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8年。とりあえず生きてます。

 あの大きな地震から8年が経ちました。
 あの日は、午前中は日差しもあって、地震当時までは晴れていた記憶があるのに、夜はすごい寒くなって、凍えた覚えがあります。
 あれは気候が変動したのか、たまたま冷えた夜だったのかわかりませんが、地震の情報でパニクってたのもあったのかもしれません。

 地震発生当時、自分は関東にいました。震度6弱の場所です。
 そんな場所でもあと少し行動が遅かったら、もしかしたら凍死してたかもしれない……そんな場所に居ました。
 生と死の分け目は、僅か6秒程度の差だったと思います。

 あの日は金曜日で、俺は普通に出勤していました。
 その週はクライアント先での仕事があり、その作業を始めて一週間、やっと最後の作業が終わってクライアント先に終了の挨拶をし、出たのは14時40分頃だったと思います。
 自分の職場は当時、クライアントから自転車で5分程度の場所でした。
 今日は定時で帰ろうか、などと考えながら職場のあるビルにつき、自転車ごとエレベーターに入り(一階に置くと盗難の恐れがあるため、職場のある三階踊り場に小さい自転車を置くようにしていた)、三階について自転車を止めて会社の扉を開けながら「戻りましたー」と言った後。

 おかしな光景でした。同僚が全員立ち上がって何か喋ってました。
 (おそらくその時、緊急地震速報が携帯で鳴ってたため、全員が立ち上がっていたのだと思われます)
 どうしたの、と言うより前に足元がぐらぐらと揺れ始め、帰ってきて何も分からないまま急にがつんと大きな縦揺れに襲われました。
 同僚は全員男性でしたが、皆一様に叫んでたのを覚えてます。
 外からは窓ガラスが割れる音と、きゃーという女性の悲鳴が聞こえていました。
 自分は自分の仕事机にしがみつき、早く収まってくれ! と願っていたのをはっきり覚えています。

 何分とも感じる位の揺れが収まって、同僚がテレビをつけると、東北を震源とした地震、津波が来る、というニュースに釘付けになってました。
 同僚も自分も、皆仕事など放棄してニュースばかり見ていました。

 その後、自分が乗ってたエレベーターが故障して停止しているのに気づいたのは、電車も何もかもが停止して今日は会社に泊まる事になるかもしれないと思った上司や同僚が買い出しに行こうとした時だったそうです。(因みにその日には復旧しませんでした)
 あと少し自分が遅かったら、間違いなくエレベーターの中に閉じ込められていました。携帯もスマホも持ち歩かずクライアント先に行ってたので、助けも呼べなかったと思います。
 その事に気付くと、後から青ざめましたねぇ。同僚からは今でも話のネタにされますけど(笑)。

 自分は会社に泊まらず、当時無職だった姉が車で迎えに来ると言うので、言葉に甘えて会社を出て、姉との待ち合わせ場所(会社で使う電車とは違う路線の駅)まで歩き、寒い中シャッターの下りた駅前で一人待ってました。
 道路はめちゃ混んでて、姉は大分遅れて来てくれましたが、そこから自分の家まで戻るのもすごい時間がかかりました。どこもかしこも渋滞だらけ。
 そんな中、東京と自分の県を繋ぐ幹線道路まできたとき、ぞろぞろと北上する人たちが歩いていた光景もいまだに忘れられません。全員、都内から自分の家まで歩いていたサラリーマン達でした。JRが全部運休になったため、歩いてきた人たちでした。
 すごい寒い中歩いている人の姿は途切れることなく続いてて、姉と一緒に車の中でそのそぞろ歩く人たちをじっと見ながら渋滞の流れを待ってました。

 無事に家についたのは21時ごろだったと思います(会社を出たのは19時ごろ)。疲れと同時に晩御飯食べる気も起きず、そのまま寝てしまいました・・
 その翌朝、原発が爆発するニュースを見た時の絶望。
 今でも忘れられない、3.11の記憶です。

 長々書きましたけど、別に教訓もなければ人に伝える事でもあまりない事ですね;;
 九死に一生を得たとはこのことなのでしょうけど、あまり実感はないです。けどとても怖かった。映像を見るたびにトラウマになりましたから。

 風化もさせてはいけない、そして忘れてはいけない。
 自分が生きていられるのは何か理由があるのかもしれないと思いながら、8年目の今日を過ごしています。