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アウトサイド・モノクローム/1話

―――――(1)―――――


日本の南方、竜ヶ島市。火山噴火で陥没した巨大なカルデラは、張り詰めた強弓めいて弧を描く山がちの陸地と、外海から離れた穏やかな内湾、海上に突出する活火山とを擁し、荒々しくも風光明媚な湾岸都市の威容を誇る。

中央政府と隔絶したその地は古来より海運貿易で栄え、近代には欧米列強に若者を密航させ、次世代への礎を築いた。しかし近代化を志して蓄積された設備は中央政府に接収され、扶持を失った侍たちは新政府に反逆し、内戦の時代に突入する。侍たちは内戦の砲火と剣戟の露となり、討ち果て滅んだ。

竜ヶ島の郷士に、倉山なる一族があった。倉山道之助明義は、幕末に生まれ反乱軍として内戦に参加、戦局に敗戦の色が濃くなると、政府軍に投降して逆賊の誹りを受けるも生き永らえ、家系の断絶を辛くも免れる。侍の時代が終わりを告げ、平民に戻った明義は一念発起、上京して邏卒の職を得る。

邏卒とは現代で言うところのお巡りさん、警察官であった。明義は東京府の邏卒として文明開化の時代を目撃し、竜ヶ島に帰郷すると東京時代の伝手で地方警察の職を得た。ここに戦前から戦中、戦後に至るまで代々、竜ヶ島に警察官の人材を輩出し続ける、警察一族としての倉山家の礎が築かれた。

19世紀が終わり、20世紀。倉山道之助明義の曾孫、倉山重義が第一次大戦の只中の大正時代初期に生まれる。労働争議、参政権に女性解放、水平運動と市民の発言権が高まる時代、重義は青春を駆け抜ける。共産主義が台頭して治安維持法が成立、同年に天皇が崩御し、時代は大正から昭和へと移ろう。

重義が警察官を志した時節は、世界恐慌が社会に暗い影を落とし、蔓延する国粋主義と軍国主義とが、議会を機能不全に至らしめていた。大東亜戦争が勃発して市民生活が窮迫する中、重義は特別高等警察に配属され監視社会の尖兵となって暗躍し、市民運動を弾圧した。終戦後、重義は公職追放されて警察組織から放逐されるも、国共内戦に朝鮮戦争と共産主義の脅威が高まる戦後の動乱期、重義は公職追放解除、逆コースの流れに乗って何食わぬ顔で公安警察へと復職。悪運に恵まれて警察一族の命脈を今日まで保たせた。

時は21世紀。恭仁(きょうじ)、生まれる。中興の祖、倉山道之助明義から数えて6世孫の昆孫。倉山重義の長男で戦後生まれの倉山鉄義、その長男で高度成長期生まれの倉山利義、その末子として育まれるのが恭仁だ。武士の末裔にして警察一族たる彼の人生には、戦いと苦難が宿命づけられていた。


―――――(2)―――――


古い剣道場の板間に、裂帛の気合と打撃音が交錯した。道着に防具をまとう小柄な少年が、覚束ない手で竹刀を構えてにじり下がった。金網で顔を覆う面の内、汗に塗れた少年の顔は涙目である。恭仁、7歳の時だった。

恭仁より頭一つ大柄な剣道着姿が、面の奥で鋭い眼光を放ち、彼に対面して竹刀を突きつけた。面を予期した恭仁は下がりつつ竹刀を掲げるが、動きを読んだ相手は素早い踏み込みで逃さず、恭仁の籠手に一撃を打ち込んだ。

「痛い!」

痛みによろめく恭仁が竹刀を取り落とす間もあればこそ、相手は踏み込んで強引に恭仁と鍔迫り合い、恭仁を押し込めては突き飛ばしもう一撃、痛烈な面を浴びせた。恭仁はジリジリと疼痛を発する片手を押さえ、膝を折った。

「痛いよ!」
「弱いんだよ、クソチビ!」

跪く恭仁の前に屹立し、巨人めいて影を落とす剣士、その面の奥から少女の甲高い声が恫喝じみて響いた。倉山霧江、恭仁より2歳年上の姉だ。背丈は同年代の男子を凌いで一際大きい。傍らで大人と打ち合う2人の少年、兄の貞義と隆市の体格もまた背高の剛健であり、末弟の恭仁だけが小柄だった。

「泣くな、弱虫!」

霧江の怒号に、恭仁はビクリと肩を窄めて萎縮した。子供の体格差とは即ち力の象徴であり、武を極める道場で対すれば一層それは際立つ。こと長身の兄姉の存在は超えられない壁そのものとなり、恭仁の前に立ちはだかった。

「稽古にならないだろ! 早く立て!」
「嫌だよ!」
「我が儘言うな!」

霧江は感情の高ぶるまま怒鳴り散らすと、痺れを切らして恭仁の道義を掴み有無を言わさず彼を立たせた。面の奥で瞳が輝き、ニヤリと口元が意地悪く笑っていた。力も技術も自分に劣る恭仁を、稽古の名の下に傷めつけたくてしょうがないのだ。恭仁は兄弟姉妹の中で格好の鬱憤晴らしの標的だった。

「悔しかったらかかってこいよ! ホラ! ホラ!」
「止めて! 止めてよ!」

恭仁が自分を庇うように竹刀を立てて後退れば、霧江が竹刀を振りかざして前後左右の隙から打撃を咥える。恭仁は完全に戦意喪失し、碌に反撃できず殆ど一方的に竹刀を打ち込まれ続けた。面の内でボロボロと涙が流れた。

「痛いよ! もうやりたくないよ!」
「ホンットに気持ち悪いな! 男なら泣いてんじゃねえ! コラ!」

霧江が力任せに竹刀を振り下ろし、真正面から恭仁の面を叩いて道場の床に叩き伏せた。武道は強い者が全てであり、この場で修練する剣士たちは誰も彼に同情などしなかった。恭仁が霧江に散々やり込められるのは、いつもの道場の風景だった。霧江と恭仁は道場の中で最年少であったが、その性格は正反対であり、霧江は体格同様に闘争心の強さも男勝りで、兄にも大人にも臆せず打ち込んで来る。倉山家の血筋をそこはかとなく匂わせていた。

「何をやってるんだ恭仁! そんなに稽古がやりたくないなら出ていけ!」

剣道場の奥で目を光らせていた、道着姿の初老男性が屹立し吠え猛る。彼は倉山鉄義、倉山4兄弟の祖父であり、彼ら彼女らが最も恐れる師範だった。

「い、嫌だ……やります! 稽古やります!」

恭仁は震え上がり、泣き腫らしつつも己を強いて立ち上がった。言葉通りに道場から逃げ帰ったが最後、壮絶な折檻が彼を待っている。祖父のみならず母親からもだ。一般的に末子というのは甘やかされがちであるが、倉山家にそんな例外は無い。武士の末裔、警察一族の誇りに背かぬよう、幼い頃から上下関係と礼節と根性を、文字通り徹底的に叩き込まれ厳しく育てられる。

「打って来い!」
「うわああああ!」

恭仁はボロボロと落涙するのも隠さず、ただ折檻への恐怖から立ち上がって竹刀を掲げ、気勢を上げて闇雲に霧江へと突っ込んだ。闘争を好まぬ性格の恭仁には地獄じみた時間だった。霧江は恭仁の打撃をいなし、鍔迫り合いに持ち込んでは恭仁の惰弱な力を嘲って突き飛ばし、容赦なく叩きのめす。

「うううーッ……うううーッ」
「泣いて許されてると思ってんのか! さっさと立て!」

恭仁の尊厳は剥奪され、徹底的に痛めつけられた。彼は自分の無様な醜態を衆目に晒され嘲られる屈辱を深く心に刻んだ。何でこんな目に遭わなければならないのか。祖父で師範の鉄義は険しい顔で道場を睨み、逃げ腰の恭仁がどれほど兄や姉たちに傷めつけられても、一言も口を挟まない。孫に対する愛情は鉄義にも当然あったが、倉山一族の愛情とは甘やかさぬこと、子孫に武を極めさせ、以って鋼の心を鍛えさせる、例えるなら猛獣の親心だった。

「あああおおおおうッ!」

恭仁は今や野獣のごとく吠え、心と体の痛みに耐えて立ち、霧江を目がけて竹刀を突き出した。恭仁の突進に油断して構えていた霧江は、恭仁が放った突きを咄嗟に捌けず、革巻きの切っ先が喉を突き悶絶、白目を剥いて昏倒。

「霧江!」
「大丈夫か!」

周囲で鍛錬していた兄や大人たちが、倒れ込む霧江の姿に竹刀を放り出して次々と駆け寄った。幼年期の恭仁や霧江は突き技を許されておらず、彼女が突きに無警戒だったのも無理からぬことだった。恭仁は目の前で介抱される姉の姿に、理不尽さを呪った。家に戻れば、また折檻が彼を待っている。


―――――(3)―――――


恭仁、10歳の時。小学校で半成人式を終えた彼が帰宅すると、父親の利義が久方ぶりに居間に座っていた。彼は竜ヶ島中央署の刑事で、当然多忙であり家を留守にしがちである。恭仁は実際のところ、父親の留守に安堵すれども不安は覚えなかった。父親もまた、彼の恐怖の対象だったからだ。

恭仁は俯いたままドアを開いて家に歩み入り、居間からこちらを見る父親の逆三角形の顔に光る黒縁眼鏡と、まともに顔を見合わせた。途端に逃げたい気持ちが昂るのを押さえ、口の中が乾き切り、荒ぶる呼吸を必死に鎮めた。

「ただいま戻りました、お父様」
「ウン」

大柄な父親の背中から、霧のように放たれているオーラじみて、不穏な圧に恭仁はたじろぎ、廊下から小さく会釈して、自室に向かおうとする。

「オイ、恭仁」

父親に呼び止められ、恭仁の心臓がバクンと跳ねた。

「はい、お父様」
「一緒に行きたいところがある。直ぐに着替えて来い」
「はい」

是も非も無い。父が行くと言えば、子供はそれに従うのみだ。恭仁は心中で父親と鉢合わせた不運を呪い、自室に戻って背負ったランドセルを机の縁に吊り下げた。服を着替えろと言ったが、どういうことか。恭仁にはまともな用事でないことが直ぐに理解できた。運動しやすい服を選ぶべきだろう。

「オイ、早くしろ!」
「はい!」

廊下の奥から怒声が飛んできて、恭仁は是も非も無く大声で言葉を返した。

恭仁がジャージの上下を着て戻ると、利義はしかつめらしい表情で満足げに頷いた。屋敷の外に出て、庭の砂利を踏み鳴らし車に歩み寄る。黒光りする5代目セドリックの運転席を開いて、父親が腰を下ろす。恭仁が後部座席に乗ろうとして、「オイ」と父親が呼ばわった。恭仁は渋々助手席に乗った。

2人を乗せたセドリックが走り出す。行き先など恭仁には知る由も無い。

「オイ、恭仁」
「はい」
「学校で殴り合いの大喧嘩したんだって? それも上級生と」
「はい」

恭仁は少し背の伸びた身体を、助手席で縮こめた。

「殴られたからって、箒を持って追いかけ回したそうだな。相手の上級生をブッ叩いて顔面は血だらけ、学校中が大騒ぎだったらしいじゃないか」
「はい」

利義は無表情でシフトレバーを操作し、車をのんびりと走らせる。

「母さんが謝りに行ったそうだぞ、相手の子供の家に」
「はい」
「子供の喧嘩だ。俺は謝る必要などないと言ったが、母さん聞かなくてな」
「はい」
「いいか恭仁。道場で負け続けた憂さ晴らしに、素人の顔面をブッ叩くなど言語道断だ。剣道で養うのは心の強さだ。俺はお前の喧嘩道具にするために剣道を習わせているわけじゃない。そこを履き違えることは罷り成らんぞ」
「はい」

恭仁はギクリと肩を揺すり、父の顔も見られずに震えて言葉を返した。

「余り母さんを心配させるなよ、恭仁」
「はい。ごめんなさい、お父様」

恭仁は涙目で噛み締めるように言った。弱虫の恭仁は、学校の不良たちには格好の標的だった。罵声を浴びせられたり、小突かれたりして泣き出す度に弱虫毛虫と馬鹿にされた。ある日、一線を越えた一人の上級生が、彼の頬を本気で殴った。暴力には慣れていたから、殴られたこと自体や暴力の痛みにショックを感じたわけではない。殴られた恭仁の心に咄嗟に浮かんだ感情は悲しみではなく、強烈な恐怖だった。絶対にやり返さなければ。幼い頃から恭仁は殴られたら殴り返せと教わってきた。殴り返さずに帰ったら家でまた折檻される。しかしやり返そうにも、体格で劣る小さな恭仁はそのままでは上級生に太刀打ちできない。恭仁は恐怖で強迫観念に囚われ、箒を手にして殴った上級生を死に物狂いで追い回し、謝罪の言葉も聞かず殴り倒した。

敵討ちを果たして安堵していた恭仁を待っていたのは、学校に呼び出された母親が激怒の余り赤面して放った、公衆の面前での平手打ちだ。帰宅すると祖父の鉄義からも、木刀の一撃でお仕置き。兄や姉からも恥晒しと言われて散々に痛めつけられた。恭仁を褒め、庇い立てする者は誰も居なかった。

ともあれ、学校で弱虫の恭仁に喧嘩を売る者は誰も居なくなった。遠巻きに罵声を浴びせられることはあったが、恭仁が近づくと誰もが逃げ出した。

思い返していた恭仁は、車が停まったことに気づいて我に返る。

「降りろ。行くぞ」
「はい」

何かの道場だ。またかと恭仁は落胆した。決して、他の何かを期待していたわけでもないが。また何か痛いことをさせられるに違いない。そう考えると恭仁の足取りは鉄下駄を履いたように重くなる。行きたくない。彼の思いを余所に、父親の利義は恭仁の腕を取ってグイと引き、道場へと連れ込む。

道場には奇怪な叫び声が満ちていた。恭仁が今まで見て来た剣道とは様相が些か異なっていた。老いも若きも太い木の棒を振るい、床の上に直立させた大きな木の幹に歩み寄り、決死の絶叫を上げて木の棒を叩きつけていた。

何だこれは。異様な光景にたじろぐ恭仁には構わず、道場の奥から進み出た道着姿の師範と思しき老人と、一歩進み出た利義が会釈を交わした。

「お世話になります」
「いやぁこちらこそ嬉しいですよ! 倉山さんのご子息に稽古をつけるとは実に光栄です! 倉山師範はお元気でいらっしゃいますか?」
「えぇボチボチです。けれども斯く斯く云々の事情でして、恭仁には二度と稽古をつけんと匙を投げてしまいましてな。調所師範のお世話になります」

父親の言葉に、恭仁は始め驚き、次いで落胆した。剣道をしなくて良いのは嬉しいが、他に武道を見繕われるのは不本意だ。放っておいてほしいのに。

「えぇ、えぇえぇ聞いてますよ。まぁ最終的には恭仁くんの気持ち次第にはなりますがね、ハイ。取り敢えず今日は体験ってことで、行きますか」
「そういうわけだからな、恭仁。お前は今日から示現流を習え」
「はい。お世話になります」

恭仁は剣士たちの猿叫が轟く道場の中、調所という皺深い初老の男に畏まり頭を下げた。父親がやれと言えば、是も非も無い。いつもと同じだ。恭仁の心がどうあれ、周囲は勝手なことを彼に押し付ける。木と木がぶつかり合い火薬めいて爆ぜる音に、彼は血が凍る思いをしながら調所師範を見上げた。

「まあそんなに畏まらないで。恭仁くん、剣道はやったことあるんだよね」
「はい。道場では皆から打たれて、負けてばかりでしたが」

利義が一歩下がり、調所が一歩踏み出した。彼は腕組みして、恭仁の言葉にうんうんと何度も頷いた後、カッと目を見開いて恭仁を見下ろした。

「敢えて言おう。我々が修める示現流は、道場剣術とは別物だ。こう言うと倉山師範には悪いが、今まで習った剣道は一旦忘れてやり直すと考えろ」

調所は恭仁を手招きして、道場の一角に積まれた木の棒から細い物を選んで彼に手渡した。乾燥したイスノキの歪な棒だ。恭仁は竹刀のつもりでそれを受け取り、ずしりとした重さに驚いた。これを振り上げ、立木を叩くのだ。

2人の側では、言語を絶する叫び声と共に、門下生たちが木の棒を振るって人に見立てた立木を、文字通りの木人を左右から叩いている。竹刀を用いた剣道の打ち合いとは根源的に異なる、異様な熱気と殺気が漲っていた。

「示現流の剣術は一撃必殺。一撃で相手を打ち倒す勢いで、何重もの太刀を一声の内に叩き込む。手本を見せよう、こんな感じだ。エェーィッ!」

門下生たちが脇に退いて道を開け、調所が恭仁よりも数段太い木の棒を握り掲げて進み出る。それは『蜻蛉を取る』と称す、太刀を握った両手を耳まで持ち上げ、天を突くように切っ先を掲げた、示現流独特の構えであった。

「エェーィ! エェーィ! エェーィ!」

打つ、打つ、打つ! そして打つ! 刀に見立てたイスノキの棒を、頭上に振り上げて立木に振り下ろす! 左右から! 調所は猿叫と称する気合いを一度に放つ度、立木を両断せんばかりの勢いで5~6回ほど打ち下ろした。

「エェーィ! エェーィ! エェーィ!」

調所は仕上げとばかり蜻蛉を取り、猿叫ごとに重みのある袈裟懸けの太刀を一度、二度、三度、立木に打ち下ろした。打撃で煙が上がるように見えた。

調所は棒を正眼に構え、摺り足でずり下がって立木と向き合った。それからもう一度、摺り足で立木に歩み寄っては、猿叫と共に最後の一撃を加えた。

「といった感じだ、恭仁くん。やってみなさい」
「はい」

極限までシンプルであるがゆえに、子供にも分かり易い威圧感。度肝を抜く示現流の演武に、恭仁は内から溢れようとする感情を抑えられなかった。

恭仁が気付いた時には、彼の身体はイスノキの棒を天高く突き上げ、幕末を官軍と戦った逆賊がごとく、死力を振るって立木を打っていた。憎い者らの顔を脳裏に浮かべ。今までのどんな剣道の立ち合いよりも、声を張り上げ。

「いやぁ、流石は剣道やってただけあって、構えが綺麗ですなぁ」

無表情で様子を見守っていた利義に、調所が歩み寄って気さくに嘯く。

「初めて見た気がします。恭仁のあんな熱心に剣を振るう姿は」
「人には向き不向きがありますしね。示現流の刀は抜くべからざるものとは開祖の教えですが、鍛錬の内に斬る重みを知ればこそ、恭仁くんがそうした剣士の気の持ち様というのを、気づいてくれたらと願うばかりですなぁ」

おもむろに飛び出した調所の言葉に、利義は振り向いて頷き、苦笑した。

「成る程、親父の教える剣道とは何もかも違いますな。勉強になります」
「胡乱な剣術と見られる向きもありますがね、我々にとっては誇りですよ」

それから恭仁は、倉山利義の4子の中でただ1人、祖父・鉄義の道場を抜けて示現流の門下生となり、調所師範の手解きを受ける。竹刀の打ち合いという他者との闘争によってではなく、木人への打ち込みという己との対峙により研鑽を積む、示現流という新天地は恭仁の心に自信と熱意を取り戻させた。

倉山家の中では依然として彼の立場は落ちこぼれのままであり、匙を投げた祖父との溝は埋まることなく、兄や姉との喧嘩も母親の折檻も相変わらずの様相ではあったが、示現流と出会った恭仁の心の鬱屈は自然と鎮まった。


―――――(4)―――――


空手、柔道、合気道。倉山家の流儀に倣い、恭仁も年を重ねるにつれ様々の武道を習得させられる。恭仁は武道の型こそ覚えられても、対人戦の強さで頭角を現すことは敵わなかった。試合を重ねど、一向に芽は出なかった。

それでも、示現流には今なお熱心に通い、着々と技術を習得し続けていた。

「オイ出来損ない。失礼、恭仁クン。手前まだ例の田舎剣法やってんのか」
「田舎剣法だって?」

恭仁、15歳。遠方の大学から戻っていた長男・貞義の言葉に、カチンときた顔をして振り返る。成人も過ぎ、すっかり大人びていた貞義が、にやついた表情で恭仁の肩を叩いた。並び立つと、2人の背丈に殆ど差は無かった。

「エェーイって叫んで木刀を振ればいいだからな、簡単だよな。俺の剣道とどっちが強いか、ここらで決着をつけようじゃないか。面白いだろ?」
「兄さん。僕にまた竹刀を持てって言うのかい?」

凍て付いた表情で恭仁が口答えをすると、貞義が気色ばんで恭仁の学生服の襟首を掴み、手繰り寄せて額を突き合わせた。一暴れしたい風情だった。

「ゴチャゴチャうっせえよ手前、爺ちゃんの道場から尻尾撒いて逃げ出した腰抜けがよ。俺が稽古つけてやるつってんだ、お前に選択権はねえんだよ」
「爺ちゃんの剣道はもう忘れたよ。僕は僕のやり方でやる、文句はないね」
「上等だコラ。ボコボコにしてやるからな、ピイピイ泣くんじゃねえぞ」

恭仁は昔より握力の強くなった手で、貞義の手首を掴んで突き放した。

剣道場へ長らく姿を見せていなかった貞義と、5年ぶりの恭仁。2人が現れて道場は騒然となった。大学を終えて故郷に凱旋した貞義は、道場の門下生に誇らしげに手を振って笑みを振り撒く。恭仁は冷たい顔で前だけ見ていた。

師範たる祖父・鉄義は、2人の姿に何か言いたげに眉根を上げたが、特段の動揺も見せず平常に振舞った。貞義と恭仁は哲義の元に向かい首を垂れる。

「お久しぶりです、師範」
「どの面下げて帰って来た」

貞義の言葉を半ば遮り、鉄義が刃のように鋭い言葉を、恭仁に投げかける。

「面目次第もありません。本日は、兄さんたっての手合わせの願いですので今日限り、道場の床を踏んで竹刀を振るう無礼をどうかお許しください」

恭仁がつらつらと立て板に水を流すがごとく語り、一礼して鉄義としっかり目を合わせると、鉄義は何も言えなかった。恭仁は確実に変わっていた。

「何をグズグズしてんだノロマ。防具なんかいらねえよ」
「どういう意味だい」

道着姿で訝しむ恭仁に、貞義は型稽古用の木刀を放り投げた。

「俺たちゃもう子供じゃねえ。男らしく木刀でやり合うとしようや、ン?」
「無茶だよ兄さん、怪我しても責任は負えないよ」
「手前の意見なんか聞いてねえよ。病院送りにならねぇよう精々気張れや」

恭仁は木刀を受け取り、鉄義に困惑の視線を投げた。鉄義は無言で目を閉じ黙認する構えだ。恭仁は頭を振って貞義に視線を戻すと、ゆっくりと歩いて道場の中央に陣取った。貞義が木刀を肩に預け、恭仁と対面する位置に立ち侮蔑の視線で彼を射抜いた。道場の喧騒が静まり、鉄義が閉じた目を開く。

貞義が木刀の切っ先を突き出し、正眼に構えた。通常の剣道ならば、恭仁も正眼に構えて、切っ先を交えるのが試合の決まりだ。しかし恭仁は型通りの所作を良しとせず、木刀の柄を握った両手を耳の横に構え、蜻蛉を取った。

「手前……」

貞義が苛立ちと共に呟き、周囲が俄かにざわついた。貞義が不本意な表情で鉄義を見遣る。鉄義は眉根を寄せるも、口を出す気配は無い。恭仁は端から剣道で戦う気が無かった。貞義のペースには乗らないという意志表明だ。

「田舎剣法をブチのめすんだろ、兄さん。僕なら準備はできてるよ」

恭仁は爛々と双眸を輝かせ、淡々と貞義に告げた。正々堂々たる彼の態度に満ちる余裕と言葉に漲る自信が、貞義を殊更に苛立たせた。弱虫で情けない姿とは無縁だ。貞義は不快そうに双眸を細め、不承不承に木刀を構え直す。

戦いの火蓋は静寂の内に切られた。すかさず踏み込んだ貞義は、がら空きの恭仁の胴に素早く横薙ぎの打撃を見舞う。寸止めする気など元より無い。

骨が折れ、苦痛に咽ぶ恭仁の姿が脳裏を過り、貞義がニタリと笑った瞬間。

「エェーィ!」

道場の壁を震わせる猿叫! 貞義の予想に反して、恭仁は後退するどころか歩み出た。貞義の左肩から右脇腹まで一刀両断せんばかり、凄まじい勢いの袈裟切りが襲い来る! 驚くべきはその斬撃の速さ! 示現流の稽古で使うイスノキの木刀は一般的な物より重く、恭仁はそれで何万何十万何百万回と立木打ちをして鍛え続けていた。その彼が普通の木刀を振ればどうなるか!

貞義の左肩、右肩、左肩また右肩また左肩! 恭仁は一繋ぎの猿叫で木刀を振り下ろしてはピタリと寸止めし、また頭上に振りかぶっては逆側の肩へと振り下ろして寸止め! 重く、早く、迷いの無い切り込み! 余りの剣圧の凄まじさに、貞義は手が止まり棒立ちとなる。打ち終えた恭仁は、残心して貞義に正眼で木刀を構えながらゆっくりと後退り、静々と蜻蛉を取った。

鉄義は無言で目を閉じ、頭を振った。もはや勝負はついている。しかし彼は始まった試合に口を挟まず、成り行きを見守った。貞義は木刀を突き出して気勢を上げるが、恭仁に斬りかかる素振りは見せない。恭仁は一言も発さず木刀で蜻蛉を取った姿のまま、一定の速度でひたひたと貞義に歩み寄る。

打ち込めるものなら打ち込んでみろ。恭仁の立ち姿が言外に発する威圧感に尻込みし、貞義は気勢を上げるばかりで実際には後退り、円を描く足取りで恭仁の隙を窺うばかり。恭仁は愚直に正面から受けて立つ構えだ。傍目には貞義が恭仁から逃げ回っているようにも見えた。貞義は痺れを切らした。

「メェーン!」

恭仁へと素早く踏み込み、小手調べの面! そこに被さる後の先の撃剣!

「エェーィ! エェーィ!」

恭仁の強烈な打撃が貞義の先出しした面打ちを弾き、木刀を再び振りかぶり額すれすれで寸止め! 貞義は木刀を握る手が弾かれた振動に痺れ、眼前に迫る木刀の切っ先に立ち竦む。恭仁は残心して後退り、再び蜻蛉を取った。

「兄さん、調子でも悪いのかい。遠慮なく打ってきなよ、昔のように」

恭仁が道場の中央に戻って不敵に告げると、貞義の額に血管が浮かんだ。

「このクソガキ……調子に乗るなよ!」

貞義の頭に血が上り、恭仁に素早く駆け寄ると喉仏に切っ先を突き出した。

「エェーィ!」

恭仁の腕が反射的に動き、木刀の斬撃を一閃! 火薬が爆ぜるように音高く木刀が打ち合い、貞義の手から木刀が叩き落とされる。貞義は恐れを成して後退った。恭仁の動きは止まらない! 滑らかな動きで木刀を突き出す!

「エェーィ!」
「やめーい!」

鉄義、遂に刮目して膝立ちしし、片腕を振って鶴の一声! 見開いた恭仁の眼光に射竦められ、貞義の全身が硬直! 恭仁が突き出した木刀の切っ先は貞義の右肩の上の宙を刺し、心臓を貫く構えで、突き抜かれていた!

周囲で試合を見守る剣士たちが、あんぐりと口を開き驚愕した。剣道大会で全国レベルまで勝ち上がった貞義が、木刀の試合といえども完膚なきまでに恭仁に敗北を喫した! ただの一歩たりとも、恭仁に後退らせることなく!

「ぐッ……」
「まだやるかい?」

恭仁がゆっくりと後退り、木刀を正眼に構えて残心しつつ、貞義に問うた。

「て、手前……俺を殺す気かコラァ!」

恭仁が木刀で蜻蛉を取ろうとする一瞬前に、貞義が素早く踏み込み、木刀を掴んで床に転がし、恭仁の道着を掴んで激しく詰め寄る。恭仁は剃刀じみて双眸を窄めて貞義を見返すと、貞義に劣らぬ握力で彼の手首を掴んだ。

「僕は剣道をやらないって言ったよね? 田舎剣法に負けた気分はどう?」
「手前何だその物言いは! この道場を侮辱したらただじゃおかね――」

拳を握った貞義の足が絡め取られ、一本背負いで床に叩きつけられる。

「往生際が悪いね! 兄さんは喧嘩に負けたんだよ!」

貞義は突然の投げ技に受け身も取れず、痛みに藻掻く。恭仁は憐れむ表情で兄の姿を一瞥すると、道着の襟を正して道場を見渡した。鉄義を見据えると彼は無言で、勝手にしろとばかり目を逸らした。居合わせた剣士たちの中で貞義を庇い立てする者もまた居ない。恭仁は踵を返し、捨て台詞を吐いた。

「いい加減、大人になりなよ!」
「手前、この野郎! ただじゃ置かんぞ! 母さんに言いつけてやる!」

家に戻れば、また折檻が彼を待っているだろう。それがどうした。倉山家に生まれた男子たるもの、母親に殴られるのが怖くて兄弟喧嘩ができるか。


【アウトサイド・モノクローム/1話 おわり】
【次回に続く】

From: slaughtercult
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