々と告げる恭仁の言葉に、電話を叩き切ろうと凄まじい剣幕で吠え猛った女性が息を呑む。恭仁は沈黙の後、今度こそ自分から受話器を下ろした。
翌日。恭仁は旅荷物を詰めた、クラシックな革トランクを手に、竜ヶ島市で一番の繁華街、星之宮の空港バス乗り場に立っていた。彼の目に最早迷いは無かった。恭仁は粛々とリムジンバスで空港まで行くと、何とか滑り込みで予約できた格安航空の末席に納まり、東京は羽田空港へと一路飛んでいく。
お盆の賑わい。数多の人でごった返す東京。大都会に初めて降り立つ恭仁が第一に感じたのは、都会の匂いだ。人いきれとも煤煙ともつかぬ、ビル街に立ち込める特有の臭気。満員電車に揉まれ、京急で品川へ。品川から鈍行に乗り換えて、山手線にて原宿に走ると、明治神宮に参拝して願いを捧げる。
原宿から新宿へ、新宿から京王線に乗り換えて調布へ。調布駅を降りてから西へ行き、都道12号線に出ると道なりに北進、高速道路の高架橋が見えるとそれを目印に東へ進み、野川に架けられた橋を渡り、川向こうの住宅街へと足を進める。恭仁はトランクを手にスマホの地図機能へ目を凝らし、何度も道を間違えては引き返し、ごみごみする無機物の街を先へ先へと進んだ。
恭仁は遂に辿り着いた。住宅街の中に立つ、小ぢんまりとした一軒家へと。
表札には見間違えようもなく、二階堂と名前があった。恭仁は生垣の合間に設けられた門柱の、閉ざされた門扉の奥に垣間見える屋敷に目を凝らした。
1度、2度、3度と深呼吸。門柱の呼び鈴に手を伸ばす。ジリリと音が鳴る。
「御免ください。倉山恭仁と申します。お盆のご挨拶に参りました」
辿り着いてみれば、怖気づく舌は嘘のように滑らかに、言葉を吐き出した。
沈黙の静寂の背後の遠くで、高架橋を過ぎる車の擦過音が鳴り響いた。
【アウトサイド・モノクローム/3話 おわり】
【次回へ続く】
From: slaughtercult
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