2018/4/30 平成の終わりまであと1年

9月16日、amazarashiの「ボイコット」ツアー福岡公演に参加します。2019は就活のせいで参加できなかったし配信ライブも観ていないので、3年ぶりのamazarashiです!たのしみ〜。

楽しみついでに3年間寝かせたライブレポを公開します。気取った文章で恥ずかしいんですがまあ…供養です。こういうの書きたくなるくらいいいライブなんですよ(?)



日付は変わり5/1の深夜2時過ぎ、私はあまりの空腹に我慢できずパスタを茹でながら、夕方に聴いた唄を口ずさんでいた。


4/30 amazarashiライブツアー「地方都市のメメント・モリ」in福岡市民会館。
私はそこでamazarashiというバンドの「今」を観た。
「空に唄えば」のMVの終盤なんか、今の自分たちのいる客席が映し出されているような気がして、秋田ひろむの、amazarashiの、進化を肌で体感した。私はどちらかというと「好きなバンドがメジャーになるのが嫌」な典型的サブカルクソ女だが、その時は素直にとても嬉しくなって拍手をする手に熱が入った。

ここからはamazarashiファン特有の「自分語り」をする。日記として記すには気取りすぎた文調だが、まあ、感化されているのだろう。明日からの日記はきっともっと適当になっているはずだ。

私がamazarashiのライブを聴きに来たのはこれが2回目となる。1度目はちょうど去年の今頃、メッセージボトルのツアーにて来場し、そして、あまりの迫力に圧巻された。1週間前のことすらまともに覚えてられないような脳みそでも、あの日のことは鮮明に覚えている。彼らのライブの雰囲気が「葬式」だか「宗教」だか言われているのは知っていたが、誰1人として声を上げず、腕を上げず、息を殺して正面を見据えている光景は異様で、居心地が良かった。

今回の公演が始まって真っ先に思ったのは「もう一年が経ったのか」ということだった。
丁度ひと月前、私は大学三回生になった。
大学三回生にもなると将来のことを真剣に考えなければならない。そのことが憂鬱で仕方がなくて、この一ヶ月間は地獄のような日々を送っていた。朝、目が覚めても布団から出られなくて、結果ろくに学校に行けず、そんな自分を責めて、もう死んでやろうと身の回りの整理などをしていた。つい数日前まで泣きながらフォローフォロワー0人のツイッターアカウントに自責の言葉を呟いていた私が、数ヶ月前に勢いで申し込んだチケットを片手に福岡市民会館に居るなんて酷く滑稽だ。

「地方都市のメメント・モリ」
メメントモリとはラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」「 死を記憶せよ」「死を想え」といった意味のようだ。地方都市は、東京・大阪・名古屋以外の都市のことを指す。
地方都市を冠したライブツアーが三大都市でも開演されるのは皮肉な話だが、そこは人口の集中度などから見て仕方のないことなのだろう。私は地方都市で生まれ、進学して地方都市に移り住んだ身だ。「都会」に対するコンプレックスも多々ある。私の生まれ育った街からは、ある程度成績が優秀で、家に進学するだけのお金のある子供がみんな出て行った。
たまに地元に戻って会う級友たちを、住む世界の違う人間であるように感じる。中学までは皆同じように田舎に生まれ育った1人の子供だったのに。
友を置き去りにして地元から離れて見えるものがある。友を見送って地元に取り残されて感じるものがある。私はなぜこんなところにいるんだろうと考えてしまう夜がある。それを思い出すきっかけには十分すぎるものだ。このアルバムと、ライブは。

ライブの良いところは、それまで何気なく聞いていた曲に対して新しい発見があることだ。
amazarashiのライブ会場で感極まって泣く人というのは少なくないと感じているが、私もそのうちの1人で、ボロボロと涙が溢れてしまう曲があった。

「フィロソフィー」
哲学。希死念慮の激しい人間にこそ必要とされる学問。MVで少女が走り抜けていくのを見ながら、歌詞をよく読まずキャッチーな曲だと聴き流していた曲。
先述したように、私は将来のことで悩んでいた。それというのも私のやりたいことと、やるべきことと、周囲からの期待と、私の持つ技術、全てが噛み合わないから。私が興味を持ち、趣味として身につけた技術は、社会に出て役に立つことのないものばかりで、「だから何?」と言われかねないものばかりだ。
私がそれに費やした時間を、もっと別のことに費やしていたら、今こんなに悩まなかったかもしれない。無意味だと知りながら、そんなことばかりを考える日々を過ごしていた。
だからこそあの歌詞が胸に刺さった。
スクリーンに映し出される文字の羅列。それが私の涙腺を崩壊させた。私は救われたのだろうか、傷つけられたのだろうか、自分でもよく分からない。

「月曜日」
今年の1月に成人式を迎えた。私は未だに大人になれない。
この曲のタイアップ作品である「月曜日の友達」は、中学生の少年少女が大人になることについて苦悩する。いや、そんな単純な言葉で表せるような作品じゃない。リアルであり、フィクションでもあった。陰鬱とした雰囲気を孕みながら光り輝いていた。最後には希望があった。きっとハッピーエンドとは言えないし、主人公たちの行く末が良いことばかりではない。不穏な雰囲気から目を背けずに進む彼らは、とても眩しかった。
作品を読んでから曲を聴くと印象が全然違う。MVの演出のひとつひとつが染み渡るし、詩の端々から作中のワンシーンが蘇る。漫画作品のファンとして、涙が滲んだ。


「生きて、また会いましょう」
秋田ひろむ彼自身にそう言われたら私は生きるしかない。ライブにまた行くしかない。落ち込んだ時に一緒になって落ち込んでくれる曲を書いた人が、いま、私を生かしてくれる。


茹で上がったパスタを口に運ぶ。
咀嚼するたび、今日の情景が蘇ってきた。じんわりと涙が滲む。心が弱っている時に温かい食べ物を食べると涙が出る、それとよく似ているが、今はとても気分がいい。徐々に救われていくような感覚。かつて私よりも大きかった母親に抱きしめられた時のような。

今日のことがとても尊いもののように思えた。覚えているうちにこれを記さなければと思い、スマホのメモ帳を開いた。この日記のようなものをどこかに公開するかはまだ考えていないが、これを読んだ誰かがamazarashiのライブに行こうと思ってくれたら嬉しい。私はまた福岡公演があるのならば絶対に行こうと思う。この希望の見えない世界を、また彼らに会えるその日までのたうち回りながら生きようと思う。

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