鰻人思惟剣討伐伝 #AKBDC
前回までのあらすじ
24世紀、文明崩壊後のユーラシア大陸。黒竜江/アムール川流域。大河の中洲に浮かぶ小島は、珍宝島/ダマンスキー島。4世紀前にこの島を巡って争った中国とソビエトロシアは、既に地図から消滅して久しかった。
凍り付いた大河。一本の草木も生えぬ中洲の島に立ち込める雪煙。荒涼たる厳寒の地上に、凍り付いた屍が無数に犇めき合い、吹雪に曝されていた。
数多く倒れた屍は、赤い血を流す人間が半分。もう半分は人間に似ながらも鰓を持ち、鈍色の身体から緑色の有毒な血を流していた。イール人だ。
イール人は地球外から来た宇宙人とも、ホモサピエンス以前の古代人の末裔とも言われるが、彼らの実体を誰も知らない。彼らは長い間、人類の歴史の影に隠れて生き延び、歴史の節々にその存在の片鱗を覗かせていた。
地球全土を覆い尽くした悲劇・第三次核大戦もまた、人類を滅ぼさんとするイール人たちの暗躍、巧みな煽動によって起こった大破壊だった。
雌伏の一世紀。逆襲の一世紀。そして更に一世紀、イール人に反旗を翻した人類たちは、イール人の最後の砦、彼らの根拠地である黒竜江の中洲小島の珍宝島を制圧し、最終戦争に勝利した。人類全滅の危機は回避された。
アクズメは時の征イール大将軍・イエス=キリステ13世に導かれ、珍宝島地下要塞を攻略、イール人の首領リヴァイールサンを遂に切り捨てる。
「過去から来たりし勇者よ、この聖剣を汝に遣わし、大儀に報いんとする」
キリステはそう言って、アクズメに一振りの剣を持たせた。一見してそれは一振りの懐中電灯。刃を持たぬ剣、思念で斬る刃。過去の超技術を駆使した聖剣の名を『思惟剣・庖丁村正(イマジナリーソード・ムラマサ)』。
厳寒に吹雪く黒竜江。珍宝島の岸辺に仁王立つキリステ、その眼前に現れる次元の門。英雄・アクズメは屍の川を越えて、共に戦った同志たち、そして導師・キリステを振り返ることなく、元の時代に帰って行った。これからの自分に待ち受ける激戦を思い、聖剣を握る英雄の表情は険しかった。
我らがアクズメと、イール人との戦いはこれからも…… つづく
そして、アクズメは目が覚めた。トレーニングの疲れからか、ソファの上でまた眠りこけていたのだ。真夜中のように暗い居間には、青赤緑の三色光がネオンめいたけばけばしい光を放ち、テーブルを挟んで対面する位置に座る三人の、マグロ・イルカ・チョウザメ……の頭部を照らし出していた。
「おはよう、アクズメくん。いや、もうこんばんわの時間かな」
左のマグロ頭がおどけたように言うと、右のチョウザメ頭が頭を振った。
「今が何時だろうと、私はお前に会いたくない。なぜここに戻って来た?」
真ん中のイルカ頭が溜め息をつき、見かねた様子で横槍を入れた。
「止めて。彼は疲れているのよ。とてもお腹が空いているの」
アクズメは閉塞RGB空間でソファにもたれ、瞼を擦って薄汚れたテーブルに目を凝らした。食いかけのブリトーにタコス、飲みかけのシュリンプ。
「さぁ、お腹が空いているでしょう。何だって好きなだけ食べていいのよ」
イルカ頭の促すまま、アクズメはぼやけた視界でブリトーに手を伸ばした。
「見解の相違だな。彼は自分の意思でここに来て、居続けているんだ」
「どうでもいい。不愉快だ。自分を切り売りする趣味は無い」
アクズメは料理を手に取った。顔の前まで引き寄せて、ぼやけた視界が像を結んだ。ブリトーではない、スシだ。鮮やかな赤身のマグロ・スシ。
マグロ頭が鼻を鳴らし、膝に両手をついて身を乗り出した。
「お前に2つ質問をしよう。質問1。絶滅危惧種を食べるのは好きか?」
アクズメはマグロ・スシを口に放り込もうとして、手を停めた。よく見ると赤身じゃない。マグロですらない。香ばしい匂いと褐色の照りは……。
「質問2。24世紀のお前と、21世紀のお前に何が起こった?」
イール・スシ……イール……イール人……アクズメは頭痛を覚え、気を失った。
――――――――――
近頃、アクズメはよく夢を見た。海産物を頭に乗っけた、悪趣味な者たちが会話をする夢だ。連中が何を話していたかはよく覚えていない。記憶にないということは、意味のある話ではなかった、ということなのだろう。
イールを滅ぼさねばならない。それが彼の信念だ。邪悪なるイールが人間の世界を侵略し、イール人が人間にとって代わろうとしている。地上の繁栄を人間が占めるか、イールが占めるかの戦いだ。人類に選択の余地はない。
世界中の紛争の裏には、イール人が暗躍している。歴史の影のイール真実を知った彼は、イールを滅ぼすために日々身体を鍛え、戦いに備えた。
ある時、彼はベッドの下に無造作に投げ込まれていた『それ』に気づいた。
それがいつからそこにあったのか、彼は覚えていない。
見た目は軍用の懐中電灯。しかしスイッチもネジも蓋も無ければ、そもそもどうやって動かすのかも分からない。唯一わかることは、筒状物体の側面に刻まれた『思惟剣 庖丁村正』という文字だけ。
剣と書かれているからにはライトセーバーみたいに光の刃でも出るのか?
彼は訝り、思い思いに剣を振ったが、刃が出てくる気配は無い。刃を持たぬ剣とはとんだ謎かけだ。アクズメは頓智に興味が無かった。夜市で痛飲した帰りに、怪しい屋台で買ったのが関の山。その程度に考えていた。
アクズメはベンチプレスを終えてクールダウンすると、ベッドの下から銃を取り出して整備を始めた。ショットガンだ。バレルを切り詰め、ストックを切り落としたポンプアクション銃。イールを殺すなら、こっちの方がよほど役に立つ。散弾で撃たれれば人は死ぬ。イール人であろうと同じだ。
ポンプ銃の整備を終えると、拳銃の整備を始めた。リボルバーだ。古戦場で拾ってきたような、傷だらけの45口径。アクズメは頓着しなかった。別に見せびらかすわけじゃない。弾が出て、イール人が殺せれば何でもいい。
アクズメが銃の整備を終えた頃、電話が鳴った。彼の双眸が窄まった。
彼の居る時間帯、それでいて彼以外に家人の居ない時間帯。電話は明らかに彼を狙い撃ちにしているのだ。アクズメは電話の受話器を上げた。
「ファースト・スシパーラーです。出張の依頼が入りました。場所はノースマウンテンのムーンリバー、ソートゥースキャニオン。座標は……」
指令の電話だ。しかし、場所が普通じゃない。アクズメは慌てて、メモ帳を手繰り寄せてペンを走らせる。今までは街中だった。家やオフィス、店舗や集会場。言われるままに行けば、イール人が居た。彼はそれを殺した。
「ちょっと待て。そんなジャングルのど真ん中に俺を行かせて……」
「……親戚一同を集めた大人数のパーティとのことで……」
「だから、そんな山奥まで行けるかっての。大体なんで俺が……」
「……くれぐれも『庖丁』をお忘れなく。以上、よろしくお願いします」
「おい、聞いてるのか」
電話は無情に切れた。アクズメは舌打ちして、受話器を叩きつける。指令を無視しようなどと思わない方がいい。アクズメは痛感していた。二日酔いの酷かったある日、指令をワザとすっぽかしたら、次の日には彼の行きつけの酒屋が木っ端微塵に爆破されていた。連中はアクズメを見ているのだ。
――――――――――
大排気量スクーターが市街地の国道を駆け抜け、田園地帯へと入る。
「シティボーイの俺が、どうして山奥に……」
アクズメはフルフェイスヘルメットの下で何度かの愚痴を吐き、なだらかな斜面に広がる畑と点在する民家、その奥に厳然と聳える山脈を仰いだ。
目的地に辿り着くまでの厳しい道のりを考え、アクズメは暗澹たる心持ちでスクーターのアクセルを吹かした。彼が自然と思い出すのは、軍隊で訓練に明け暮れていた頃。今回の司令はその時と同じか、またはそれ以上に厳しいことだろう。彼の所属は陸軍の機械化部隊、担当はBTRの運転手だった。
重機の運転は得意でも、山岳地帯の行軍は得意でない。そんな泥臭い仕事は長距離偵察部隊のマゾ豚野郎どもにでも任せておけばよかった。
地図の読み方を習ったのはもう何年前だ? 彼も陸軍歩兵として、基本的な山の歩き方、地図やコンパスの使い方は新兵訓練時に教わってはいたが。
「あの時の教官の話、もっとちゃんと聞いときゃ良かったぜ……」
アクズメの家に連中が寄越した『支給品』は、印の付いた地図にコンパスと目的地が指定されたGPSロガー。小さなボール箱に、ただその三つだけ。
これがイール狩りでなく宝探しなら、どれほど心が躍ったことだろう。
大型スクーターのカーナビに記された道が途切れた。ここから先は歩きだ。
ノースマウンテンの林道の最果て。二輪車を停めたアクズメは、たっぷりと逡巡してから地に降り立った。シートの下から、カヴァランのウィスキーを取り出してラッパ飲みし、侠気を奮い立たせ、彼は行軍の準備を始めた。
道すがら、指令をバックレるか散々迷った。彼はストレスの余り、重慶麺と福州乾麺と辛麺を二度食べ、心細さの余りブリトーを三本も買った。不安はそれでも収まらなかった。街中をスクーターでぐるぐる回り、いつもの癖で酒屋に向かった時。道路の向こう側で発砲が起こり、銃を持った男が店から飛び出して逃げ去った。その時アクズメの不安は頂点に達した。彼は酒屋に飛び込み、カヴァランのシングルモルトを衝動買いして肚を括った。
飲み慣れないウィスキーは不味かった。何だか甘ったるいような、機械油のケミカル臭のような。こんな物を好んで味わう人間の気が知れなかった。
酒の力で、一時アクズメは不安を忘れ、自我を取り戻した。スクーターからカーナビを外してシート下に納め、ハンドルとホイールを施錠する。山奥で巨大スクーターを盗む人間は居ないだろうが、一応の対策はしておいた。
どうしてこんなことになったのか。アクズメは久しぶりに履く軍用ブーツのスパイクの感触を確かめ、崖下へ続く細道を歩きながら自問した。木陰でも蒸し暑い空気と、ブーニーハット越しに照りつける直射日光、蝉の大合唱が邪悪な三位一体で、恐るべき体感温度となってアクズメを苦しめる。
谷底まで降りてきた。ノースマウンテンの奥地、ムーンリバー。緩い斜面の岩場に蛇行して伸びる川を、透明度の高い清冽な水が流れる。岸辺の岩場の両端には、木々が何重にも折り重なった濃密なブッシュ。藪漕ぎに慣れない人間が陸地の森を行くのは不可能で、川岸を歩く方がまだ現実的だ。
それにしても綺麗な水だ。浅い川を覗けば川底が明瞭に窺える。アクズメはリュックを背負い直し、流れを遡って歩き始めた。リュックの中から伸びた給水ホースのバルブを咥え、ハイドレーションパックの水を吸う。長丁場にならないことを願うが、水の補給は最悪どうにかできるので安心だ。
水清ければ魚棲まず、そんな格言がアクズメの脳裏を過ぎった。この場所はイールが住むには上流過ぎた。環境は険しく、水は冷たく、清過ぎた。
「それより、俺の体力が持つかどうかが心配だな……」
こんな場所を喜ぶのは物好きな釣り人か、そうでなければ長距離偵察部隊のマゾ豚野郎どもだけだ。こんな山奥にイール人が居るのだろうか?
暫く歩いたアクズメは、腰を下ろして地図とGPSロガーを睨めっこする。
歩数をカウントし、地図とGPSを見比べて移動距離を計算。方向は間違っていないが、移動距離が絶望的に少ない。この分では、どこか野営する場所を探さねばならないだろう。この逃げ場のない大自然のどこかで。
「マジかよ? こんな場所で寝泊まりすんの? 虫とか獣とか居るだろ」
「ウヲオオオオーン!」
謎の動物の遠吠えに、アクズメは反射的にショットガンを抜き、ポンプして腰だめに構えた。どこかで茂みがガサリと動き、何者かの気配は消えた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
息を切らせるアクズメの腰で、ホルスターに納めたリボルバーや、シースに納めた軍用ナイフが揺れて、ガチャガチャと音を立てた。『庖丁村正』なる謎物体は、リュックの奥底に納めてあった。役に立つとは思えないからだ。
「……急ごう」
アクズメはタバコをポケットに押し戻し、地図を片付けて歩き出した。
「クソッ、何で俺がこんな長距離偵察部隊の真似事を……」
ブーニーハットの下で汗を垂らし、アクズメは水を切って歩く。急峻な岩が人を拒み、進むべき道はもはやない。アクズメはショットガンを両手持ちで頭上に掲げ、腰まで水に浸かって川を遡上する。背負ったリュックは半分が水に浸かっている。リュックの中身を、アクズメは考えないようにした。
自分に指令を出してくる連中の素性、イール人とは何なのか、歩く道すがらアクズメは色々なことを考えたが、答えは何一つ思い浮かばなかった。
憂さ晴らしに始めたイール人退治が、いつの間にかのっぴきならない状況に彼を追い込んでいた。それでも、イールを滅ぼす信念は変わらなかった。
「ダムシット、こうなりゃとことんやってやる。山奥だって、どこへだって行ってやる。見つけてやるぜ、イール人。もしガセネタだった時は、連中の居所を突き止めて、00バックで蜂の巣にしてやっからな……」
川底の、藻の生えた岩に足を滑らせ、アクズメは背中から川に転げ落ちた。
「グワーガボボボボッ! 溺れる、溺れる! ファッキンシット!」
浅い川は見た目よりずっと流れが速く、体力を消耗する。アクズメは水流に囚われ、十数メートル手前に押し戻され、岩に掴まって事無きを得た。
日が落ちて、洞窟。燃え盛る焚火の灯りを見つめ、アクズメは消耗しきった顔でブリトーを齧っていた。地図とGPSと歩数の計算によると、目指すべきソートゥースキャニオンはまだ半分近くの距離がある。川を遡って歩くのは地図で見るよりずっと距離を感じる。イール人はまだ影も形も見えない。
カヴァランのウィスキーを飲み、水に濡れて冷えた身体を温める。奇跡的に水濡れを免れたタバコを咥え、一日の重労働を思って溜め息をついた。
洞窟の目と鼻の先で、川流れが水飛沫の音を響かせ、自分が大自然の只中に居ることを忘れさせない。雨が降った時とか色々と恐ろしいが、アクズメはそれ以上考えることを止めた。吸い殻を焚火に投げ込み、火を消した。
――――――――――
アクズメが目を覚ました時、唐突に女の顔が目に移って彼は飛び起きた。
「ウワーッ、何だ!? 水難事故で死んだ女の亡霊か!?」
取る物も取り敢えず、ショットガンを腰だめに構えて女と向き合う。長髪と土気色の肌、水気をまとって身体に密着した服。その胸は豊満だった。
女は呆気に取られた様子で、アクズメを見返した。アクズメは銃の引き金に指をかけ、あわや発砲する寸前で正気に戻った。ここまでにおよそ5秒。
「……貴方、ここで何をしているの!?」
「そりゃこっちのセリフだよ! うっかり蜂の巣にするとこだったぜ!」
アクズメはショットガンの安全装置を弾き、岩に腰を下ろした。怪訝な顔で自分を見つめる女に耐えかね、彼は咳払いして弁明を試みる。
「俺はアクズメ。まあ、見ての通り……探検中でさ」
「探検? お仕事か何かなの?」
「ええまあそう、うん。ちょっとソートゥースキャニオンまでね」
アクズメはうっかり喋って、言わなければ良かったと後悔した。
「まだ随分距離があるわ。危険だし、戻った方がいいんじゃない?」
「そうしたいのは山々だけれど、こっちにも事情があってさ。君こそこんな山奥で、それも女の子が一人で無防備で、一体どんな訳ありだい?」
アクズメが切り返すと、女は顔を歪めて後退った。ちょっと言い過ぎたかと思いつつも、アクズメは準備を始めた。女の正体は知れないが、幽霊でなく武装もしていなければ無害だ。これ以上、関わる理由もない。
女はマリアと名乗った。その名前を聞いた時、アクズメは脳裏に閃くようなものを感じたが、それが何なのか思い出せなかった。マリアは名前を除いて何も語ろうとしなかった。アクズメも聞く気は無かった。ここで別れたきりこの世から消えそうな風体の女に、あれこれ尋ねる気にはなれなかった。
「お家はどこ? 結婚はもうしてるの? 恋人は? 探検のお仕事って何をするの? ソートゥースキャニオンまで行って何をするの?」
「……うるさいな」
アクズメは水に浸かって川底を歩きつつ、ぼそりと呟いた。後ろにマリアがついて歩き、彼へと矢継ぎ早に様々な質問を浴びせた。全く女という生物は良く分からない。自分のことは何も語らないのに、他人のことはあれこれと詮索して知りたがるからだ。アクズメは質問を殆ど無視して歩き続けた。
「……その銃で、一体何をするの?」
ざぶん。水を切るアクズメの歩みが停まり、川の只中で二人が立ち止まる。
「武器を持ってるなら、やることは一つだろ」
「それは、ソートゥースキャニオンに行くことに、何か関係があるの?」
「君には関係ないね。答えたくないんだ、詮索しないでくれよ」
「行かない方がいいと思うわ。とても危険だから、帰った方がいいわよ」
「そうだろうね。今の話を聞いて、俺はどちらかというと安心したけど」
アクズメは平坦な口調で答え、再びざぶざぶと川を遡り始める。
「どういう意味?」
「俺の聞いた話がガセじゃない証拠だからさ。危険の種類にもよるけど」
日が高い。アクズメは傾斜の緩い岩場を見つけ、岸に昇った。水は冷たいが空気は恐ろしく暑い。アクズメは小休止しようと、木陰に腰を下ろした。
地図とGPSロガーを突き合わせる。方角は完璧、行軍は万事順調だ。
「何を見てるの? その小さな機械は何? その印が目的地?」
周囲をウロチョロ歩き回り、手元を覗き込むマリアの存在を除いては。
「君、どうしてついて来るんだ」
アクズメはブリトーを齧りながら、困惑の面持ちでマリアを見た。マリアは何も言わず、アクズメの対面にペタリと座り、彼を無表情で見返す。身体に貼りついた彼女の服の、胸のふくらみからアクズメが目を逸らす。
いよいよ幽霊めいてきたな。アクズメは独り言ちた。マリアが何者なのかは気になるが、幽霊だと言われた時が怖いので、聞き出せずにいた。
アクズメはブリトーを取り出し、マリアに差し出した。
「食べる?」
マリアは無言で首を振った。アクズメは酒のスキットルを取り出した。
「酒でも飲む?」
マリアはもう一度首を振った。アクズメは木陰に寝転び、ブーニーハットを目深に被って目を閉じた。再び目を開けた時、女が居なくなっていることを願っていた。虫や鳥の鳴きかわす暑気の中、女の気配はまだ感じられた。
「貴方、本当にソートゥースキャニオンに行くつもりなのね」
「そうだって、最初から言ってるだろう」
「聞く耳を持たないでしょうけど、どうしても帰った方がいいのよ。貴方」
「くどいな。何と言われようと俺は行くんだ……イールを殺すために」
――――――――――
目を覚ました時、女の気配は感じなかった。アクズメは起き上がろうとしてブーニーハットの鍔に巨大クモを見つけ、叫び声と共に飛び起きた。
「しまった、眠り過ぎたか……マリア?」
女の姿は見当たらない。寧ろ好都合だった。腕時計を見ると、二時間ばかり眠っていたらしい。少し眠り過ぎたか。アクズメは再び現在地を確認すると荷物をまとめ、銃の装填を確かめてから、岩伝いに川へと降りた。
その時、水面がバシャッと爆ぜて、人影が水上に姿を現した。
「ウワーッ!?」
虚を突かれたアクズメは、浅瀬に尻餅をつきながらショットガンを構えた。
「そんなに大声出さなくたっていいでしょ、貴方」
人影はマリアだった。反射的に銃を撃たなくて良かったと思いつつ、帽子の鍔を押さえて立ち上がるアクズメの姿に、マリアはクスクスと笑った。
「何がおかしいんだよ」
アクズメはずぶ濡れで顔を顰めると、マリアを横目に睨んで歩き出す。
進むにつれて川が先細り、岩場の傾斜がきつくなる。歩いて進めなくなった急流を横目に、アクズメは岩場の凹凸を五体で捉えて、攀じ登る。マリアは荷物を持たぬ身一つとはいえ、アクズメの後を事も無げに追っていた。
「君さ、いつまでついて来るつもりなんだ」
「貴方が戻るっていうまでよ」
「じゃあ、目的地について用事を済ませるまで、ずっと一緒ってことかな」
一際切り立った崖場を慎重に攀じ登り、アクズメがおどけて言った。岩場の頂点を指先で捉え、力を込めた瞬間ずるりと指が滑る。しまった、と思った次の瞬間、今度はブーツの靴底が滑り、彼は岩場を滑り落ちた。
「ウワーッ!?」
「アクズメ、大丈夫!?」
「……アクズメさんは大丈夫です」
背中のリュックがクッションとなり、崖下のアクズメはほぼ無傷だった。
「もう止めたら?」
「ここまで来てかい? 悪いが、そうはいかないね。目的地が近いんだ」
座り込んで見下ろすマリアにアクズメは答え、起き上がった。
「ムキになってるのよ、貴方」
「知ってる。でも、引き返すわけにはいかないよ。何せ命懸けだからね」
「この調子だと、目的地に着く前に死んじゃうわよ、貴方」
「だから、尻尾を巻いて帰れって? そしたら殺されるのは俺の方だ」
再び崖場を上り始めるアクズメの姿に、マリアは無言で溜め息をこぼした。
濃密なブッシュを縫うように、九十九折に湾曲して清流が進む。アクズメは暑さと疲労で朦朧としつつ、ショットガンを前方に構えて歩き続けた。
都市に比べれば遥かにマシだが、顔から火が出そうに空気が熱い。顔面から汗を垂れ流し、ハイドレーションの水を口にして、時折立ち止まって帽子を外し、熱気の籠った頭に冷風を送りつつも、アクズメは歩き続ける。
「そんなにイールが殺したいの? どうしてそんなにイールが憎いの?」
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……どうして、殺す……憎む、だって……?」
息を切らせ、ブーニーハットの下の双眸を光らせ、アクズメが反芻した。
なぜイールを殺すのか。イールが人間を脅かすからだ。
なぜイールを憎むのか。イールが人間を……憎む? なぜ……憎む……なぜ?
何か大事なことを忘れているような気がして、アクズメは足を止めた。
「俺はどうして、イールを殺すほど憎んでいるんだ?」
汗を垂らして自問するアクズメ、彼の前にマリアが回り込んで問うた。
「例えば貴方、私がイールだって言ったら、殺せるかしら?」
イール? マリアが、イール人だって? 馬鹿な。アクズメは我に返った。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……ブルシットだ。もういい加減にしてくれ」
歩き出そうとするアクズメに、マリアは両手を開いて進路を遮り、訴えた。
「お願いよ、答えて。これが最後のチャンスなの。私が……」
「イール人だったら? 撃つよ。本当にイール人だったらだけど」
アクズメは片手でマリアを押し退けた。湿った肌は冷たく、アクズメの指がぬめりと滑る。アクズメは銃を抱え直し、瞳をぎらつかせて先を急いだ。
眼前に切り立つ断崖を見上げ、アクズメは岸辺の岩に腰を下ろした。
「こいつがソートゥースキャニオンか……」
ただの断崖ではなかった。彼が遡って来たムーンリバー……一筋の川が崖を左右に別ち、鋸刃めいた荒々しい渓谷の風景を作り出していた。
「ここまで来といて何だけど。本当にイールなんか居るのかねぇ、ここに」
アクズメはふと思い出し、スマホを取り出して渓谷を写真に撮った。
「マリアも写真撮る? 何ならアクズメさんとツーショットでもいいよ?」
スマホを向けると、マリアは翳のある笑みを浮かべて頭を振った。
「あっそう、つれないねえ」
アクズメはスキットルからウィスキーを一口含み、タバコを一本灰にすると携帯灰皿に納め、意を決したように鋸刃の渓谷へと足を踏み出す。
目的地に近づいている予感がした。アクズメは一歩を踏み出す度に、自分が何か途轍もないものに近づいているような、言い知れない気配を感じた。
「ルールルルールルールー……ルルルールールールルー……」
背後には、相変わらずあのうるさい女が歩いていた。その歌い声は悔しくも美しく、左右の直ぐ側まで突き出た断崖に反響し、コンサートホールめいた反響でアクズメの耳に聞こえた。マリアの歌はスキャットではなく、何かの言語を喋っているようであったが、何の言葉かまでは聞き取れなかった。
まず最初に、温い風が吹いた。次に、ブーニーハットや皮膚を細かい水滴が打った。次第にしっとりと降り注ぐ霧雨となって二人を濡らし、更に奥へと進めば濃い霧となって、行く手の風景まで不明瞭となった。
マリアの歌は続いた。アクズメの歩みは続いた。霧がかった渓谷に、流れる川の音と二人の歩む音、マリアの歌う声が混ざり合い、幻想的な景色だ。
一陣の風が吹き抜け、アクズメは足を止めた。冷涼たる風が霧を吹き払い、その内側に隠された景色を二人の前に露わとする。
視界の先で急速に断崖が開け……奥により高く聳える断崖が行く手を遮る。
「……滝だ」
アクズメは呟いた。研ぎ澄まされた鑿(ノミ)めいて切り立つ断崖の頂から岩肌を伝い、一筋の稲妻めいた、細く荒々しい滝が流れ落ちていた。
瀑音を上げて注ぐ滝と、その下に広がる滝壺。ムーンリバーの源流にして、ソートゥースキャニオンの突き当たり。頂の向こうは窺い知れない。
「行き止まり……ガセネタか? イール人は? 俺は一体何を……」
アクズメは力なく滝壺に歩み寄り、断崖を見上げた。隣にマリアが並ぶ。
「ここは私たちの源なの。私たちの始まりの場所……私たち、人魚の」
アクズメは驚き、振り返った。既に女の姿は無かった。アクズメは緊張して両目を瞬き、ショットガンを腰だめに構えて周囲を見渡した。
「マリア……?」
ちゃぽん、と小さな水音が響いた。アクズメは滝壺の水面にショットガンの銃口を構え、凍り付く。弾ける水泡の向こうには何も見えない。アクズメが背後を振り返り、滝壺に背を向けた瞬間、彼は水底に引きずり込まれた。
――――――――――
アクズメが目を覚ました時、彼は湿っぽい岩肌で寝ていることに気づいた。
洞窟にちらつく炎の灯り。松明か何かで照らしているのだろうか。
「起きたか、人間」
「ああッ、グウッ……誰だ手前はッ!」
アクズメは謎の声に答えつつ、ぼやけた視界で手探り、武器を探した。
「お前の探し物は、これかね?」
額にゴツンと固い物がぶつけられ、目の焦点が定まったアクズメは、自分の頭に向けられた銃口を見て悲鳴を上げかけた。ショットガン、彼の持参した武器が自分の頭に向けられていた。そして銃を手にする人影は……。
「お前、イール人か!?」
土気色の肌。粘膜めいてぬめる肌。何より、鰓だ。街で見たイール人と比べ肌の色が薄く、生臭さも少ないなど相違点もあるが、鰓という外見的特徴は隠しようがない。魚めいた顔を持つ男が、厳めしい表情でアクズメを見た。
「お前は何の話をしている。我々は山奥で静かに暮らす水の民……」
鰓を動かして語る男の後ろには、男と似た姿の魚人たちが並び、多くの者は手製の銛で、一部の物はアクズメのリボルバーやナイフで武装していた。
「マ、マリア……」
魚人たちの中には、マリアの姿もあった。マリアの手には、懐中電灯めいた刃の無い剣・思惟剣が握られていた。彼女の首筋には鰓が無かった。
「許して、アクズメ……貴方がどうしても行くと言ったから……」
「あの子は鰓を持たずに生まれた未熟児だったが……代わりに肺が発達して生き永らえた。丁度お前のようにな、人間。悪いが死んでもらう」
魚人の首長らしき男は、情け無用でショットガンの引き金に指をかけた。
マリアは殆ど反射的に、手にした思惟剣を投げた。首長の頭めがけて。
「ダメ―ッ!」
「ウゴッ!?」
ズドン。金属塊が脳天直撃した魚人首長がふらつき、ショットガンの狙いがアクズメから逸れて、岩壁を穿った。魚人たちが一斉にマリアを睨んだ。
「アクズメ、逃げてー!」
ズドン。リボルバーを持った魚人が、マリアに向けて一発撃ち込んだ。
「この出来損ないめッ!」
「おい、なぜ仲間を撃った!」
「マ、マリアーッ!」
叫ぶアクズメ。痛みにふらついた魚人首長が、頭を摩ってアクズメに視線を向ける。アクズメの視線の先に、マリアの放った思惟剣が転がっていた。
マリア……マリア……そうだ、思い出した! その時、思惟剣を求め駆け出すアクズメの脳裏に、24世紀の記憶が蘇った。凍り付く黒竜江、終末世界の地上で、マリアは言った。失われた超技術の落とし子、機械の乙女は。
「アクズメ、思惟剣(イマジネーション・ソード)は刃の無い剣よ。身体で切ろうとしては駄目、心で切るの。心で刃を念じて振れば、どんな物だって切れるわ。貴方の想像力(イマジネーション)ならきっとできる……!」
「死ねええええええッ!」
魚人首長がショットガンをポンプし、その背後で無数の魚人が銛を構える!
「マリアーッ!」
跳び出したアクズメが思惟剣を掴み取り、マリアの屍を見て叫んだ!
その時、刃の無い束の先端から光が迸った。謎の鉱物が埋め込まれた内部が激しく瞬き、アクズメの振るった軌跡に沿ってプラズマ光を一閃させた。
「そんな……馬鹿な……ガバッ……!?」
魚人首長が呟いて吐血し、ショットガンを取り落とす! 首が落ち、噴血!
「これが……思惟剣・庖丁村正……ッ!?」
バチバチ、バチ。アクズメに答えるように、村正の先端から光が弾ける!
「「「ウオオーッ!」」」
首長を殺され、大挙して襲い来る魚人たち! その一人がリボルバー発砲!
ズドン。アクズメが村正を振るい、迸ったプラズマ光が銃弾を両断!
ズドンズドンズドンズドン。立て続けの銃弾も、全て村正が切り捨てる!
カチッカチッ、カチッ。魚人は銃を投げ捨て、銛を手に走った!
「「「ウオオーッ!」」」
前列の魚人たちが、ジャベリンめいて銛投擲! アクズメは村正を振るって切り払いつつ、横っ飛びからローリング! 彼が一瞬前に立っていた場所へ魚人たちの銛突撃が飛び込んでくる! アクズメは起き上がって村正一閃!
「「「グアアーッ!?」」」
バチバチ、バチ。プラズマと共に不可視の剣が空を薙ぎ、着地した魚人たち数人が胴体を切り裂かれ、上半身と下半身が転げ落ちて夥しく噴血!
一人の魚人が連続バック転から、魚人首長の屍のショットガンを奪取!
「死ねええええッ!」
射線から一斉に跳び下がる魚人たち! 射線の向こうにはアクズメ!
ズドンズドンズドンズドン。00バック……大粒散弾の連射がアクズメへと降り注ぐ! アクズメは居合めいた構えから村正を振るう! 銃声に合わせ一回、二回、三回、四回! その度に、閃くプラズマ刃が散弾を焼き払う!
「死ぬのはお前たちだ、イール人どもめッ!」
アクズメ、居合めいた構えから村正を一閃! 頭に思い浮かべたのは全てを切り裂く巨大な刃! プラズマ光が空気を焦がし……洞窟の闇を照らした!
「「「グアアーッ!?」」」
バチバチ、バチ。村正の先端で光が爆ぜ、次の瞬間。アクズメを取り囲んだ魚人たちが一斉に銛を取り落とし……スライスされた身体が転げ落ちた!
アクズメが駆け寄った先で、マリアがゆっくりと起き上がる。土気色の肌の左腕に小さな穴が開き、血が流れていた。リボルバーの弾の貫通銃創だ。
「こんなはずじゃなかった……みんな、私のせいで……」
無言でマリアを助け起こすアクズメの耳に、岩盤が砕ける音が響いた。
岩窟の裂け目……思惟剣の巨大すぎる切断痕から、大量の水が噴き出す!
「答えて、アクズメ……私がイールだったら、あなたは私を殺すの?」
「そんなこと言ってる場合か! 洞窟が崩れるぞ、今すぐ逃げるんだ!」
アクズメの鍛えた筋肉が張り詰め、肩の上にマリアを抱え上げる! 松明の示す方向に沿って駆け抜けるアクズメ! その背後に大量の水が迫る!
「……馬鹿ね」
しかし、奮闘虚しくアクズメは水に飲まれ、またもや意識を失った。
――――――――――
アクズメは閉塞RGB部屋で、ソファに座って人影と向き合っていた。今度はマグロ頭一人だった。アクズメは手にしたイール・スシを口に放り込んだ。
「俺が殺したのはイールじゃなかった。だがイールは殺すし、食う」
「或いは人魚だったかな。人魚の肉を食う者は、永遠の命を得ると言う」
マグロ頭は瞳をぎょろつかせ、正体の知れない声でおどけて言った。
「ウエ……気持ち悪。永遠の命なんか興味ないね」
アクズメが言い返してもう一つスシを握ると、マグロ頭が低い声で笑った。
「命あるものはいずれ死ぬ。栄華を誇る種族もいずれ滅びる。人魚の絶滅を早めたのはちょっとした手違いだが、彼らがイールほど強ければな」
「スーパーの魚売り場で、マリアと対面することにならなくて良かったよ」
アクズメは手にしたイール・スシを見つめる。スシはイールではなく……。
――――――――――
そして、アクズメは起き上がった。着の身着のまま、ムーンリバーの岸辺に大の字で寝転んでいた。握りしめたてから、思惟剣がこぼれ落ちる。
「マリア……?」
霧の川辺。周囲を見渡すも、聞こえる音は水飛沫と、鳥と虫の鳴き声だけ。
思惟剣を除いて、荷物はほぼ全て失われている。アクズメはふらつきながら歩き出した。川岸に沿って下流へ。徐々に白む空、明るくなってくる川岸を歩き続ける内に、見覚えのある景色に辿り着く。初めに降りてきた斜面だ。
アクズメはムーンリバーを振り返り、霧がかった秘境に目を凝らす。
彼は束の間、自分を人魚と言った女を思い、頭を振った。彼女の生き死には最早、誰にも分からぬ。あの美しい歌声を聞くことも最早、無いだろう。
アクズメは重い身体を引きずって崖道を上がると、そこに停まり続けていた大型スクーターに歩み寄る。二輪車の鍵だけはどうにか失わずに済んだ。
シートを開いて思惟剣を納めると、スクーターに跨ってエンジンをかけた。
「俺は、アクズメだ。イールを殺す男だ」
フルフェイスヘルメットを被り、アクズメは呪縛めいて呟く。彼らが何者であったか最早、興味はない。彼女がなぜ、同朋を殺した自分を助けたかも。
アクズメは緩やかにアクセルを吹かし、車首を反転させて走り出す。
森の向こうで、霧の狭間から朝日が昇ろうとしていた。
【鰻人思惟剣討伐伝 #AKBDC おわり】
アクヅメさん、誕生日オメデト!
From: slaughtercult
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