泡沫の熱き鋼の子守歌 #パルプアドベントカレンダー2021
【1】
そして、夜明けがやって来る。
朝靄の漂う街並み、無人の道路端、噛み合ったチェーンとギヤが輪転する草臥れた金属音が響いた。肌寒い空気を掻き分け、一台の自転車が現れる。
サドルに跨る少年は古びた青のジャンパーに包んだ身を震わせ、白い息を機関車の汽笛のように吐きながら、錆びついた自転車のペダルを漕ぐ両足に力を込め、夜明けの住宅街を門付じみて駆け巡る。それは神の祝福の祝言を上げるためでなければ、エジプトの初子を討つためでもなく、彼の自転車の前かごに山積みされた朝刊を家々に配達する、毎朝のルーティンであった。
少年、木浦洋介は中学二年生だ。新聞配達のアルバイトは小学生の頃からやっているから慣れっこだが、寒風吹き荒ぶ冬の朝刊配達は、何度やっても嫌なものがある。しかし、ご飯を食べるためには自分がやるしかない。
洋介はしょぽしょぽ眠たげに目を瞬き、ふらりふらりと自転車が揺らぐ。
路面の凹凸でタイヤが跳ねるのと、寝惚けた街のどこかで銃声が轟くのが同時だった。洋介はハッと目を見開いてハンドルを握る手に力を込めた。
寒いのに額に冷や汗が浮かぶ。良くあることだ。洋介は繰り返し、自分に言い聞かせた。尻込みしそうな両足に力を込め、自分を強いて先を急ぐ。
この辺は比較的に治安が良い。治安の悪い地区の住民はそもそも新聞など読まない。洋介自身がそういう所に住んでいるから、良く分かる。
それでもなお子供の一人歩きは危険と隣り合わせだ。少年少女の見境なく襲い掛かるレイプ魔、薬物のやり過ぎで唐突に発狂する粗暴犯、車の窓から銃撃したり、縄張り争いで抗争したりするギャング、子供や浮浪者を攫って臓器を売り捌くマフィア。この街で子供が無事に生き永らえて大人になれる確率は、決して100%ではない。次にぶち抜かれるのは自分かも知れない。
それでも、今日を生きるため食うためには、働くしかない。洋介は奥歯を噛み締め、総身の震えを押し殺さんと丹田に力を込め、ペダルを漕いだ。
子供が学校に通うには、大人が送り迎えするのが当たり前だ。というのは中流階級以上の家庭の常識であり、洋介たち底辺層の常識とはまた異なる。
底辺の家庭では、親が片方いないとか両方いないとか、親兄弟が何らかの身体的か精神的な疾患を持っているとか、何らかの依存症を患っているとか社会的不適合の気質を持っているとか、それら条件の何れかもしくは複数に該当するのも珍しくない。金銭的に困窮しているのは言うまでもない。
ああ、銃が欲しい。
洋介は家々のポストの一つ一つに、新聞を投じながら心に願った。
俺にも、銃さえあれば。
洋介の脳裏に、弟と妹の手を引く母親の背中と、飲んだくれて拳を振るう父親の赤ら顔が過る。歯を食いしばる獣じみた顔の両目に、涙が浮かぶ。
銃があれば――俺だって、奪われる側でなく、奪う側になれるのに。
【2】
新宮ヶ崎中学校二年三組。洋介の眠気と集中力は、二時限目にして限界を迎えていた。教科書を注視し、教師の言葉を聞き、ノートに板書を書き写す所作の全てが覚束ない。視界が音も無くホワイトアウトして、フワァ……と意識が宙に昇天し、教師の罵声と共に教科書で脳天を一撃され目を覚ます。
「木浦ァァァァァ! お前、何度目だコラァ!」
「はひ……すいません」
「そんなに俺の授業が退屈かァ? 魂の入らんヤツめ、外で立ってろ!」
「すいませんでした……」
ゲラゲラと同級生たちの笑い声を背にして、洋介は席を立ち、教室の外へ歩み出る。窓際に立ち、数秒後に眠りに落ちたのは言うまでもない。洋介は学業と労働を両立するハードな日常に、立ったまま寝る術を会得していた。
洋介はチャイムの音で目を覚まし、窓越しに号令の声を聞く。教室を出る教師と顔を合わせないようタイミングを合わせ、教室に歩み入ろうとして、
「木浦! 待て、逃げるな! 昼休みに生徒指導室に来い、いいな!」
閻魔じみて眼光鋭く教師に呼び止められ、力なく首肯して教室に戻った。
「聞いたか? 三年の女子が、援交して補導されたって」
「相手って確か、四十代の公務員だろ?」
「オッサンじゃん! そんなんとやるくらいなら、俺にやらせろよな!」
「ハハハ! お前金持ってんのかよ!」
「ねえけどよ、女なんて顔を二、三発ブッ叩けばやれるだろ!」
「マジ引くわー犯罪者! 身近でレイプ犯が出たらお前チクるからな!」
声高に語らう不良たちから目を逸らし、洋介が席に着く。前の席に座った少年が振り返り、間の抜けた笑顔を洋介に見せた。前歯が数本欠けている。
「聞いたか、洋ちゃん。二組の斎藤の親父、覚醒剤で逮捕られたってよ」
菅原静雄は歯の隙間から空気を漏れさせ、たまに怪しい発音で、早口かつ楽しげにゴシップを語る。洋介は喉の奥で唸り、溜め息がちに頭を振った。
「薬物はいいよね、逮捕られるから。お酒で気狂ってる家の親父は、警察は見向きもしない。あいつも逮捕られたら、少しは暮らしが楽になるのに」
「お前も大変だな、洋ちゃん。けどよ、どんなんだって親父は親父だぜ」
「分かってるよ。分かってるけど。静雄ん家の親父はいいよな、働き者で」
「まあな。けど家だって大変なんだぜ。何せ兄弟が多いだろ、家計はいつも火の車。俺も卒業したら働いて、家族を食わせなきゃ。長男の務めだ」
静雄は軽口を叩くように語り、悲壮感とは無縁な底抜けの笑顔を見せる。
「静雄は偉いね」
「洋ちゃんだって偉いだろ、親父を食わせてんだからなぁ。もっと胸張って生きろ。俺、尊敬してんだぜ。頑張ってりゃその内、暮らしも良くなるさ」
「……そうだね。俺も、頑張るよ」
「あしーたーがあるーさーあすがあるー、わかーいおれにはゆーめがある」
静雄が歌いつつ肩を揺すって笑うと、洋介も自然と笑みがこぼれた。
【3】
昼休み。生徒指導室に足を踏み入れた洋介は、凝った空気に顔を顰める。
「おう木浦、来たか。そこに座れ」
教師に促され、洋介は簡素な事務用スツールに座り、教師と対面する。
「木浦。眠そうだな」
「眠いです」
「家庭の事情で、お前がバイトしてることは知ってる。だがな、こう何度も居眠りで注意しても改善しない、授業に支障を来してちゃ仕方ないだろう」
「はい」
教師は腕組みして背を逸らし、天井を睨むと溜め息がちに肩を落とした。
「いいか木浦。本当は未成年が働いちゃいけないんだぞ。世間が貧しかった大昔とは違うんだ。どうにかならんのか? 他でもないお前のためだぞ」
「バイト、辞めろって言うんですか」
「お父さんがいるだろ。働いて子供を養うのが当然の親の務めだろう?」
「先生が直接言ってくださいよ! 俺が言ったところで、生意気言うなって殴られるだけだ。親父のためじゃない、俺が生きるために働かなきゃ!」
「しかしだな。本当はこんなこと子供に言いたかないんだが、学費も随分と滞納しているだろう。木浦、こんな調子じゃお前、皆と一緒に修学旅行にも行かれん。大体お前はまだ義務教育なんだぞ。労働と学業の両立は無理だ」
「じゃあどうしろって言うんですか! 教えてくださいよ!」
洋介が半泣きで身を乗り出して叫ぶと、教師は腕組みして黙り込んだ。
いつまで待っても、答えを聞かせてくれない。いっつもこうだ。落胆した洋介は、浮かせた腰を破れかけのスツールに下ろした。いつだって、大人はしたり顔で知ったような言葉を吐いて、真摯に寄り添う気配すら見せない。
「話せば分かる。これからのことを、しっかりお父さんと話し合いなさい」
分かるわけないだろ、馬鹿たれ。世の中、分かり合えない人間がごまんといるってこと、いい年してまだ分からないのか。脳味噌お花畑のクソ野郎。
などと抗弁したところで大人には無駄なことを、洋介は良く知っている。
「……はい」
口答えするだけ時間の無駄だ。ゆえに、洋介は従順に答えて席を立つ。
【4】
放課後、汚れた下町、転がる塵芥や空き缶を蹴り、破き捨てられた選挙のポスターを踏み、洋介と静雄が連なって歩く。要塞じみて眼前にそそり立つコンクリートの壁は、鈍行電車の高架橋。黄泉比良坂の検問所じみて四角く切り抜かれた、この世の終わりのように暗いトンネルを抜けると、この世の地獄のように貧しく騒々しい貧民街が現れた。洋介たちのホームタウンだ。
ようこそ異世界へ。ここは鈴合、新宮ヶ崎の掃き溜め、通称『〇番街』。
夕方の〇番街一番地は、手持ち無沙汰に流離う中年男や、盗品の露天商を品定めする中年男、胡乱な屋台へ歩み入る中年男、カップ酒を歩き飲みする中年男に、座り込んで闇タバコを吹かす中年男もいれば、死人めいて道端に行き倒れた中年男もいる、いぶし銀の戦士たちが勢揃いする神々の黄昏だ。
アル中のような覚束ない足取りで、人馴れした土鳩を追い回す中年男も。
「ほら見ろよ見ろよ、洋ちゃん! ぽっぽっぽー、鳩ぽっぽー」
「よせよ静雄、刺激するな!」
チンチン電車じみて通過する一般中年男を指差す静雄の手を、顔を顰めた洋介が下げさせた。すると二人の声に気づいた男が、ぴたりと立ち止まる。
「らりみれんらろめえら! ぶひほろはれてえは!?」
男は両腕を伸ばし両手を広げたベアハッグの姿勢のまま、明らかに焦点の合っていない目でこちらを見据え、凄まじい剣幕で早口に捲し立てる。
「やべえ、こっち見てるぞ!」
「ヒャハー! 逃げろ!」
「ひへんはあああああッ!」
鳩追い男がこちらにベアハッグ突撃するのと、洋介と静雄がケツを捲って逃げ出すのは同時だった。洋介は目玉を引ん剝き、静雄は楽しそうに欠けた歯を剥いて走る。高架橋の壁面沿いに広がる露店市を横目に、人や自転車を縫うように避けつつ、二人は街を駆けた。振り返れば、ベアハッグ突撃男は二人の背後にピタリとくっついてデッドヒートしている。男は肉体労働者か体格が良く、また恐ろしく足が速く、スタミナも尋常ではない。目の焦点が合っていないにも関わらず、正確に二人を判別して追跡し、叩きのめさんと息巻いている。捕まれば最後、中学生二人掛かりで戦っても勝ち目は無い。
「だから言ったのにーッ!」
「アヒャヒャヒャー!」
「はへほらあああああッ!」
洋介と静雄は互いに、足の速さと体力には自信がある。残念ながらそれは怒れる野獣男も同じだった。二人は学ランのボタンを一つ二つと外し、襟を開いて呼吸を楽にすると、片手の学生カバンを揺らしつつ狭く不潔な路地をジグザグに駆けた。洋介が振り返る。追跡者は未だ薄皮一枚で二人の背後に肉薄し、カマキリのごとく開いた両腕で獲物を捕捉する機会を伺っていた。
「まだ追って来やがる!? しつけーなオッサン、ターミネーターかよ!」
「アイルビーバックだぜ、洋ちゃん!」
「馬鹿やめろ! それ辞世の句じゃねーか!」
「辞世の句って何?」
「死ぬ時の最後の言葉って意味!」
「要するに贈る言葉ってことだな!」
「贈るの意味がちげーよ! もうええわ!」
二人が軽口を叩き合って十字路を飛び出すと、横合いからクラクションを鳴らして三輪屋根付きスクーターが転び出る。警笛を薄皮一枚で潜り抜けた直後、背後で鈍い衝突音。二人が急制動、洋介が蒼褪めた顔で振り返る。
「バカヤローッ!」
三輪スクーターの運転手が叫んだ。三輪車は法定速度で走行していたとはいえども、質量でターミネーター中年男を弾き飛ばしたせいで、前面を覆う透明板の風防がバキバキに割れていた。男は路上に転がり微動だにしない。
三輪車は50cc単気筒エンジンを甲高く唸らせ、後二輪のサスペンションを巧みに操って路傍の男をスラローム回避し、我先にと一目散に走り去る。
「やっべ、静雄……どうしよう」
「放っとけ、洋ちゃん。ターミネーターはこの程度じゃ死なねえよ」
「それもそうだな。行くか」
頭上から土鳩の空爆が降り注ぎ、轢き逃げ失神放置男の後頭部に勲章物のピンポイント爆撃を決める。洋介は顔を顰め、静雄は意味深に親指を立てて踵を返し、二人は何食わぬ顔で家に帰った。男のその後を二人は知らない。
【5】
うらぶれた裏通り、薄汚れた長屋の一棟の引き戸が、建付けの悪い不快な音を立てながら開かれる。鍵はかかっておらず、泥棒が入りたい放題だ。
「ただいまぁ……」
洋介は小声で呼びかけると、足音を殺して借家に歩み入り、饐えた臭いと紫煙と酒まじりの呼気と、即席食品の化学調味料じみた香りが混ざり合った劇臭に鼻を摘まむ。土間から式台から居間まで、所構わずゴミだらけだ。
ゴミ山に埋もれるようにして、今一人のいぶし銀の戦士が横臥し、大きな鼾をかいている。木浦秀康、洋介の実父にしてこの四畳半の暴君、誇り高き無職人にして、時に神託を告げる預言者。彼が横たわる穢れし祭壇の周囲に神への供物がごとく、無数の酒の空き缶や空き瓶が無造作に転がっていた。
「死ねばいいのに……」
文字通りゴミを見るような目で洋介が見下して呟くと、秀康は身じろぎし睡眠時無呼吸症候群じみて呼吸を間欠させ、洋介が反射的に身を竦ませる。
片付けても片付けても、隙間ができた側からゴミが遺棄される。おかげで制服にはすっかり異臭が染みつき、底辺揃いの新宮ヶ崎中でも一目置かれる臭いヤツとして陰口を叩かれ、キングオブ底辺の扱いに甘んじている。
洋介と対等に接してくれる者といえば、同じ〇番街出身の静雄くらいだ。
木浦一家が、他の〇番街の住民らと同様に借家暮らしの流れ者であるのと異なり、静雄の一家は〇番街の住民には珍しい持ち家……つまり古くからの鈴合地区の住民だ。家の隣に工場を持ち、先祖は鍛冶屋なのだという。
洋介と静雄との気風の差は、根っからの土地の住民であるか否かの違いが影響しているに違いない。静雄は洋介よりマシとはいえ貧乏なのに、心には明らかに余裕があり常に笑顔だが、洋介にはそれが無い。シビアな綱渡りの生活に心は擦り切れ、冷え切っている。言い知れない苛立ちを募らせて。
洋介は窓を開けて犬小屋の空気を入れ替えつつ、ささくれた畳の至る所に転がるゴミを拾い集めて袋にまとめた。いたちごっこだが、定期的にせねば直ぐに足の踏み場も無くなる。空き缶や空き瓶に触ると、秀康が起きた時に激怒するのでそれには一切手を付けない。軽い掃除を終えると、居間の脇に巾着で包んだ風呂道具を掴み取り、秀康が盗み見ていないことを確かめると秘密の隠し場所から貯金を取り出した。金の隠し場所には要注意だ。何度も宝の在り処を暴かれ、金を盗られては秀康の酒に変わることを繰り返した。
洋介は夕刻の街に歩み出た。〇番街の国境線を超えると、新宮ヶ崎の駅に程近い、裏通りの銭湯に向かう。国境線の内側にも銭湯は当然あるが、余り良い選択とは言えない。清潔なのは銭湯という小銀河の中だけで、銭湯から一歩外に踏み出せば、あの鈴合特有のえも言われぬ香りに体中が包まれる。
銭湯が老若男女のための存在なのは、もはや〇番街の中だけの話だ。外の世界では大抵、暇を持て余した年寄りか、一部の好事家が利用する程度だ。
洋介は番頭に浴場とサウナの料金を払うと、入念に体を洗い、沸かし湯に入念に漬かり、サウナと水の交互浴を入念に繰り返して、また湯舟に入念に漬かるなど、毛穴の奥まで染みついた悪臭が抜けるよう念入りに努めた。
「よう、坊ちゃん。これから仕事か」
思い思いの入れ墨を見せびらかすようにして湯船に漬かる、中年というか初老に近い無頼漢たちの一人が、親しげに洋介へ声をかける。
「そうです」
洋介はおっかなびっくりで返答した。新宮ヶ崎も鈴合も、そこらじゅうにギャングやヤクザがうろつく犯罪者天国だが、洋介は一向に慣れない。
「精が出るな。頑張れよ」
「ありがとうございます」
洋介はヤクザたちに会釈し、大浴場から出る。洋介に仕事を斡旋したのは彼ら、新宮ヶ崎に犇めくヤクザ組織の一つ『清和連合楢崎一家四十万組』の若中である。人集め、斡旋業が暴力団の領分なのは、今も昔も変わらない。
初め、洋介は新聞配達を斡旋された。仕事が長続きする根性の持ち主だと認められ、彼が小学から中学に上がると二つ目の仕事を斡旋された。二つの仕事の何れも、ヤクザにピンハネされ相場より安い賃金を貰っていることを洋介は知る由もない。尤も知っていたとて彼には逆らいようも無かったが。
洋介は銭湯を後にすると、老夫婦の経営するクリーニング店に顔を出してパリッと糊の効いたドレスシャツと、黒いスラックスに黒ヴェストと次々に受け取って、老婦に襟元の蝶ネクタイを付けてもらい、使い古しのコートとマフラーを借り、店に置かせてもらっている革靴を履いて、日没間近の街に送り出された。老夫婦は貧乏生活が長く、洋介が鈴合地区の出身と知っても一般人のように見下したりせず、彼を孫のように可愛がってくれている。
【6】
宵闇の街で洋介が辿り着いたのは、新宮ヶ崎の歓楽街に並び立つ飲食店のうちの一軒、洋風大衆酒場『獅子利亜々乃』。四十万組にみかじめ料を払い庇護下にある店の一つだ。店主はイタリアのシチリア島出身で、十代の頃に下手を打ちイタリア国外に脱出。日本に流れ着いた彼は、新宮ヶ崎に潜伏し四十万組の斡旋で日本戸籍を取得、料理屋を開いた。店の評判は良く商売は順風満帆、襲撃を受ける懸念も杞憂に終わり、給仕として雇った日本女性と恋に落ち結婚。今では母語より上手いと自虐するほど日本語が堪能だった。
店主の日本名は赤井マルコ。本名は『墓まで持っていく秘密』らしい。
「洋介が来ました!」
洋介は店の裏口に回ると、ゴミ捨て場を横目に扉を叩き、一声かけてから扉を開く。裏口はバックヤードに繋がり、先に進むと厨房だ。今の時間なら店主のマルコと女房の冬美とが、厨房で開店準備に奔走しているだろう。
洋介はバックヤードのスタンドハンガーにコートを掛けると、マフラーをコートの上に掛けた。革靴の外履きから上履きのスリッポンに履き替えると厨房に顔を出し、中年のシチリア人男性と日本人女性の背中に声をかけた。
「マルコさん、冬美さん、お疲れ様です」
「ん」
マルコは大柄の長身にエプロンを着け、髪を撫でつけチョビ髭を生やした顔に気難しい表情を浮かべて、洋介を尻目に一瞥して小さく頷いた。最初はこんなに取っ付き難い人ではなかったのだが、近頃は悩み事を抱えた様子で怒りっぽく、洋介の言葉にもつっけんどんだったり上の空だったりする。
「お疲れ、洋ちゃん。今日は注文間違えたらダメだよ」
店主とは打って変わって、縦にも横にも大きい冬美は、以前から変わらぬ底抜けに明るい陽気さ、度量の深さ、豪放磊落さを併せ持つ、女傑の称号が相応しい気風の良さで洋介に檄を飛ばした。彼女はイタリアの在住歴が長く人生経験も豊富で、さばけた性格をしている。洋介は本物のイタリア女性を知らないが、もし居るなら多分こういうものなのだろうと思っている。
「すいません、気を付けます」
「分かれば良し。掃除、早いとこ済ませちゃって頂戴」
「承知しました」
洋介は恭しく一礼し、厨房から食堂のカウンターに歩み出た。慌ただしい夜の始まりだ。手始めに酒棚の埃をハタキで念入りに払い、様々のグラスやタンブラーを一つ一つ磨き、テーブルやカウンターの天板を拭いて調度品の位置を整え、仕上げに食堂の床をモップ掛け。これだけの雑用を、出勤から開店時間までの短い時間で素早く抜かりなく行わねばならない。最初の内はグラスを割ったり、仕事を抜け落ちたりなど迷惑をかけたものだが、近頃は冬美さんが見守らずとも『安心して任せられる』程度は仕事が上達した。
洋介は一息ついて、手の甲で汗ばんだ額を拭うと、腕まくりしたシャツの袖を戻しつつ、ふと視線を感じて振り返る。カウンターから厨房へと繋がる戸口から誰かが見ていた。マルコだ。無言で腕組みして洋介を眺めている。
「ん……マルコさん? あ、準備終わりましたよ。どうかしました?」
「ああ、いや……気にするな」
マルコは暗い顔で灰色の瞳を窄め、頭を振ると踵を返し、長身でのそのそ歩いて厨房に戻る。洋介は顔を顰めて首を傾げた。近頃いつもこうだ。何か考え込んだ顔で自分を見ているが、何を考えているのか教えてくれない。
「ひょっとして、俺ってそんなに頼りない?」
洋介にはマルコの悩みの種に見当が付かなかった。商売は順調。ヤクザのみかじめこそ払っているが、彼らと仲が険悪な様子もない。仕入れ業者とも上手くやっているし、客から店の愚痴や悪い噂の一つも聞いたことが無い。
洋介の仕事ぶりに対する評価こそシビアだが、正直言って、自分のような賤民が働かせてもらえること自体が何かの間違いと思えるくらい、誇り高く品格のある店だ。この店を紹介したヤクザに洋介が感謝している程度には。
「ハァ……早く大人になりたいな。頼ってもらえるような大人に。頑張ろ」
洋介はトイレに向かい、自分の姿に問題が無いか鏡で確かめると、両手の人差し指でニッと頬を釣り上げて笑顔を作り、意気揚々と食堂に戻った。
間もなく『獅子利亜々乃』の開店時間となり、家族連れがやって来た。
「いらっしゃいませ! お好きな席にどうぞ!」
洋介は、中学校で授業を受けている時よりずっと活き活きと、ちょっぴり背伸びした大人な雰囲気を心がけ、次から次と来店する客を案内する。店は今日も満員御礼、冬美が盛り付けの傍ら料理出しを手伝う中、洋介も同様に料理を出し、引っ切り無しに訪れる客に入店待ちを伝え、並んだ客の様子をたまに見に行ったり、文句を言う客には謝り倒して何とかお引き取り願う。
尿意を催すことすら忘れ、気づけば二時間は立ちっ放しで独楽鼠のように動き回っていた洋介は、頃合いを見てトイレに立ち、鏡の前で襟を正した。
「かーッ、自分の思い通りにならないからってキレるなよな、もうッ!」
ここの仕事は楽しいが、それでも腹の立つこともある。そんな時は父親のぐうたらな不貞寝姿を思い出し、あれより酷い人間はそう居ないと己の心に言い聞かせ、気持ちを切り替える。洋介の忙しい夜はまだまだこれからだ。
【7】
食堂に戻った洋介は、ずらり並んだテーブル席で、団欒を楽しむ客たちをざっと見渡すと、客の取りこぼしが無いか、ドアの外を確認しに向かう。
「おっと、自動ドアだったね」
洋介がドアを引き開けると、黒革のピーコートをまとった中年男が眼前に立っており、おどけた様子でそう言った。男はとぼけた野良犬めいた笑顔にワイリーⅩの防弾眼鏡を光らせ、伸ばした片手を空振りさせる。
「……おじさん!」
おじさんとは、男がそう自称し、また少年がそう呼んでいるだけ。実際に親族というわけではない。男は額の前に二本指を掲げる。彼の挨拶だ。
「よっ、少年。今夜も頑張ってるな。今、空いてるかい?」
「今丁度、一席空いたところ。案内するよ」
「頼もうか。料理は、いつもので」
「またイワシのパスタ? おじさんそればっか食うじゃん」
「好きだからね。何を食べようがおじさんの勝手だ」
念のために補足すると、洋介は普段のお客にこんな砕けた口調では絶対に話さない。おじさんの軽妙で掴まえ所のない性が、洋介にそうさせるのだ。
食堂の片隅についたおじさんが、前菜の魚介盛り合わせを摘まみワインを傾けていると、店のドアが開いてギターを小脇に抱えた『流し』の壮年男が出現し、店内の賑わいが最高潮にヒートアップする。流しとは根城を持たず店を渡り歩いて弾き語り、金を稼ぐ歌手である。毎日は来ないし来る間隔もまちまちなのだが、おじさんが来る日は不思議と高確率で流しが現れる。
「お、ケンちゃんが来たぞ!」
「『流し』の健次郎だ!」
「ケンちゃんカッコいーい!」
至る所で口笛や拍手が響き、『ケンちゃん』や『健次郎』と呼ばれた男が特徴的な銀色のリゾネーター・ギターを小脇に抱え、客席を悠然と見渡して恭しく一礼。一見客は突然の出来事に唖然として、何者かと彼を注視する。
洋介はニヤリとして、この時ばかりは手を停め足を休めた。カウンターに顔を向けると、いつの間にかマルコと冬美が戸口に並び立っていた。
「一曲歌います。シチリア民謡『しゃれこうべの歌』、お聞きください」
ケンちゃんは演歌歌手じみたいぶし銀の見た目とは裏腹に、シャンソンかカンツォーネ歌手のように伸びやかな声で朗々と歌い、ブルースを思わせる哀愁をたっぷり含んだギター演奏で、食堂を練り歩きつつ弾き語る。
しゃれこうべの歌は、ギターの陽気なメロディとは裏腹に、骸骨となった死者が昔話を語るという中々ドギツイ歌詞で、在りし日のシチリアの厳しい暮らしが偲ばれる。流しのケンちゃんが歌うのは、シチリアの原曲に日本語歌詞を載せたアレンジ版で、マルコは毎回この曲を聴いては涙ぐんでいる。
目頭を拭うマルコと、彼の背中を摩る冬美を盗み見た洋介は、彼の視線に気づいた冬美が振り向いてウィンクすると、ドキリと顔を逸らした。洋介は子供心に、マルコも遠く離れた故郷が恋しいのだろうと考えるのだった。
ケンちゃんが歌い終わると、常連客を中心に拍手と口笛が沸き上がった。
マルコは冬美に背中を押されつつ厨房に戻り、客たちも思い出したように食事を再開する。ケンちゃんは日本語版のイタリア歌謡を中心に、客からの要望があれば歌える限りは応えつつ、ギターを弾き語り上着の胸ポケットに客から縦二つに折った紙幣をぽつぽつと入れてもらい、おひねりを集めた。
「本日はお聞きくださりありがとうございます。流しの健次郎、本日最後の一曲を歌います。『忘れな草』、どうぞ最後までお楽しみください」
口笛や拍手が巻き起こっては波が引くように鎮まり、忘れな草の伴奏がギターのアレンジで響いて、実らぬ悲恋を力強く、時に優しく歌う。
最初はケンちゃんの姿を変人を見る目で、ともすれば不快そうに見ていた一見客も、ここまで聞いたらもう殆どの人が、彼の弾き語りにぞっこんだ。
「彼は本当にいい歌を歌うな、少年」
立ち尽くし聞き惚れる洋介に、傍らの席でイワシのパスタをつつきながらおじさんが語りかけると、洋介が口に親指を立てて「シーッ」とした。
「……失礼」
おじさんは肩を竦めて短く言うと、ワイングラスを手にする。彼は洋介の多少の無礼や失態にも怒らず、いつも掴まえ所の無い微笑を湛えていた。
流しのケンちゃんは来た時と同じような気ままさで、アンコールを求める声をサラリとかわし、ふらりと店を後にする。まるで勝手に来ては餌を貰い用が済めばいつの間にか消えてしまう、野良猫のように憎めない男だった。
「……あの美空ひばりも所属していた神戸芸能社が、広域暴力団・山口組のフロント組織だったのは有名な話だ。知っているかい、少年。古今、芸事はある種の特別な人々が領分とする生業だ。それは昔に限った話じゃない」
「何が言いたいのさ、おじさん」
要領を得ないおじさんの話に、洋介はぽかんと聞き返した。
「彼の歌声には気を付けろ、少年。彼の持つ歌声は、人を惹き付ける魔性を孕んでいる。我々はそれに憧れるが、それを手に入れる試みは叶わない」
「奥歯に物が挟まった言い方しないで、ハッキリ言えばどうなのさ!」
洋介はケンちゃんを侮辱された気になり、思わずカッとして言い返した。
「太陽を掴もうとしてはいけない。魅力的なものに対する時ほど、自制心を忘れず適切な距離感で楽しむべきだ。なに、健全な大人としての忠告だよ」
「意味わっかんね……」
頭を振る洋介にも、おじさんは意味深な笑いでワインを呷るのみだった。
それから客がぼちぼち入れ替わり、おじさんのパスタの皿が時間をかけて空になった頃、洋介は粕取り蒸留酒を満たしたグラスを手におじさんの席に向かう。いつもと同じだ。おじさんは一々注文を入れることを好まない。
「俺さ、おじさんのこと嫌いじゃないけど、あんまりかしこぶった言い方で喋ってると人に嫌われるよ? これ、健全な子供からの忠告だから」
洋介が意趣返しを試みると、おじさんは掴まえ所の無い微笑で四十二度の熟成グラッパを一息に飲み干して、芝居がかって指を振り、舌を鳴らした。
「かしこぶる、でなく、賢しらぶると言うんだ。また一つ勉強になったな」
「……そういうとこだよ」
「君と話していると実に楽しいよ、少年。そろそろ勘定を」
「あいよ」
洋介が決して安くはない勘定書きを手に席へ戻ると、おじさんはいつもと同じ金額をマネークリップから出して、四つ折りの千円札を洋介のベストのポケットに忍ばせた。洋介は曖昧な笑顔でおじさんを見返す。ピーコートの三つボタンの中段は常に閉ざされ、おじさんが胸襟を開くことは無い。
「……いつもありがとう」
「なに、彼らがケンちゃんに投げ銭を遣るのと同じ事さ」
「あっそう。そりゃどうも、毎度あり」
洋介が代金を二回数えて銀色の勘定盆に乗せると、おじさんがハンカチで唇を拭ってポケットにしまい、ゲップを噛み殺して席を立った。
「今日も旨かった」
おじさんは最後にそう言い残すと、洋介にくるりと背を向けて店を出る。
「……変な人」
洋介はしみじみ呟き、レジにお金を戻してから席の食器を片付けた。
【8】
そして慌ただしい一日が終わり、深夜。食堂をすっかり片付けてモップを床にかけ終えた洋介は、前触れも無くマルコに呼び出されて首を傾げる。
「マルコさん、話って何ですか?」
「いいか、よく聞け洋介。暫く店を休むんだ。理由は聞くな」
「どうして? 何ですか藪から棒に? 僕、また何かやっちゃいました?」
マルコは例の思いつめた顔で、洋介の両肩に手をかけて頭を振った。
「違う。そうじゃない。お前は良くやってくれている」
「ならどうして……」
「理由は聞くなと言ったろ。今は言えん。時が経って言えるかも分からん」
洋介がマルコの話を聞きながら、この世の終わりのような顔でいやいやと首を振る姿を、厨房の片隅で冬美が腕組みして溜め息がちに見つめている。
「ともかく、お前のためなんだ。それだけは信じてくれ」
「でも俺、お金稼げないと、生活が……」
「分かってるさ。今月の給料は前払いで全額渡す。今月はこれっきり、来る必要は無い。いや……来てはいけない。潮目が変われば、また連絡するさ」
洋介の脳裏に、おじさんやケンちゃんや、他の常連さんやら、お客さんの顔が次々に浮かんで涙が溢れた。マルコが大きな手で洋介の頬を包み込む。
「マルコさん。俺、俺……ここで働くのが好きで、だから……」
「分かっているとも。男が泣くな。きっとまた会える。今日は帰りなさい」
泣きじゃくる洋介にマルコが優しく諭し、力強く彼を抱きしめる。
「……我が息子よ」
マルコが小さく呟いて洋介を放すと、冬美が歩み寄って封筒を手渡した。
「ふ、冬美さん……」
「元気でね、洋ちゃん。風邪引くんじゃないよ」
洋介が分厚い封筒を両手でくちゃくちゃに握り潰すと、冬美が恰幅の良い身体でがっしりと、洋介の身体を抱き止めた。洋介は声を上げて泣いた。
マルコと冬美に見送られ、洋介は名残惜しそうに振り返りつつ店の裏口を歩み出る。外はすっかり夜の帳に包まれ、空気はしんと冷え切っていた。
「木浦洋介くん……だね」
「誰ッ!?」
ドアを閉じた途端に聞こえた自分を呼び止める声に、洋介はコートの襟を深く閉ざして身を強張らせ、警戒心を湛えた顔で周囲を見回す。ひょろ長い男とガタイの良い男、二人組の中年男が店の裏口で出待ちをしていた。
「あんたたち、一体何なん……」
洋介が反射的に大声で問い質そうとすると、二人組の男たちは洋介の許にぬるりと歩み寄りつつ、手に手にチョコレート色の革手帳を握り、ぱくりと縦二つに開いて洋介に掲げた。上段に顔写真付きのIDカード、下段は金色に煌めく五角の旭日章。学の無い洋介だって、それが警察手帳と理解できた。
「け、警察? 俺、いや僕、捕まるような悪いことは何も……」
「落ち着きたまえ」
「別に君を捕まえようってわけじゃない。話が聞きたいだけだ」
「話、って、何を……」
洋介は警戒の眼差しを解かず、一歩後退る。昼休みの生徒指導室の説教が脳裏に蘇る。生活費を稼ぐために子供が働くのは、そんなに悪い事なのか?
「待って、マルコさんたちは何も悪くない。働いてるのは僕が勝手に……」
洋介がその場に凍り付き、狼狽して弁解の言葉を捲し立てると、二人組は呆れたように顔を見合わせて溜め息をつき、洋介の目の前に並び立った。
「だから落ち着きたまえ。いいかい? 落ち着きたまえ」
「勝手に早とちりをしないで、一先ず俺たちの話を聞いてくれないか」
ガタイの良い男が、洋介の肩を叩いて言い聞かせる。近くで見ると人相が良いとは言えない顔つきだ。隣のひょろ長い男も似たようなものだった。
「おじさんたち、刑事か何か? 殺人事件か何かの捜査?」
「我々の事情聴取も一種の捜査に違いはないが、我々は刑事とは違う」
「じゃ、じゃあ何?」
「俺たちは秘密警察の特別捜査官さ。普通の刑事たちの手に余る危険人物やややこしい事件を、痕跡を残さず目立たないように追いかけるのが仕事だ」
二人が声を殺して淡々と語る様に、洋介も次第に落ち着きを取り戻す。
「何だか胡散臭いなぁ。てことは、これも秘密捜査ってこと?」
「その通りだ。我々は世の中の至る所に忍者のように浸透し、目立たぬよう社会を観察している。そうして信用できそうな者を選び、声をかけるのだ」
「要は協力者作りってことさ。誰にでもお願いできる仕事じゃない」
選ばれたと言われると、何だか悪い気はしない。洋介はガタイの良い男とひょろ長い男と交互に見ながら、頻りに両目を瞬いて気持ちを昂らせた。
「きょ、協力者? 僕が? 秘密警察の? 本当に僕で大丈夫なの?」
「君の熱心な仕事ぶりは陰ながら拝見させてもらっているとも。朝早くから新聞配達、昼は学校、夜はウェイター。飲んだくれの父親を抱えて、学業と仕事の板挟みに合いながらも、どちらも投げ出すことなく頑張っている」
「自分の人生と真剣に向き合って生きている君だからこそ、信用に値する」
二人に冷静沈着な言葉で評され、洋介の目に熱い涙が滲む。自分の孤独に戦い続けた日々は、無駄ではなかった。見てくれている人がいたのだ。
「……貢献したくはないか? 社会の役に立ちたいとは、思わないかね?」
「君ならできる。いや、これは君にしか頼めない仕事なんだ」
「……我々の仲間に、なってはくれまいか?」
洋介は熱に浮かされたような眼差しで、息を呑むと静かに頷いた。
【9】
深夜営業のジャズ喫茶。大人びた雰囲気が充満する店内に足を踏み入れた洋介は、自分を先導する秘密警察の二人の背中を眺めつつ、自分も他人から頼られるような、格好いい大人の仲間入りをしたような気分になった。
噎せ返るようなコーヒーの香ばしい匂いにくらくらとしつつ、螺旋階段を上がり二階へ至る。暖房の効いた店内で、洋介はコートとマフラーを外すか外すまいか悩みながら歩き、暑さで半ば朦朧としつつ勧められた席に座る。
「何が飲みたい。好きな物を奢ろう、我々は捜査費が潤沢なものでね」
「おっと、そうは言ってもアルコール入りの飲み物はダメだぞ、未成年」
先ほどとは打って変わって、二人の軽妙な語り口に洋介が相好を崩す。
「やっぱり、バレてましたか」
「君の通っている学校の名前まで言えるぞ。確か新宮ヶ崎中学校だったね」
「げっ、そこまで知ってんのかよ……」
「当然さ。俺たちの情報収集力を侮ってもらっちゃ困るよ」
洋介はスンと表情を引き締めて、ひょろ長い男からメニュー表を受け取り目を走らせる。ビビるな、俺。大人の男は恐れず、ドンと構えるもんだ。
「俺、社会の役に立ちたいです。俺、頼られる大人の男になりたいんです」
「いい答えだな。期待させてもらうとしよう」
「おっと、本題の前に注文を決めるとしようか。今夜は長くなりそうだ」
「あの、俺コーヒー飲んだことないんで、良く分からないんですが」
洋介が真剣な顔で言うと、対面する二人はガクリと拍子抜けした。
「仕事上がりで疲れてるだろうから、甘いウィンナーコーヒーにしようか」
「ウィンナー? コーヒーにウィンナーですか?」
「いや、そのウィンナーじゃないんだけど……あー面倒臭ぇな」
「うっす、何だか良く分かりませんが、頂きます!」
「では私は、カフェ・ロワイヤルでも頂こうか」
「職務中だろ?」
「そう堅いことを言うな。うるさい上司は見ちゃおらんさ」
「酔っ払って口を滑らせるなよ。俺はターキッシュでも飲むかな」
「決まりだな」
三人分の冷や水を持ってきたウェイトレスに、ひょろ長い男が注文を頼み下がるまで見届ける。秘密警察の二人は、ほぼ同時に紙巻きタバコの包装を取り出した。ひょろ長い男はパーラメント、ガタイの良い男はマルボロだ。
「それでは話を始めよう。我々は、最近ある男を追っている」
「重大犯罪に関わる凶悪犯だが、用心深い奴でね。中々尻尾を出さない」
「そうなんですか。で、どんな男なんですか」
「ああ。これを見てほしい」
ガタイの良い男が、ブルゾンのジッパーを引き開けて懐を探ると、数枚の写真を取り出し伏せたままテーブルに置いて、洋介の手元に押し遣った。
「余り見せびらかさないようにね」
「分かりました」
洋介は冷や水を半分ほど呷って頷くと、テキサス・ホールデムで配られた持ち札を検めるように、周囲の目線に注意しつつ写真を縁から捲って見た。
「お……おじさん」
洋介は写真に映っていた見覚えのある顔に、余りにも意外な人物の写真に驚いて呟き、慎重さもかなぐり捨てて写真をベロリと捲り、まじまじ見た。
「知っているのか?」
「知ってるも何も……『獅子利亜々乃』に良く来る、常連さんだよ」
洋介は手にした写真を捲っては目を凝らし、呻くように言った。それらは遠くから隠し撮りした物を引き延ばし、一部を切り抜いたように画質の粗い写真ばかりだった。店で洋介と語る時には見せたことのない、切れ味の鋭い刃物のような冷たい表情で、どの写真も顔が正面以外の所を向いている。
「お、おじさんが秘密警察に追われてるなんて、一体どういうこと?」
洋介は頭を振りつつ、ガタイの良い男に写真を返しながら問う。その横でひょろ長い男が、双眸を細めつつタバコの灰を落とし、紫煙を吐き出した。
「君は先ほどから、彼のことをおじさんと呼ぶね。もしかして親戚かい?」
ひょろ長い男が口角を歪めて指摘すると、洋介はぎくりと身を強張らせて両手を振り、ついでに頭もぶんぶんと振って全身で否定した。
「まさか。おじさんは赤の他人だよ。知らないけど馴れ馴れしい、意味深なことを言って人を煙に巻くのが好きな、変なおじさん。嫌いじゃないけど」
「彼とは親しいのかい?」
「うーんとまあ、親しいか親しくないかと言えば、親しくなくはないかな」
「どっちだよ」
ガタイの良い男にツッコまれ、洋介は困ったように唸って腕組みする。
「何か良く分かんないけど、人を見透かしたような人でさ。感じ悪いなって思う時も結構あるけど、何だかんだ来るたびにお小遣いくれるし……」
お小遣い、の単語を聞いた瞬間、二人の秘密警察は眉間の皺を深めた。
「君ね、お説教する柄じゃないんだが。人を簡単に信じちゃいけないぞ」
ひょろ長い男が、顔を逸らして諭すように言い、紫煙をもくもく吐いた。
「そんなこと言われても。俺、人を見る目は結構あると思うんだけどな」
洋介が根拠のない自信を漂わせてそう言うと、二人の男は溜め息をついて互いに目を見合わせ、同時にタバコの火を揉み消すと、洋介に向き直る。
「残念だが、木浦洋介くん。我々は今から、君の見る目が曇っていたことを証明する真実を、君に知らせないといけない。落ち着いて良く聞くんだ」
ガタイのいい男が洋介の目を見てそう言うと、洋介は思わずたじろいだ。
【10】
洋介は驚愕の余り、言葉を失った。ウェイトレスが生クリームを浮かべたウィンナーコーヒーを洋介の目の前に置き、ひょろ長い男の目の前に置いたカップの縁にかけたスプーンの、上に乗せた角砂糖に染みた酒に火を点けてゆっくりと燃え上がり、注文を確かめて螺旋階段を下りていくまで、洋介は沈黙していた。ガタイの良い男が銅の柄杓からカップに、粉末コーヒーから煮出したターキッシュコーヒーを注ぎ、ひょろ長い男が角砂糖の燃えたのを確認してカフェ・ロワイヤルをスプーンで攪拌する。洋介は震えていた。
「そんな……おじさんが、子供を攫って臓器を売り捌く人身売買マフィアの殺し屋だなんて……信じられない……きっと何かの間違いですよ!」
洋介が感情のままにテーブルを叩きつけると、秘密警察の二人は困り顔で唸り声を上げ、互いに顔を見合わせると、洋介を責めるような目で見た。
「用心したまえ、木浦くん。壁に耳あり障子に目あり、マフィアの黒い手は縦横無尽にスパイ網を張り巡らせている。この瞬間にも、我々の秘密会議を誰かが盗み聞きしている可能性がある。連中に隙を見せてはいかんのだ」
ひょろ長い男の淡々と冷静沈着な言葉に、洋介は何も言えずに沈黙する。
「まあ、コーヒーでも飲んで落ち着こうじゃないか」
ガタイの良い男がコーヒーカップにねっとりと蜂蜜を注ぎ、かき混ぜつつ洋介をチラリと見て言った。洋介は肩を落として頷き、コーヒーに浮かんだクリームをスプーンで掬って舐めると、熱いコーヒーを喉に流し込んだ。
「君は目を付けられていたんだよ。恐らく次の誘拐の目標だった」
ひょろ長い男はパーラメントを咥えて火を点け、事も無げにそう言った。
「よくある手口さ。一気に距離を詰めたら怪しまれるから、面倒でも言葉を交わして、徐々に時間をかけて慣らせるんだ。親しみ易い人だと勘違いさせ警戒心を鈍らせるんだな。小遣いでも握らせれば、子供は簡単に騙される」
ガタイの良い男の身振りを交えた説明に、ひょろ長い男は何度も頷いては紫煙を燻らせ、カップを手にしてコーヒーを音もなく嚥下していく。
「そうしてすっかり油断させたところで、誘い出して車に拉致監禁し……」
パチン。ガタイの良い男が、安ライターの火打石を擦って火を点ける音で合いの手を入れ、マルボロの紫煙をふうと吐いて椅子の背にもたれる。
「一丁上がりってね。どうだ木浦くん、恐ろしいだろ。黒社会のやり口は」
「そ、そんな……僕はまだ、信じられませんよ……」
「分かるよ。こんな現実味の無い話、直ぐに信じろったって無理さ」
「そして、信じる必要も無い。我々は君に必要な情報を提供するだけだ」
洋介は二人に不意に突き離され、途方に暮れた顔でコーヒーを啜った。
「……俺に、どうしろって言うんですか」
「取り合えず、君は危険から身を守らねばならない。最優先事項だ」
「そんなこと言われても、どうすればいいんですか!? 俺は底辺暮らしの中学生なんですよ! もしマフィアが家に押し入って来たらあっという間に攫われちゃいますよ! 俺、喧嘩だって弱いし、銃も持っていないし……」
半泣きで捲し立てる洋介の言葉に、二人の秘密警官が目を見合わせる。
「……銃が欲しいのかね?」
「へぇッ?」
洋介は半笑いのようにぽかんと口を開けて、生返事を返した。
「……銃が必要かと、聞いているんだよ。木浦くん」
「おじさんたち、どういう……一体、何を言ってるんですか?」
「警察は四六時中、君を守っていられるわけじゃあない。残念だがね」
「全くだ。法治国家の敗北だな」
ひょろ長い男はそう相槌を返してタバコを揉み消すと、片手を上着の懐のポケットに差し入れた。洋介は背筋を氷柱で刺し貫かれたように痙攣した。
何か、嫌な予感がする。このままここに居てはいけない予感がする。
ひょろ長い男は、懐から何かを取り出した。それは黒い合成繊維で出来た小袋で、口から縦長の黒い合成樹脂のパネルと、その周囲を取り巻く銀色の金属光沢を放つ物体が見えた。三つ折り財布のように小さな物体だった。
「君を信用して、これを預けよう。弾が入っているから気を付けたまえ」
ごとりと、サイズから想像できないほど重たい音を立て、ひょろ長い男はその物体をテーブルに、無造作に置いた。それは三つ折り財布などではなくポケットホルスターに収まったステンレススチール製の超小型拳銃だった。
ヤバい、ヤバい、ヤバい。何か途轍もなくマズい状況な気がする。洋介の心の中で危険信号が瞬いていたが、洋介の中に棲む力への欲望……恐怖心を制したい渇望、それに男の子の好奇心と冒険心とが、彼にそれを握らせた。
伝説の故地に封じられし聖剣を抜くように、洋介は小さなホルスターから22口径のノートン・ブディショウスキーTP70自動拳銃を引き抜いた。
「弾は七発入っている。遊底の端にあるレバーが安全装置だ。赤点が見える状態で引き金を引けば弾が出る。最初の一発だけ引き金が重く、二発目から軽く引ける。威力は身を守れる最低限度。ズボンか上着のポケットあたりに隠し持ち、いざという時はパッと抜いて迷わず撃て。確り狙う銃じゃないが立ち話の間合いで銃口を向けて撃ちまくれば、一発か二発は当たるだろう」
洋介は笑えるぐらいガクガクに手を震わせ、ひょろ長い男の丁寧な説明も殆ど耳に入らず、銃のグリップの底から弾倉を引き出す。金色の筒に鉛色の弾頭を装着した豆粒のような実包が装填されていた。どう見ても本物だ。
「引き金には迂闊に指をかけんようにな、木浦くん。そいつの弾は頭の骨を突き破って脳まで届くぐらいの威力はある。暴発すると痛いじゃ済まんぞ」
ガタイの良い男が、わざとらしく周囲を見渡してから身を乗り出し、口に手を当てて声を潜めながら洋介に告げると、洋介は蒼褪めた顔で銃に弾倉を押し戻し、ポケットホルスターに仕舞って握り込むと、二人の前に掲げた。
「何で、俺にこんなものを……これで俺におじさんと……人身売買マフィアの殺し屋と戦えって言うんですか? 無理ですよ……殺されちゃいますよ!」
「勘違いするな。君は戦う必要は無い。それは単に身を守るための物だ」
ひょろ長い男は、コーヒーを悠然と飲み下してピシャリとそう断言した。
「落ち着け、木浦くん。君がヤツと出会ったら俺たちに連絡して、願わくば俺たちが到着するまで時間を稼げればそれでいいんだ。積極的に戦うようなリスクを君が犯す必要はどこにもないんだ。だが万が一のことはあるだろ」
ガタイの良い男が洋介を安心させるような笑顔を浮かべ、両手を伸ばして拳銃ごと洋介の手を両手で包み込み、洋介の目を見て滾々と諭した。
「戦う必要は無い……身を守る……連絡……時間を稼ぐ……」
「そう、そうだ。俺たちの連絡先を教えておく。携帯は持っているかい?」
「……持ってません……」
ひょろ長い男がガタイの良い男と目を見合わせ、上着の懐から昔懐かしい巾着袋を取り出して、何も言わず洋介の眼前のテーブルに差し出す。洋介が袋の紐を緩めて中身を空けると、ストレート形状の携帯電話が入っていた。
「プリペイドSIM入りの電話だ。本当に必要な時だけ電話を掛けろ」
「そういえば木浦くん、携帯電話の使い方は分かるかい?」
「……分かりません」
「ここに1、2、3と三つの数字を書いたボタンがあるだろ。1のボタンに俺たちの電話に繋がる番号が登録してある。君は必要な時に1を押すだけでいいんだ。ボタンを押して暫く待てば、勝手に番号に繋がって電話できる」
「……分かりました」
洋介はガチガチと歯を噛み鳴らし、温くなったコーヒーを喉に流し込む。
「よし。君は我々の協力者だ。彼を見つけたら連絡してほしい。できる限り正確な位置と合わせてな。君が居所を知っていても、我々に伝わらなければ何の意味もない。助けに行けないということだ。努々気を付けたまえ」
「重ねて言っておくが、武器があるからといってヤツと直接戦おうだなんて思うなよ。ヤツは武器を隠し持っているし、戦い慣れている。弾が当たれば倒せるのと、倒せる状況まで持っていけるかは別問題だ。力を過信するな」
「……分かりました」
【11】
ジャズ喫茶を後にした洋介は、それからどう家に帰ったか覚えていない。
「おじさん……マフィアの殺し屋って、本当なのかな……?」
酔いどれた父親の秀康が大鼾を奏でる四畳半の寝床、薄汚れた煎餅布団に包まって自問する洋介が身を震わせるのは、寒さだけが原因ではない。今や彼の懐には、かつて熱望し夢にまで見た銃が現実の物として収まっていた。
なのに、少しも嬉しくなかった。自分もまた悪に付け狙われる弱い存在に過ぎず、銃を持ってようやくスタートライン、対等とは程遠い、それ程まで自分が頼りない存在だという事実を、改めてまざまざと実感したからだ。
脳裏に浮かぶのは、彼を見守るマルコの意味深な言葉。あれはもしかしてそういう意味だったのか、いやそうに違いない。洋介はマルコの思い遣りの深さが心に染みて、布団に頭を突っ込んで声を押し殺して涙を流した。
泣いても笑っても、朝は同じようにやって来る。洋介は呆然と魂の抜けた表情でもぞもぞと寝床を抜け出すと、寝間着のポケットに挟まった固形物を手探っておもむろに抜き出した。銀色の拳銃がギラリと四畳半に煌めいた。
洋介は自分でも驚くほどごく自然に、その銃を父親の頭に照準していた。
お前が死ねば。俺は楽になれる。
引き金を引いた。重たい引き金が連結した逆鉤を動かし、薬室に装填した初弾の起縁を叩きつけんと、撃鉄を起こしていく。引き金を絞る人差し指が逡巡するように途中で止められ、バネの抵抗に負けるように押し戻された。
殺しては意味がない。いや殺すほどの価値も無い。単純に弾が勿体ない。
「……また今度な」
洋介はゴミ溜めに落ちたポケットホルスターを拾い上げ、銃を押し戻して懐に突っ込むと、ジャンパーを羽織って家を出た。自転車に跨り、走る。
その日から洋介の日常は、今までとは比較にならないほど緊張感に満ちたものとなった。洋介は決して大人の社会の法律に詳しくないが、少なくとも拳銃を隠し持っていてはいけないことぐらいは理解できる。
「持ち物検査をするぞ! 鞄の中身の物を、全部机の上に出すように!」
中学校で頻繁に行われる持ち物検査は恐怖そのものだった。洋介は拳銃のポケットホルスターを制服の上着やズボンのポケットに押し込み、何食わぬ顔を装って鞄の中身を机に出し、周囲の生徒たちが持ち物を没収される様を眺めねばならない時間は、ストレスが最高潮に達して気が狂いそうだった。
「洋ちゃん、お前なんか最近変じゃね?」
そんな日常が半月ほど続いたある日、学校からの帰り道、いつものように並んで歩く静雄が、洋介の肩を小突くと欠けた前歯を剥き出して問うた。
「な、何が?」
洋介がギクリと身を強張らせると、静雄はゲラゲラ笑って肩を叩いた。
「隠し事が下手なヤツだな。水臭いだろ、悩み事があるなら言ってみろよ」
実は四六時中、拳銃を持ち歩いているんだなどと、言えるわけがない。
「俺が夜に飲み屋で働いてたの、静雄も知ってるだろう?」
「あーね、確かイタ飯屋か何かだったよな?」
洋介は大きく頷き、マルコと冬美の顔を思い出して奥歯を噛み締めた。
「……実は二週間ぐらい前の話なんだけど、暫く来るなって言われたんだ」
「え? 何で?」
洋介は暫し視線を彷徨わせてから、静雄をキッと睨むように見据えた。
「俺だって分かんない。理由は聞くなって言われてるんだ。一か月の給料を先に渡すから、連絡するまで来るなって。これからどうすりゃいいんだ!」
「でもさ洋ちゃん、新聞配達の仕事は続けてるんだろ?」
「あるけど、足りないんだ。お金があればあるだけ親父が使っちゃうから」
「生活……保護? とかあるらしいじゃん。いっそそれ貰ったら?」
洋介は周囲の雑踏を注意深く見渡し、静雄の耳元に口を寄せる。
「実はもう貰ってるんだ。親父、働いてないから。役所の人を丸め込むのは得意みたい、いつも家で見てて感心するよ。けど家にはびた一文入れないし金遣いが壊滅的に下手だから、あってもなくても同じなんだよ、生活保護」
「すっげーなそれ本気で言ってんの? 逆に何にそんな金使うんだよ」
「お酒にカラオケ、ノミ屋の博奕も大好きだし、遊郭だって行く。大金が入れば一気に金遣いが荒くなるし、何日か帰ってこない日もザラにある」
「何つーか模範的な屑人間だな、お前の親父。って悪い、口が滑った」
「いいよ別に、気にすんな。事実だし」
慌てて謝る静雄に、洋介は手をひらひらさせて苦笑いした。
「しかしあの店で働くの、俺結構好きだったんだけど。お呼びがかかるのを待つのもアレだし、またヤクザに新しい仕事、紹介してもらおっかなー」
「……洋介」
静雄にしてはいつになく真剣な口ぶりに、洋介が真顔で振り返る。
「お前、ヤクザ頼るのやめろよ。ヤツら、お前みたいなのを何人も働かせて給料ピンハネした金で、楽に生きてるクソ連中だぞ。分かってるのか?」
「ピンハネ? 何だよそりゃ」
「洋介お前馬鹿野郎、まさか知らねえで手ぇ貸してたのか? まさか連中がお情けでお前に仕事を紹介してたとでも思ってんのか? ヤツらが紹介した仕事ってのは、給料から紹介料が差っ引かれてお前の懐に入るんだ。お前は働いた給料を完全に貰ってないんだぞ。それがクソ野郎の商売なんだぞ」
いつもの浮ついた雰囲気からは想像できない熱弁を振るう静雄に、洋介は息を呑んでぽかんと話を聞いた。暫くたって頭を振り、溜め息をこぼす。
「……静雄、お前もしかしてヤクザ嫌いか」
「嫌いかだって? 当たり前だろ、大嫌いだ! うちもあのクソ野郎どもにみかじめ払ってるけどよ、親父もお袋も陰じゃクソミソだぜ。上納を拒んで大事な機械を壊されちゃ敵わねえから金は払うけど、偉そうにしてるだけで本当に助けてほしい時は何もしてくれない。何が任侠だ一昨日きやがれ!」
洋介は静雄との余りの立場の……世界観の隔たりに暫し言葉を失った。
「……なら、俺がヤクザの仕事辞めたら、お前んちで雇ってくれるか?」
「そりゃ無理だ。うちだってカツカツだし、他だって似たようなもんだろ」
「だったら物盗んで売るか、覚醒剤で稼ぐか。どっちもまともじゃないな」
「何でちゃんとした仕事でコツコツ稼ぐんじゃなくて、そういう変な方向に行きたがるんだよ! 洋ちゃん、いくら何でもこの街に染まり過ぎだぞ!」
「だから、ちゃんとした仕事でコツコツ稼いでるじゃねーか!」
大声で喚いて肩に掴みかかる静雄の手を、洋介が手荒く振り払う。
「俺は洋ちゃんのためを思って言ってるんだぞ! このままずるずる続くと抜け出せなくなるぞ! あの蛆虫どもの養分に一生なり続けたいのか!?」
「そう言うなら、静雄が助けてくれよ!」
洋介は反射的にズボンのポケットを手探り、拳銃のグリップを握った。
「ああ、確かにヤクザは屑さ! 今の静雄の話……俺の給料から天引きして甘い汁を啜ってるのが事実だったら、確かに俺だって頭に来るさ!」
「じゃあ何で!?」
「屑だろうがドン底の俺には唯一の味方だ! 現に仕事をくれてるんだ!」
洋介は歯軋りして、冷たいステンレススチールの塊を痛いほど握り込む。
「洋介、お前がそうやって頼るから、あの屑どもが肥え太るんだぞ!」
「だったら何だ!? 誰か助けてくれよ! ヤクザじゃない真っ当な誰かが手を差し伸べてくれよ! 現実は誰も助けちゃくれない! 真っ当な連中は偉そうに指図するだけで本当に助けてほしい時は何もしてくれない!」
洋介の脳裏に、生徒指導室で管を巻く教師の訳知り顔が浮かび、目の前の静雄の表情にダブった。このまま怒りに任せて銃を抜き、静雄の顔めがけて弾を乱射し、顔面を滅茶苦茶に挽き潰してやりたい衝動に駆られた。
洋介は自制した。全身を震わせ、顔を俯いて歯茎から血が出そうなぐらい歯を噛み締め、右手を静かにポケットから出し、双眸に浮かぶ涙を拭った。
「洋ちゃん……俺たち、友達だろ?」
「友達さ。友達だけど分かり合えないことだってある!」
「洋ちゃんッ!」
「何で生きてるだけでこんなに苦しいんだ。生まれて来なきゃ良かった!」
「よ……」
洋介は踵を返すと、背後で静雄が呼び止める声も聞かず、駆け出した。
【12】
宵の口。洋介は国境線の向こうの〇番街に戻る気にもなれず、新宮ヶ崎の街を当てもなく、ぶらぶらとほっつき歩いていた。家には帰りたくない。
「静雄……」
洋介の心に喧嘩別れの後悔が浮かぶが、慌てて頭を振る。譲れないことの一つや二つ、俺にだってある。静雄にも静雄なりの立場があり物の考え方があるだろうが、静雄がクソ先公と同じことを言ったことはショックだった。
「一人でだって、やっていくさ」
洋介が片手をポケットに突っ込んでそう嘯き、前を向き直ると、見慣れた人影が視界に入って目を瞬いた。粗末な服、よろついて覚束ない足取り。
「親父……?」
秀康が国境線の外まで出て来るのは珍しい。要するに、金余りの時だ。
「けど、最近は博奕する金も無かったはずなのに。一体どこから……?」
洋介の脳裏に嫌な予感が過った。もしや、また金の在り処がバレたのか?
「親父……」
消え入りそうな声で呟き、遠ざかる秀康の背中を一歩、二歩と追いかけて足を止め、崩れ落ちそうに膝を震わせる。秀康は人波に消えていく。
「やってらんねえ……」
追い縋り、肩を掴んで振り向かせ、銃弾をぶち込むことすら叶わない。
「おや。もしや、少年か。こんな時間にこんな所で会うとは奇遇だな」
耳馴染みのある憎めない声に、洋介が吸い寄せられるように振り向く。
「……おじさん……!」
「どうした少年、酷い顔だぞ。友達と酷い喧嘩でもしたのか?」
いつもの黒革のピーコートに、いつものダサい眼鏡。びっくりするぐらい代り映えしない風貌。本当にこの男は、見てきたように知った口を利く。
「この辺もそろそろ危ない時間だ。子供は家に帰った方がいいぞ」
「……うるせえよ」
「やれやれ、本当に聞く耳を持たないな。いつものことだが」
洋介は手の甲で両目に滲んだ涙を拭うと、おじさんに歩み寄りまじまじと観察した。秘密警察に見せられた写真を思い出し、脳内で照合する。写真に映っていた鋭い表情とは印象の異なる、いつものとぼけた野良犬の顔だ。
「まあ、子供にはそういう時期も必要だろう。お邪魔だったら退散するよ」
おじさんはピーコートの両ポケットに手を突っ込み、風にそよぐ洗濯物を思わせる自由な足取りで、ふらりと洋介の隣を通り過ぎる。洋介が伸ばした片手が、おじさんの袖を引いた。洋介は片手をポケットに突っ込んでいた。
「金ならあるんだ。せっかく会ったし、今夜はどこかで飯でも食わね?」
「その申し出を引き受けたいのは、山々の山下さんなんだがねぇ」
おじさんは洋介の腕を視点にくるりと身を反転させ、溜め息を吐いた。
「いいか、少年。冷静に考えてみたまえよ。端から見れば、おじさんと君は他人同士の子供と大人だ。それは店の店員と客という関係性が前提にあって初めて、同じ空間と時間を共有することが許されるのだ。分かるかね?」
「おじさん、いつものことながら話が回りくどくて分かり難いよ!」
洋介がちょいちょいと袖を引き、おじさんを先導して歩き出す。
「待ちたまえ。他人の大人と子供……この場合は君とおじさん、この二人が並んで歩いているだけで、見方によっては略取誘拐の逮捕要件だ。万一にも通報されればおじさんの手が後ろに回る。おじさんの立場も考えたまえよ」
これは欺瞞だ。他人を思いやる振りをして、食いつく隙を見せている。
「うーるっさいなぁぐちぐちぐちぐち。そんな世間の網の目みたいに細かい法律なんて俺が知るかよ! おじさん、いい年して警察が怖いのか!?」
「ああ怖いとも。古巣だからね。連中のやり口は良く知ってるつもりさ」
「古巣?」
「昔は警官だった。今は辞めて、気楽な探偵暮らしさ」
おじさんは諦めたように洋介のリードに従って、袖を引かれて歩みながら乾いた失笑と共にそう言った。洋介が喉の奥で唸っておじさんを見上げる。
「探偵? また胡散臭い職業してるね。犯罪者予備軍の間違いじゃない?」
「随分な言われ様だな。と反論してはみたたたものの……だな。素行調査に浮気調査、犬猫やら家出人の行方なんかをこそこそ嗅ぎ回るのが仕事だ」
「それ、楽しいの?」
「楽しいかどうかは知らないが、色んな人間に出会えて楽しめるぞ!」
「色んな人間? どんな?」
「主に余り友達になりたくない類の、性格の悪い連中が選り取り見取りだ」
「うわー、羨ましくねー!」
「少年とて接客業の端くれだ、おじさんの言いたいことが分かるだろ?」
「分かってるから羨ましくないんだろ! 何で好き好んでそんな仕事を!」
「さあ。社会の荒波に流し流され身を任せるうち、いつの間にやらねぇ」
おじさんは肩を竦め、答えを濁すようにそう嘯いた。
「ところで少年、私を一体どこに連れて行くつもりなんだ? 言っておくが持ち合わせが少ないんだ、一晩数十万の女王様を紹介されても困るぞ!」
「俺をポン引き扱いすんじゃねーよ!」
洋介はいつもの繁華街に足を向けると、うらぶれたバックヤードへと続く裏路地でなく、照明がキラキラと輝く表通りへと、おじさんを引っ張る。
「何だ、いつもの店か。給料を貰うだけじゃなく、金まで落とすのかい?」
「ちげーよ! いいから黙ってついて来いって!」
しっとりとライトアップされた洋風大衆酒場『獅子利亜々乃』を、洋介は寂しげな、それでいて少し誇らしげな目で見ながら通り過ぎる。大勢の人で賑わう繁華街、夜空を彩る星座のように、飲食店の並ぶ通りの頭上を沢山の電飾がツル植物じみて張り巡らされ、クリスマス飾りが二人を照らし出す。
「まさか、ここか?」
「うん。ここ、一度行ってみたかったんだ!」
「……高いぞ?」
「金ならあるって言ってるだろ!」
ステーキハウスの前で立ち止まり、牛のシルエットを描いた黒板を模した店の看板を指差す洋介に、ぐいぐい袖を引かれるおじさんが溜め息をつく。
「……仕方ない。おじとおい、そういう設定で行こうか」
「そう来なくっちゃ」
【13】
湯気立つサーロインステーキを前に、洋介が目を輝かせて歓声を上げる。
「うわー、美味そーう!」
「脂の多い肉は若いのの特権だね。おじさんの年になると食えないよ」
おじさんは苦笑を浮かべ、自分の目の前のヒレステーキを一瞥した。
「酒は飲まないの?」
二人分のグラスと、傍らにポールジローのボトル。ワイン用のブドウから造られた、黄金色のスパークリンググレープジュース。おじさんの奢りだ。
「今日は止めておこう」
洋介がおじさんの目を見て訊くと、おじさんは静かに答えた。二人の間に暫し沈黙が走り、鉄板の上で肉がじゅうじゅう焼ける音だけが聴こえる。
「……肉が冷めてしまう。食べないかね」
「そうだね」
何かを察したような、それでいて不用意にこちらの事情を詮索してこないおじさんに、洋介はどうにもやり辛いものを感じながら、食欲を優先した。
「そっちの肉は固そうだね。少し焼き過ぎてるよ」
「腕のある職人に焼かせれば、じっくり火を通した方が美味しくなるんだ」
「嘘臭ぇ話だなー」
「最終的には味覚は好き好きだからね。ヒレに歯応えがあるのは確かだよ」
おじさんはどうでも良さそうに、分厚いステーキを切り分けると咀嚼して何度も頷いた。洋介は使い慣れないフォーク&ナイフに悪戦苦闘する。
「……おじさんさぁ」
「何だい」
「……どこまで知ってるの、俺のこと」
「何が言いたい?」
「とぼけないでよ」
「参ったな。今回はおじさんが詮索される側、というわけか」
おじさんはグラスを手にしてゆるりと揺らし、ノンアルコールジュースを口に含んで静かに頷いた。洋介もジュースを口にして、顔を顰めた。
「……何か想像してた味と違うな。全然甘くないじゃん」
「薄味なぐらいがが丁度いい。濃い味付けもそれは一興だが、慣れ過ぎると分別が付かなくなり……やがて元々の味も分からなくなってしまうからね」
「またいつもの訳の分からないお説教で、俺を煙に巻くつもり?」
「煙に巻く、か。今までおじさんの話をそういう風に捉えていたんだね」
おじさんは洋介の前にグラスを掲げ、小麦色に透いたグレープジュースを通して洋介を見た。低く唸って頭を振ると、グラスを呷って肉を食らう。
「……傲慢で独り善がりな言い方をさせてもらえれば、私はある種の示唆を君に与えているつもりだったのさ。分かり易さという名の、直截的な言葉で幾らでも言うことは出来たが、先ず単純に美しくないし、そもそも君自身が自主的に考えなければ意味が無かった。私が聞かせる話の意味をね」
「意味、あったの? 現に今だって、言ってることの半分もわかんないよ」
洋介がおじさんの所作を見て、サーロインを切り分けがつがつ食べながらどうでも良さそうに言うと、おじさんは深く深く溜め息をこぼした。
「どうやらアプローチを間違えていたらしいな。私は君を知的な男だろうと判断して、分かり易い匂わせは避けていたが。これだから他人は難しい」
「馬鹿だな、俺に何を期待してたんだ? 〇番街の貧乏なクソガキにさ」
ひた。洋介とおじさんのテーブルを中心にして、その言葉を発した瞬間に周囲の会話が一斉に停まる。不快感を表すひそひそ話が、堰を切ったように漏れ聞こえる。見ろよ、先公、静雄、現実は結局のところこんなもんだぜ。
「成る程。所得水準と知的水準が比例して、人間の価値をも決めるか。君はその種の使い古された薄っぺらで、欺瞞に満ちた信仰を真に受けるんだね」
「事実だろッ!」
「それを信じる人間にとってはそうだ。信じない人間には、一面の真実に過ぎんさ。君はそれを信じない、反骨心を持つ野良犬の側だと思っていた」
「野良犬だと?」
「他人に簡単に惑わされない、芯の強さを持った人間だということだ」
「強さだなんて!」
吐き捨てるように洋介が言うと、おじさんはヒレ肉を咀嚼しながら視線で洋介を見た。ワイリーⅩの防弾眼鏡を外し、じっくりと洋介を観察する。
「何だ、人のことをじろじろ見るんじゃねえ!」
「さっきから、少年……君は一体何に怒っているんだ?」
洋介は歯軋りすると、いてもたってもいられず食器を叩きつけた。
「その少年って呼び方やめろ! 俺には木浦洋介って名前があるんだ!」
ガバッと音を立てて立ち上がり、洋介はずんずんと歩き出す。
「どこに行くつもりだ?」
「トイレだよ! 鬱陶しいな!」
【14】
洋介は男子トイレの個室に飛び込み、胸を押さえた。激しく心臓が脈打ち予感を告げていた。携帯電話を握る左手の親指は、今まさに1番のボタンを押し込まんと鎌首をもたげている。押してしまえば、後戻りはできない。
制服の上着の裏ポケットから、ノートン拳銃を引き抜いた。弾倉を抜いて実包のあるのを確かめ、安全装置が赤色を見せているか確かめると、個室のドアに銃口を構えて引き金に指をかける。今にもぶっ放しそうなほど震える手に力を込め、重い引き金を何度か絞って予行演習する。大丈夫、行ける。
さっきまで荒ぶっていた呼吸が嘘のように、凪いだ水面のごとく収まる。
親指がボタンを押した。
「――木浦くんだね」
「はい。マフィアの殺し屋を見つけました」
「――お手柄だ。今、どこにいる?」
「商店街のグルメ通りの『ステーキハウス・メンフィス・ワイズガイ』」
「――一緒に居るのか?」
「誘い込みました。二人で食事中です。今はトイレから電話を」
「――十分でそちらに着く。暫く時間を稼いでくれたまえ」
「了解しました」
「――隅に置けない才能だな。我々は君に期待しているぞ。こうも首尾よく手際よく事を運ぶなら、君を優秀な協力者としてリストに乗せるべきだ」
「是非ともよろしくお願いします」
「――では、後でまた会おう」
電話の切断音が響く携帯電話を耳に、洋介は痴れた恍惚の笑みに包まれて通話終了のボタンを押す。携帯電話を右の懐に、拳銃を左の懐に仕舞った。
俺は求められている。俺は期待されている。もう他に何もいらない。
洋介の心は安寧に、表情は微笑に満ち足りていた。
大便器の水を流して個室を出ると、余裕を湛えた居住まいでで手洗い場に立ち鏡を見る。今まで見たことが無いくらい充実感に溢れる男が居た。
トイレのドアを跳ね開け、大股で悠然とフロアを歩む。汚物を見るような眼差しで見遣る客たちを冷笑で見渡し、おじさんの前に腰を下ろした。
「……大丈夫か?」
「何?」
「一発キメてきたような面構えだ。君の怒りの理由を勘ぐってしまうよ」
「不愉快な野郎だな」
「君は何か、取り返しのつかない一歩を踏み出そうとしているようだね」
「だったらどうしたって言うんだ?」
「別にどうもしないさ、所詮おじさんは赤の他人だ。子の躾は親の領分さ」
「親がどうした。あんなのただ子供より年を取っただけで、暴力を振るうか金を食うしか他に能がない、文鎮より価値のないゴミじゃないか」
「視点の問題だな。世の中にそう言った視点があることを否定はしないさ」
「そうやって、いつまで訳知り顔でお高く留まった台詞を吐くつもりだ?」
洋介の凶悪な笑みを湛えた挑発的な口調にも、おじさんは冷笑を絶やさずギコギコとヒレ肉を切り分けて咀嚼し、グレープジュースで喉を潤す。
「木浦洋介くん」
「気安く名前を呼ぶんじゃねえよ」
「おじさんは君のことを嫌いではないが、今の君の態度は正直好ましいとは言えないな。まるでヤクザのようだ。そんな喋り方では人に嫌われるぞ」
「調子に乗るなよ、クソ野郎。お前の方が人攫いのヤクザだろうが」
「何の話だ?」
「とぼけるんじゃねえ、調べはついてるんだ。子供を攫って臓器を売り捌く人身売買マフィアの殺し屋だろ。探偵なんて見え透いた嘘で騙されるとでも思ってるのか? 大人しく自分の罪を認めちまえばどうなんだ?」
身を乗り出して嘲笑する洋介の話を耳にして、おじさんは数回頷いた後に最後のヒレ肉をフォークで刺して口に運び、咀嚼してからジュースで流して嚥下すると、食器を静かに置いた。テーブルに肘をついて両手を組む。
「実に興味深い話だ。私の罪の何を君が知っているというのかね」
「とぼけても無駄だぞ。秘密警察から聞かされたんだ。お前ら黒社会どもの汚いやり口をな。何度も小遣いを握らされて、俺もうっかり信じかけてた」
「成る程、君はそういう風に受け取ったわけか。その表現は心外だがね」
「同じ手口で、何人も攫って血祭りに挙げてきたんだろうが!」
「君は重大な勘違いをしているぞ。陰謀論に当てられておかしくなってる」
「俺は間違ってなんかいない!」
「重大な間違いを無自覚に犯している者はみなそう言うさ」
洋介は議論がかったるくなり、血走った目で歯を剥いて懐を手探った。
「そのいけ好かねえ余裕綽綽な面、今に震え上がらせてやるぜ!」
おじさんはワイリーⅩの眼鏡を颯爽とかけて、ピーコートの第二ボタンを外しながら平手を突き出した。洋介に理性で静止を求める最終警告じみて。
「それ以上は止めておけ、少年。そろそろ怒るぞ」
洋介はバネ仕掛けに弾かれたように、ノートン拳銃を閃かせた。
「こいつが見えねえのかッ――」
おじさんは瞬き一つせず、洋介の動きを凝視し、テーブルに突き出された拳銃を洋介の手ごと力強く握りしめると、斜め上に振り上げた。
「手前ッ――」
洋介は構わず、重たい引き金を力に任せて弾いた。銃声。予想よりずっと大きな、鼓膜が破れんばかりの轟音に一瞬、たじろぐ。しかし一瞬。洋介はおじさんを睨みつけ、引き金を引く。弾は出ない。引く。弾は出ない。
「何でだ――」
顔面に一撃。痛みが走り、血が垂れる。
「何しやがる!」
手から銃が離れた。おじさんは奇術じみた身動きでノートン拳銃の遊底を引いて空薬莢を排出し、銃を奪い返そうと身を乗り出す洋介の胸板を左手で突き放し、右手の銃は顔の前で傾けるようにして構え、洋介に照準した。
「生憎だが、こちとら年季が違うんだ。中二病のガキに殺られるか」
洋介は立ち上がった。おじさんも席を立った。殴りかからんと突き出した片腕を絡めとられ、背中に回されテーブルに押さえつけられる。どうしても勝てない。実力差があり過ぎる。拳銃に撃ち返されて、格好よく返り討ちに遭って死ぬでもない。拳銃を素手で制圧され、惨めに生き永らえている。
「午後七時二十五分! 銃刀法違反、及び殺人未遂で現行犯逮捕する!」
「舐めてんのか! 逮捕されなきゃいけねえのはお前だろうが!」
「この期に及んでまだ陰謀論ごっこを宣うつもりか!?」
おじさんは拳銃をポケットにしまうと、懐から二つ折りの手帳を取り出し洋介の眼前に突き出す。警察手帳だ。表面に銀文字で『予備警察官手帳』と記した革手帳を縦に振り出して開くと、おじさんの顔写真のIDカードの上に『退官済』の赤印が押され、予備警察官の認定日と更新日が記されている。
「秘密警察などというものが、現代の日本にあるとでも思うか!? まして子供を殺し屋に仕立て上げる卑劣な組織が許されるとでも!? そんな話を聞いて君はおかしいと思わなかったのか!? 良いか、この世の中は確かに矛盾に満ちている! 救いの手から漏れた人たちが苦痛の呻き声を上げても社会は正視することすらできない! だが、仮にも公的機関を名乗る組織が子供を洗脳し、利用して、社会の不穏分子を抹殺するほどに、我々の社会は腐りきってなどいるものか! 断言しよう! 君は騙されているぞ!」
おじさんは形容できない様々の感情を激怒の形で噴出させ、声を張り上げ恐れることなく洋介に叩きつけた。勢いに呑まれ、食堂の喧騒が鎮まる。
「騙されてなんかいない! 俺が正義の味方なんだ!」
洋介は自由な片手でもがいて、ポールジローのボトルを弾き落とした。
「誰か! 誰か助けて! このおじさんは人身売買組織のマフィアだ!」
「予備警察官だ! 皆さんどうか落ち着いて! すぐに警察を呼びます!」
おじさんは洋介を押さえつけたまま、全方位に手帳を掲げて見せた。
「みんな騙されちゃいけない! こいつは人殺しで人間の屑なんだ!」
おじさんは片手でスマホを取り出すと、短縮ダイヤルを起動した。
「……こんな時に限って出ないヤツめ。早く出ろ!」
「社会の害虫なんだ! 逮捕して裁判して死刑にしなきゃいけないんだ!」
「出たか。レストランで少年に撃たれそうになった。誰も傷つけることなく制圧したが、事情が込み入っていてな。ともかく至急一台、寄越してくれ」
「誰か助けて! 警察なんて嘘だ! マフィアに攫われて殺される!」
洋介が乱暴に身をよじって抜け出そうとするのを、おじさんは頭ごなしに押さえこんで頭を振り、電話口に溜め息をこぼしてから皮肉に笑った。
「聞こえてるだろ。少年は陰謀論を吹き込まれて錯乱してる。少年の中では私は人身売買マフィアの殺し屋ということになっているらしいよ。私の方が人身売買組織を調査していたんだがな。私はとうとう、連中の粛清リストに入ったらしい。子供を殺し屋に仕立て上げるとは見下げ果てた外道どもだ」
「お願いだから助けて! 誰か! 見てないで! 誰か……」
洋介は絶叫しつつ、テーブルから顔を上げ窓の向こうを見た。おじさんもほぼ同時に窓の外へ眼をやり、店の前に続々と集まる二人乗りスクーターやネイキッドバイク……フルフェイスヘルメットの一団に顔色を変えた。
「マズい、殺し合いになる。私か彼ら、どちらかの死体を覚悟しておけ!」
「秘密警察だ! 俺を助けに来てくれたんだ! おーい! ここだー!」
「まだ信じているのか!? おめでたいヤツだな!」
おじさんは吐き捨てつつスマホを懐に収め、ピーコートで覆い隠していた右腰を手探り、 虫垂の位置で携帯した短銃身の回転式拳銃を抜き放つ。
「……させるか!」
S&Wモデル66『コンバットマグナム』。銀色の3インチ銃身。
「銃撃戦になるぞ! 全員、テーブルの下に隠れろ!」
おじさんが通りに面した窓に銃口を構えつつ、店内に響き渡る絶叫じみた大声で告げると、客たちは一斉に悲鳴の大合唱を放って料理を放り、激しい物音を上げて先を争うようにテーブルの下に逃げ込む。洋介が成す術もなく窓の外を眺める中、おじさんが右手で銀色のリボルバーの照準を滑らせつつ次々と弾き、38SPL口径の+P+弾を連発して銃口炎を間欠させた。
ノートン拳銃の22口径弾の銃声が玩具のように、爆破するような銃声の衝撃波と轟音が立て続けに店内を揺らし、準紙標的射撃形の硬質鉛合金弾が大窓を内から外へ突き破り、外に居並んで銃を構えるバイカー暗殺者たちのフルフェイスヘルメットへと吸い込まれるように着弾し、頭蓋を貫通した。
速射競技めいた一瞬の早業。体制を崩すバイカー暗殺者。六人が即死。
紙一重の間を置いて、散発的な応射。狙いはてんで的外れで、おじさんの周囲に唸りを上げて弾が過る。流れ弾による洋介の死傷を微塵も頓着せず。
「話が違うよ! こんな滅茶苦茶に撃ってくるなんて聞いてない!」
洋介は唐突に差し迫った死の恐怖に叫び、震え上がった。窓の外で続々と膝から崩れ落ちるバイカー暗殺者たち。思わぬ手痛い反撃に一瞬たじろぐ。
「当然だ! 用済みになった君ごと、私を消すつもりなんだからな!」
おじさんは舌打ちして、弾切れの銃を右腰のベルト内保持型ホルスターに突っ込むと、洋介の制服の襟を掴んでテーブルの下に引っ張り込んだ。
「助けて! やだよ! 死にたくないよ!」
洋介が小便をちびりながら喚く頭上で、生き残りのバイカー暗殺者たちが怒り狂った野獣のごとく、拳銃の弾頭を嵐よ驟雨よと浴びせかけていた。
「ガキは大人しくすっこんでろ! ここからは大人の時間だ!」
おじさんは冷や汗混じりで洋介に告げると、左肩に下げたホルスターから小型拳銃を抜いた。黒色の遊底と銀色のフレームはステンレス、銃口を彩る指輪状の金色のブッシング。S&WモデルPC5906『ショーティ9』。
テーブルの下へ押し込まれた洋介は、ピーコートに隠れていたおじさんの右肩に、二つの箱型弾倉が革ホルダーに納まりぶら下がっている様を見た。
「おじさん……やっぱり殺し屋じゃないか!?」
洋介が目を凝らすと、左腰にもリボルバー用の高速装填器が、ホルダーに納めてベルトに挟まれていた。常在戦場を意識していることは明らかだ。
「人聞きが悪いな、こいつは護身用だ!」
おじさんが言い訳がましく宣い、中腰の立膝で利き腕を引きつけ、斜めに照準器を覗くコンパクトな構えを取り、周囲に気を配る。ステーキハウスのドアが蹴り開けられ、足音を踏み鳴らしてバイカー暗殺者が襲来した。
「おいでなすったな!」
おじさんは入り口へ向けてショーティ9拳銃を突き出し、先頭の暗殺者に初弾ダブルアクションの冷静沈着な単発射撃。競技等級の被甲先孔弾がフルフェイスヘルメットに直撃して頭蓋に潜り、花開き、一撃必殺。
遅れて両脇から飛び出す二人の暗殺者は、コの字に素早く照準を動かして機械じみた精密射撃。右の敵の胸に二発、左の敵の胸に二発で動きを止めて頭部に一発、返す銃口で右の敵の頭にも一発。相手に一発も撃たせない。
その様子をテーブルの陰から見守っていた洋介は、ノートン拳銃を納めたおじさんのピーコートの外ポケットへ、身を乗り出して手を突っ込んだ。
「何考えてる、邪魔だ! 死にたいのか!? 射線に身を曝すな!」
おじさんは洋介に脇目も降らず、左手を荒っぽく突き出して洋介を物陰に押し戻すと、四人目の胸から頭に駆け上がるように素早く三発撃ち込んだ。
「どんだけ兵隊を集めてるんだ、明日は葬儀屋が大忙しだな!」
おじさんは軽口を叩きつつ、右肩のホルダーの予備弾倉に左手をかけると留め金を親指で弾いて外す。割れ窓を蹴破られ、バイカー暗殺者が跳躍して店内にダイナミックエントリーしてテーブルに着地、見下ろすように拳銃でおじさんを狙う。その時、おじさんが斜に構えて暗殺者を狙っていた。
おじさんの三連射とバイカー暗殺者の乱射、至近距離で苛烈に弾が交錯しおじさんの顔や頭を銃弾が掠める。無煙火薬の燃焼ガスが濃密に立ち込めてフルフェイスヘルメットの破片が舞い散り、暗殺者が床に墜落した。
「まさかマガジン一本、弾が切れるまで撃つ羽目になるとはな!」
洋介の目と鼻の先で滝のように空薬莢が舞い踊り、開放状態となった銃が空の弾倉を滑り落とすと、おじさんの左手が素早く次の弾倉を流し込む。
「パトカーはまだ着かないのか!? このままだとジリ貧で殺されるぞ!」
黒塗りの遊底を左手で引いて前進させ、おじさんが周囲に目を凝らす。
フルフェイスヘルメットの死体がゴロゴロと転がる店内は、そこかしこで悲鳴を押し殺すような唸り声や、啜り泣きや神に祈る声が漏れ聞こえた。
襲撃が小休止した不気味な弛緩と静寂の中、おじさんはピストルを置くと右腰のリボルバーを抜き、銃口を上に向けて空薬莢を下に叩き出す。左腰の高速装填器を六連発の回転式弾倉につがえると、38口径弾を流し込んだ。
「……無事か?」
「何とかね」
洋介は全身ガクガクブルブルに身を震わせながら、テーブルから這い出しおじさんを真っ直ぐ見つめて頷いた。自分を強いて平静を装い、引き攣った笑みを浮かべていた。おじさんの表情が和らぎ、左手で洋介の頭を撫ぜる。
「強い子だ。無事に生きて家に帰れたらいいんだが」
そう言ってリボルバーを右腰に押し戻し、床のピストルを再び手にすると表情を引き締めた。再び入り口から襲来してくる暗殺者。おじさんが冷静に頭を撃ち抜いて処理すると、背後で窓が割れて慌ただしい着地音がした。
おじさんが咄嗟に振り返ると、若い女性の絹を裂くような悲鳴。
「動くな!」
おじさんの手の届かない十メートルほど先で、バイカー暗殺者が一般人の女性を左手で抱えて肉の盾としつつ、右手で彼女の喉元に銃を構えていた。
「嫌だ、死にたくない! 殺さないで!」
「銃を捨てろ! さもないと、こいつの喉から血の噴水が上がるぜ!」
バイカー暗殺者は僅かに跳ね開けたフルフェイスヘルメットのバイザーの隙間から、あからさまに切羽詰まった様子でおじさんに捲し立てた。
「おじさん……」
「大丈夫だ、下がっていなさい」
おじさんがショーティ9拳銃を置くと、暗殺者が銃でおじさんを狙った。
「立て!」
バイカー暗殺者は、夜の電飾でビカビカと下品に光る、クローム仕上げのヒメネス・アームズJA9自動拳銃の銃口を動かし、おじさんに命令した。
「歩け!」
おじさんは視線だけで周囲を見回しつつ、ゆっくりとした足取りで進む。
「止まれ!」
洋介はおじさんの背中を心配そうに見守り、入り口を振り返った。新手が拳銃を斜め下方に構え、足音を殺して忍び込んで来る。洋介はポケットからノートン拳銃を取り出した。振り返ると、バイカー暗殺者の死体の傍らには短銃身リボルバー、ロームRG38が転がっている。洋介は手を伸ばした。
「そこのガキ、何してる! 動くんじゃねえ!」
女を盾にするバイカー暗殺者が、注意を洋介に逸らした瞬間、おじさんが左手でピーコートの裾を引いて右手を閃かせ、右腰のリボルバーを抜く。
「手前ッ――」
バイカー暗殺者は一瞬、銃口を彷徨わせた。その一瞬におじさんは照準し撃ち終えていた。ヘルメットのバイザーが砕け散って後頭部から血が水平に噴き出し、暗殺者がゆっくりと仰向けに倒れる。放り出されたJA9拳銃が床に叩きつけられ、衝撃で逆鉤が外れて銃が暴発、弾がソファを穿った。
おじさんは目の前の暗殺者を排除したのに気を取られ、背後に迫っている脅威には気が付かない。だがしかし、洋介が二挺拳銃で果敢に起き上がる。
「うおおおおおおッ!」
右手に銀色の22口径小型ピストル、左手に黒鉄の38口径リボルバーを手にして洋介は、こちらに銃口を向けるバイカー暗殺者を目がけて出鱈目に撃ちまくった。暗殺者は泡を食って小型拳銃を構え、洋介に撃ちかかる。
洋介、バイカー暗殺者、双方共に出鱈目の連射乱射。床だのテーブルだの壁だの天井だの、そこらじゅうで銃弾が跳ね、割れた食器の破片が舞う。
「……しまったッ!?」
おじさんが振り返り様にリボルバーの瞬発射撃。ヘルメットを一撃で貫き仕留める。そうして銃声が止み、暗殺者が崩れ落ちると、静寂が訪れた。
「……少年ッ!?」
おじさんは拳銃を右腰に納めると洋介に駆け寄り、抱き起した。被弾して血を流している。洋介はぐったりした様子で目を開けて、おじさんを見た。
「おじさん……胸に穴開いてるよ……」
おじさんのピーコートには、洋介と暗殺者の乱戦の流れ弾が直撃し銃創を開けていた。おじさんは片手で胸を叩き、頭を振って平気だと示した。
「防弾チョッキだよ。撃ち合うのに何の備えも無いと思うのかね?」
「へへ……そっか。おじさん、俺、死ぬのかな……?」
「まだ死ぬには早すぎる。確りするんだ、少年!」
「俺には、木浦洋介、って、名前が、あるんだ」
パトカーの甲高いサイレンの音が遠くから響き、地獄の終わりを告げた。
【15】
一週間後。新宮ヶ崎中央病院の雑居部屋の片隅で、洋介はベッドに横臥し天井を見上げていた。被弾個所は肩と腕と脇腹に一発ずつ。銃弾が低威力の32ACP口径の完全被甲弾だったため、弾は綺麗に貫通して骨や臓器にもほぼ損傷は無く、一時は出血多量で意識が混濁したが一命を取り留めた。
「元気そうだな、木浦洋介くん。新宮ヶ崎警察だ。大事な話がある」
洋介は意識を取り戻してからというもの、連日こうして足繁くやって来る刑事たちの事情聴取に忙殺されていた。父親は、一度も姿を見せなかった。
「残念だが悪い報せだ。君のお父さんが遺体で発見された」
突然の訃報を耳にしても、洋介が僅かに眉間に皺を寄せただけで顔色一つ変えなかったのは、状況を受け入れられず呆然自失となったからではない。
「……人に迷惑をかけ通して、自由勝手に生きた人だ。死んだと言われても何とも思わない。どうせゴミみたいに死んだか殺されたかしたんでしょ」
「そんな言い方あるか! 実の父親が死んだんだぞ!?」
「僕が母さんに捨てられてこの方、あのゴミ屋敷にゴミ人間と二人暮らしで一つ屋根の下、どんな酷い目に逢ってきたか、あんたらに分かるのか!?」
「どうであろうと、親父は親父だろうが!」
他人事を我が事のように、額に青筋立てて喚き散らす刑事。彼の隣に立つ壮年の刑事もまた同じく、洋介を咎めるような目で見つめていた。不覚にも洋介がその時に思い出したのは、静雄と喧嘩別れした時の口論だった。
「それで、死因は何だったんですか。親父の」
「何だって!?」
「だから死因ですよ。いちいち興奮しないでください、鬱陶しい」
洋介が点滴台を疎ましげに眺めながら淡々と告げると、刑事たちに視線を戻した。刑事たちは憤懣やる方ない顔で目を合わせ、平静を取り戻す。
「……爆死だそうだ」
「爆死? ……いてっ」
洋介は予想していなかった死因に、驚いて半身をもたげ、痛みに悶えた。
「死体は損傷が激しく殆ど原型を留めていないそうだ。君たちの住む長屋に何者かが不審物を投げ込み、何者かが逃走した直後に爆発したらしい」
「その時、親父は家に」
中年刑事が痛ましげな表情で頷くと、開いた手帳に視線を戻す。
「遺体の状況から見て、就寝中だった可能性がある」
「親父、家の鍵を絶対にかけようとしない人でしたから。空き巣が入るから危ないよって何度注意しても、ぶん殴るだけで聞く耳持たなかった。結局はゴミ屋敷ごと爆破されておっ死んでるんだから、自業自得の笑い話ですよ」
「……おい、タコ殴りにして入院期間を延ばそうとすんじゃねーよ」
拳を握る中年刑事を、壮年刑事が後ろから羽交い絞めで押さえつける。
「くそったれ! このクソガキ、さっきから聞いていれば! 父親を何だと思ってやがるんだ! 一発焼き入れてやんねーと収まりつきませんよ!」
「どうどう、お前はもういいから下がってろ、話がややこしくなる」
「仲沢さん!」
「お前がいちいちキレてたら、事情聴取が一向に進まねーの。ちょっとの間あっちで頭冷やして来い。こいつにゃ俺が言って聞かせとくからよ。ホレ」
壮年刑事が中年刑事を強引に引っ張って遠ざけた。中年刑事が振り返って洋介を睨んだ。洋介も睨み返した。中年刑事は地団太を踏んで病室を出る。
「はぁー。血の気が多いのはまだまだ若い証拠かね、全く。よっこいしょ」
壮年刑事が溜め息がちに椅子へと腰を下ろし、灰色がかった髭を撫ぜつつ洋介を見つめる。大口を開けて欠伸をこぼし、ヤニで汚れた歯を剥き出す。
「……でだ。実際のところ、自宅を爆破される身に覚えはあるのか?」
「秘密警察ですよ、間違いない。僕がしくじったから。ヤツらに歯向かって仲間が沢山殺されたし、報復でもしたかったんじゃないんですか」
「けっ、出たよ秘密警察……よくもまあ、そんな大それた嘘ついたもんだ」
壮年刑事が極めて不愉快そうな顔で吐き捨て、それから口角を歪めた。
「しかしまあ、親父はお前の責任で死んだってことになるわけかい」
「それがどうしたんですか? 爆発で楽に死なれたんじゃ、僕のこれまでの生き地獄の苦しみとは釣り合いませんよ。親父がまだ生きてれば、この先もずっと続き続けるはずだったんです。僕か親父のどちらかが死ぬまでね」
「ヤツを引き離して正解だったな……今の話は聴かなかったことにするぞ」
壮年刑事は猫背からぐいーっと背中を逸らし、ボキボキと骨を鳴らした。
「……まあな。坊主にゃ聞かせてやるが、ここだけの話、俺の親父も昔から酒乱でさ。でも、外じゃあ庁舎でバリバリやってる公務員でよ、外面だきゃいーモンだったから、家ん中で俺たちがどんな酷い目に逢ってたか、必死に訴えても誰一人として聞く耳持たなかったね。おかげで今でも酒が大嫌い」
「一滴も飲まないんですか?」
「ああ、飲まねえ。あんなもん気違い水だ。吐き気がする」
皮肉笑いで答える壮年刑事に、洋介は唇を噛んで俯いた。
「それで、刑事さんのお父さんは」
「還暦ちょい過ぎぐれえに肝硬変で死んだ。庁舎も定年退職では、花道まで作ってもらってさ、葬式は長蛇の列よ。家の中の事情も知らねえ他人どもの涙々の大葬式。笑えるぜ。お袋が首を括って死んだ時ゃ、謂れも無い噂だの陰口だので大盛り上がりして、親父は悲劇のヒーロー扱いだったのによ」
洋介には、壮年刑事の屈折した感情の籠もる言葉に共感でき、奥歯を噛む顔の双眸に涙が滲んだ。壮年刑事は溜め息をつき、洋介の頭に手を遣った。
「まあな。男の人生ってこんなもんよ。自分の痛み、恨みつらみを誰それに理解してもらおうだなんて、甘いことを考えてちゃ生きていかれん」
「辛くないんですか?」
「そりゃ辛ぇよ。だが辛ぇのを訴えて、悲劇のヒーローぶるのは格好悪いし惨めだろ。俺は親父とは違う。それだけを心の支えにして、今まで……」
壮年刑事は何事か言いかけて止め、洋介の頭から手を遠ざけた。
「少し喋り過ぎたな。今の話は忘れろ」
洋介は壮年刑事の深みの知れない澱んだ目を真っ直ぐ見て、頷いた。
「……僕、家も保護者もなくなっちゃいましたけど、どちらにせよこれから僕が連れて行かれる場所は刑務所だし、もうどうなろうと構いませんよ」
「さてそいつはどうかな」
壮年刑事は含みのある言い回しで呟くと、腰を上げた。
「えっ?」
「当然だが裁判は受けてもらうぞ。誰かのラジコンにされてようが、お前の起こしたことは歴とした重罪だからな。まず間違いなく前科持ちになるから覚悟しておけよ。とはいえ、お前が犯行を犯すに至る背景、追い詰められた暮らしで心神を喪失した状況、言葉巧みな洗脳、情状酌量の余地はあるさ」
壮年刑事は肩をグキグキと骨を鳴らしつつ、気のない言葉で告げた。
「……それに被害者も、加害者の重い処罰を望んでない節がある。自ずから加害者の情状酌量を陳情するとは、裏に何かあるのか勘ぐっちまうぜ」
「おじさん……!」
「野郎も、今回は正当防衛が認められないんじゃないか、過剰防衛の殺人で刑務所に行くんじゃないかと、内心では相当ビビってたらしいぜ」
「そんなッ、おじさんが刑務所行きなんて! おじさんは俺の所為で事件に巻き込まれただけなのに! 悪いヤツから俺を守ってくれただけなのに!」
「巻き込まれた、ねぇ」
「それは違うぞ、少年。おじさんが巻き込まれたのではなくて、おじさんが君を事件に巻き込んでしまったんだ。組織を嗅ぎ回っていたせいでね」
耳馴染みのある声が壮年刑事の背後から聞こえ、洋介が顔を動かした。
「生きてるか、少年。おじさんもようやく、お天道様の下を歩けるよ」
中年刑事を傍らに従え、虫の好かない顔で横目に睨まれながら、額の前に二本指を掲げて挨拶するおじさん……私立探偵・薬師巽が、洋介のベッドに歩み寄って彼を見下ろした。着ているいつものピーコートは、銃創の部分に黒い布パッチを貼る、雑な補修がなされていた。洋介がおかしそうに笑う。
「コート、穴が開いたのまだ着てるの? 新しいの買えばいいのに」
「こう見えても気に入ってるのさ。補修跡が多ければ多いほど箔がつく」
「相変わらず変な人。格好いいこと言ってる風だけどさ、本当は買い替える金が無いだけじゃないの? おじさん貧乏性が顔に出てるもん」
「こいつ、少し甘やかし過ぎたか? 敬う心を再教育してやらんとな」
野太い声で、わざとらしい咳払いが聞こえた。洋介と巽が視線を向けると壮年刑事が意味ありげな笑みを浮かべ、中年刑事の肩を叩いて踵を返す。
「ま、今日の所は俺たちゃ帰るぜ。話はまた明日、とっくりとな。坊主」
「お前には父親の重要さを再教育してやらにゃいかん!」
「はいはい。いつまでもカリカリしてんな。行くぞ」
巽はワイリーⅩのダサい防弾眼鏡を光らせ、刑事の二人組が雑居部屋から出ていく背中を見送った。それから、品定めするような目で他の入院患者をぐるりと見回すと、最後に洋介と無言で目を合わせ、椅子に腰を下ろす。
「親父さんのことについては、ご愁傷様だったね」
「いいんだ別に。おじさんまでそんなこと言うなって。酔っ払った寝込みを襲われて、骨まで残さず吹っ飛んじまって、お笑い草だ。せいせいしたよ」
洋介が努めて陽気に振る舞ってそう嘯くと、巽は静かな眼差しでその様を暫し見守ると、考え込むように目を閉じて低い唸り声を上げた。
「そんな辛気臭い顔するなって、こっちの気分まで湿気っちまうぜ」
「復讐がまだ終わっていないとしたら?」
巽は刃物のように研ぎ澄ませた眼差しで、唐突に推論を口にした。
「……え」
「私の目下の懸念事項は、そこにある。だから、君に会いに来た。少年」
「終わってない……って、どういう意味だよ」
巽は周囲の他の入院患者には背を向けた位置で、洋介にだけ見えるようにピーコートの裾を開いて見せた。腰にリボルバーのグリップが覗いていた。
「毒を食らわば皿まで、だ」
洋介は息を呑んだ。二人の間だけ、部屋の温度が下がったような感覚。
「終幕までもう暫く、この下らない乱痴気騒ぎに付き合ってもらおう」
【16】
夜が来た。洋介は今年のクリスマスを、病室で迎えることとなった。
「お袋……親父……」
消灯した室内。雑居部屋の一角、窓際の寝台。洋介は寝台を囲って閉じたカーテンの隙間から、窓の外に映る雲一つない冬晴れの夜の闇を貫くように降り注ぐ月光に照らされ、寝台に横臥して静かに眠り込んでいた。
誰も居ないはずの夜半の病棟、静かに開かれる雑居部屋の引き戸。
忍び寄る、黒社会の刺客の魔の手。
足音を殺して歩みを進め、音も無くカーテンを引き開ける。
「……待ってたぜ」
洋介は寝台に寝そべったまま左手で布団を捲り上げ……右手に握っていた短銃身のリボルバー……S&Wモデル15『コンバットマスターピース』の月光に輝く、宵闇のように深く蒼褪めた2インチの重銃身を突き付けた。
「なん……だと……」
一見どこにでも居そうな、冴えなくうだつが上がらず、身体がひょろ長く人相の悪い中年男……彼の構える、銀色のアルミフレームに遊底と、位置が上下反転した場所にある銃身の先端に、細身の消音器を付けた小型拳銃。
「俺と勝負しようぜ。そのチンケな銃と、俺の38口径とどっちが強いか」
「ほざけ。先に撃たなかった時点で、お前の負けは決まったようなものだ」
洋介は中年男を見据えていた。彼の背後で、音も無く開かれる隣の寝台のカーテンを。月光を浴びて煌めく3インチ銃身のコンバットマグナムを。
「……冴えないサンタも居たものだな。大人だからと分け隔てせず、私にも贈り物をくれたまえよ。寧ろ私の方が贈り物をあげよう。遠慮は要らない」
暗殺者は意識の外から後頭部に銃口を押し当てられ、雷に撃たれたように硬直し、身を震わせた。ガキリと撃鉄を引き起こす感触が、頭蓋骨を伝って暗殺者の全身を駆け巡る。彼は生唾を呑み込み、恐怖を笑いで押し殺す。
「探偵……薬師巽……クソガキまで……手前ら、ハメやがったな……」
巽は暗殺者の背後から手を伸ばし、彼が片手に握った消音器付きの拳銃を取り上げた。22口径8連発、S&Wモデル2213『スポーツマン』。
「では案内してもらおうか。君の飼い主、秘密警察の所長の部屋までね」
丸腰で前後からリボルバーを突き付けられた、哀れなるサンタクロースの成り損ないの中年男は、憤怒に顔を歪めて歯軋りし、全身を震わせた。
「それとも、今ここで正当防衛されて、君から先に棺桶に入るかね」
巽が22口径の消音拳銃をコートの内側に仕舞って、リボルバーの銃口を押し付ける手の力を強めると、中年男は観念したように深く項垂れた。
「……分かった」
巽は中年男の背中越しに、洋介の緊張しつつも誇らしげな顔と目を合わせウィンクした。二人の中年男は静かに夜半の雑居部屋を後にすると、洋介は床頭台の鍵つき戸棚を引き開けてリボルバーを仕舞い、寝台に横たわった。
【泡沫の熱き鋼の子守歌 おわり】
この物語は、以下のプロジェクトの参加作品です。
社会に仇なす悪ガキどもにゃ、黒いサンタがやって来る……!
クリスマスまであと残すところ9日、備えよう。
明日17日の投稿は、高柳総一郎さんとなっています。みんな見てネ!
それでは、40,000字を超える大長編()をここまでお読みくださり、誠にありがとうございました! ハードボイルド、エブリディ……。
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