ゴジラを語りたいだけ~初代、シンゴジ、マイゴジについて~
『ゴジラ -1.0』がゴジラ作品としては初のオスカー賞に選ばれたり、それによるロングランでGWに日本産ゴジラとアメリカ産ゴジラが同時に公開されたりと、特撮ファンからしたら夢のような時間が続いている。いち特撮野郎として本当に感慨深いし、この時間を満喫する今が本当に楽しい。シュワちゃんが受賞を発表するシーンでゴジラのテーマが流れて普通に男泣きした。
そんな中で、ちょっと個人的に雑語りしたいネタがあるので書き連ねていく。語りたいってのもあるけど、それ以上に今まで25年以上をゴジラと共に過ごしてきて、自分の中のゴジラ観でもって3タイトルについて思うことを一度まとめておきたい。これは本当に自分にとっての整理作業でしかないし、言いたいことを言いまくるだけだから話はとっ散らかっているし、勝手に開示している知識はほとんど知らなくていいことだ。それでもそんな身勝手な記事に自分以外の1人でも価値を見出してくれたら良いなと思う。
ちなみにきっかけは友人にマイゴジの感想を聞いた上でここはこうだよ、みたいな説明を飲みながら話していたときのことだ。その中で『初代ゴジラのストーリーはなんとなく知っている』と思い込んで話していて、あらすじすら知られてないんだな初代ゴジラ、という今思えば当たり前のことを把握できていなかったことだったりします。まぁ雑語り雑解説はいつものこと、読む時は気楽に読んでね。でも過去一長いクソnoteです、ゆるして。
・『ゴジラ(1954)』という、歴史的作品
まずは初代ゴジラのあらすじから。自分もこの記事の中で表記が(めんどいので)ブレているけど、1番最初のゴジラ=初代ゴジラ=ゴジラ(1954)=初代です。めんどいね、ごめんね。
ということなんだけどまずは歴史的な話がしたい。そしてある意味ここが初代が伝説的というか神格化された所以でもある、『核へのアンチテーゼ』に関わってくる話だ。
戦後、アメリカは各地で核実験を繰り返していた。艦これプレイヤーにはおなじみ1946年のクロスロード作戦から、サンドストーン作戦、アイビー作戦などを経て、クロスロード作戦と同じビキニ環礁で水素爆弾によるキャッスル作戦が1954年3月に実施された。その時に不幸にも付近(といっても隔離地域外だった)を航行中の日本の漁船が大量被爆をし、死者が出る事件が発生した。教科書などにもよく載っている、第五福竜丸事件。広島、長崎を含めた日本の『3度の被爆』と言われる歴史的大事件である。
初代ゴジラの中では度重なる実験、としか言及はないがこの事件の実験のことを指しているのは間違いない。そもそもゴジラはポスターを見てもらえばわかる通り、『原爆大怪獣』ではなく『水爆大怪獣』だ。水爆が使われた直近の作戦はキャッスル作戦であり、第五福竜丸事件の原因の実験だった。もともとはとある映画の企画が頓挫したところに、この事件とその後の世間の反核の流れを見てゴジラの企画に至っていた。映画の企画が動き出しG作品の名前で企画が動き出したのが同年5月、公開が同年の11月。第五福竜丸事件が起きた1954年3月から8ヶ月後に公開されたゴジラ(1954)は、その年を用いて1954とも呼ばれる。それは70年も続く作品の初代の公開年だからというのもあるが、それ以上にゴジラの生まれたきっかけである、第五福竜丸事件の起きた年であるということに大きな意味を持っているからだ。
また公開された1954年というのも時代の流れを考えると無視できない。先の大戦からまだ10年も経っておらず、戦後の目覚ましい復興の中とはいえ戦争の記憶も傷跡もまだ残る時代だ。そこに大戦で使用された核兵器から連なる核実験にて3度目の被爆を受け、嫌が応にも大戦の記憶が蘇ってくる。そういったまだまだセンシティブで歴史として過去のモノにするには戦争にも核兵器にも近すぎる時代に生まれたゴジラは、先の大戦の象徴として、何よりも核の恐ろしさの具現化として現れた。その威容が含むメッセージは、当時の日本人に確かに刻まれたことは想像に難くない。
もちろんゴジラは反核のメッセージはあるものの、それだけではない。当時の東宝の粋を集めたメンバーを集めて業績を賭けた勝負の一作だったし、娯楽的要素での興行成功も勿論視野にあった。だからこそゴジラのヒットを受けて2作目のゴジラ作品『ゴジラの逆襲』が公開されたのは、初代ゴジラが公開されてわずか5ヶ月後の1955年4月だった……今思っても恐ろしい制作スパンだよね、これ。
核で生まれた怪獣を、核より恐ろしい兵器でどうにか封じ込める人類。核そのものへのアンチテーゼも、核や核の次に生まれるだろうと思われた新しい技術が進むことへの警鐘を示しながらも、作中で言及されたようにゴジラはその後も次々と生まれ続けた。それは反核というだけでなく娯楽としてのゴジラが求められつづけ、子どものヒーローである昭和ゴジラから、特撮技術の黎明期を作る平成シリーズ、CG技術をふんだんに用いるミレニアムシリーズとゴジラの長い歴史が続いていった。2004年、ゴジラ50周年である『ゴジラ FINAL WARS』を区切りとして一度日本のゴジラの歴史は止まった。その後、2014年のハリウッド版の『GODZILLA』(通称:ギャレゴジ)のヒットを契機にして、ゴジラを産んだ日本での新しい時代のゴジラ作品の計画が動き出した……『シン・ゴジラ』の誕生である。
※これは本当に余談の余談なんだけど、ゴジラの元ネタと言われている作品がある。1953年にアメリカで公開された『原子怪獣現わる』であり、原子力で巨大化した恐竜が街を襲う……というストーリーから『原子力で巨大化』というストーリーでゴジラの先輩にあたる。
この原子怪獣のリメイクが1990年代に企画が上がったが、頓挫し紆余曲折を経て誕生したのが悪名高い『GODZILLA』(通称:エメリッヒ版)だ。あの作品のいろいろ言われる要素も、はじめからゴジラたるべしとして作られなかったことによるものなんじゃないかなぁ……みたいな邪推はあるよね。ともに同じ作品を元にして作られた作品の評価がこうも二分されるとは。
・『シン・ゴジラ』のシン・解釈
お次はシン・ゴジラについて。これとゴジラ -1.0を語るのは、この2作が初代に極めて強い影響を受けている作品であり、それを語りたいからだ。まずはシンゴジのあらすじから一応。
シンゴジは初代の現代版リメイクだ。大戸島の伝説やゴジラの発生経過はもちろん、最初に被害を受けた船は初代ゴジラの栄光丸からシンゴジでGLORY MARUとしているなど、大筋から細かいオタク的な符丁まで合っている。もちろん時代を移しただけのリメイクに過ぎず、その中に複数のモチーフと対立構造を組み込んだ、シン解釈による新生だ。初代ゴジラは核実験の象徴だった。それに対しシンゴジは、東日本大震災で甚大な被害を受けた福島第一原発事故の具現化であり、また神話的解釈の中では八岐の大蛇そのものとして描写されている。
東日本大震災が2011年、シン・ゴジラ公開が2016年。5年の月日は震災の実際の被害や恐怖、報道映像などの記憶を断絶する程ではない。シン・ゴジラは波に追われ逃げる人々や体育館での避難生活、放射線の恐怖を振りまき冷却することで抑えるという、実際に福島第一原発で行われたことを想起させる描写がこれでもかと盛り込まれている。9年前の広島・長崎と同年の第五福竜丸事件を想起する初代ゴジラに対し、シン・ゴジラが内包するのは5年前の原発事故そのものだ。シン・ゴジラは初代と同じく、確固たる核の象徴としてこの時代に見事な新生を果たしている。
核への目線で言えば、ヤシオリ作戦前の連合軍による熱核兵器の使用についての話はあまりに重い。祖国に3度目の核兵器をさせたくない、と言った瞬間のモノクロ画像の意味と重さは、核被害に遭ったこの国の人間だからこその実感を伴う。大人気なく声を荒げる外務省役人の憤怒も、その選択肢があっても選ぶことを嘆く巨災対のメンバーの悲嘆も、僕たちには近しく生々しい自分事として共感できる。『ゴジラより怖いのは、私たち人間ね』と誰に聞かせるでもなく出てきた言葉は、いつかのオキシジェン・デストロイヤーの皮肉にも近い。むしろ人類の愚かさ、という見方ではより最悪を行く。核への皮肉もアンチテーゼも、余すことなく生きた要素として物語に根付いている。
また日本神話的な当て込み方も見事だ。ゴジラを八岐の大蛇と見立て、八岐の大蛇を眠らせるために呑ませた八塩折という酒から作戦名のヤシオリ作戦。ゴジラにとどめを刺すのは、日本武尊が用いた剣である天羽々斬からとったアマノハバキリ部隊。ネーミングは露骨でもあるが、その要素は見事に合致している。またゴジラの持つ特徴が人間にとって福音になり得ることを示唆した上で、最後に凍結したゴジラの尾からは異形が現れている。八岐の大蛇の尾からは草薙剣が得られたが、人類はゴジラの尾に何を見出すのか……というオチまで、実にオタク心くすぐられる要素がある。新世紀エヴァンゲリオンにこれでもかとキリスト教やカバラのモチーフを多様し作品背景に巡らせることで鍛えた庵野秀明の面目躍如と言ったところか。個人的にはこの作品の要素配置はとても好みだし、原発であり八岐の大蛇であるという複数のモチーフをゴジラに担わせて成立するストーリーの骨子の強さは本当に驚嘆に値する。
あと造形面についてなんだけど、このシンゴジは今までのゴジラ造からするとかなり意図的な異質さを持っている。初代ゴジラは敵となる怪獣はおらず人間を広く見下すため、目は成虫よりやや両側に開いた位置にありつつ目線は下を向いている。意図の感じなさは若干ありつつも人間を見てはいる。それに対しシンゴジは目が完全に両側に分かれ、正面から見合うことを考えられてない。目は虚空を睨み、意図すらわからぬ視線には恐怖を覚える。人を個どころか群でさえ認識はほぼしていないだろう。頭の形は初代っぽい面影を残しつつも明らかに別種かつ異質な形相だ。手も上を向き、野村萬斎がモーションキャプチャで動きと命を宿したシン・ゴジラは、神や怪物といった空想めいたモノとして生物とはかけ離れた存在感を放つ。
設定や造形などからも、シンゴジは虚構としての濃度が極めて高い。複数のモチーフを持ちつつも成立しているのは、そのある意味での不確かさがあるからだろうと思う。そんな虚構がリアルチックに詰められたゴジラは、作品の最後で明確に対処できる実態へと姿を変える。
シン・ゴジラは虚構の物語だ。『現実 vs 虚構』のキャッチコピーの通り、これは日本という現実がゴジラという原発であり、災害であり、神である虚構の存在へ抗う物語だ。ゴジラは主役でありつつ、その話のメインはそれに抗う日本、ひいてはそれを動かす官僚の話だ。『日本のいちばん長い日』をオマージュした、解決策の作り方・抗い方、それに至るまでの過程そのものを娯楽としている。その最後、ヤシオリ作戦が開始されると同時に物語の虚実は反転する。
新幹線に爆弾を詰め陽動とし、無人機を囮にしてガス欠になるまで東京のど真ん中で放射熱線を吐かせ続ける。東京が誇るコンクリートジャングルを惜しみなく爆破し、ゴジラに叩きつけまくる。無人在来線爆弾で、今までゴジラに破壊されるだけだったインフラの逆襲だ。一気呵成の夢物語としか思えない冗談じみた作戦が、ハイテンションな宇宙大戦争のマーチをバックに高速で展開される。タバ作戦と比較したヤシオリ作戦の内容の奇天烈さ、メチャクチャさはここまで積み上げてきたリアリティを一気に崩す。抗うニッポンが虚構になった瞬間、ゴジラは対処されるべき災害・事故として、祓われる神としての現実的な側面を強める。全ては福島第一原発がこのように抑えられればいいのに、という期待にも似た希望を乗せて、ゴジラはついに活動を停止する。
最後は福音たる草薙剣を見出せるかわからない尾を写して、物語は終わる。凍結すれば終わりではない、祓えばもとに戻るものでもない。それこそ頭から尻尾の先まで、人類はゴジラと、核との付き合いをそれでもやめられないだろう。こうしてみると実に震災ムービーであり、核を上回る技術へ進むだろう人類への皮肉で締めた初代と、核とのやりくりをしていく未来の可能性を示すシン・ゴジラはやはり核ムービーとして、かなり似たエッセンスを共有していることがわかる。自分がシン・ゴジラを好きな理由は、たぶんここの核への目線がかなり初代に近しいからなんじゃないかなと振り返って思う。
なんだかんだシン・ゴジラについてガッツリ語ったのは初めてだからだいぶ長語りになってしまった。まだまだ語れることはあるが、一応この辺で次の『ゴジラ -1.0』に話を移そう。
・『ゴジラ -1.0』は大胆な挑戦者
そして『ゴジラ -1.0』について。とりあえずあらすじから。
というか正直言えば、マイゴジについては見た後に書いたnote(『ゴジラ -1.0』は予想を裏切る傑作だ)で散々語ったんだよね。なので語るところはあえて絞って、シンゴジと比較したときの初代との距離感などについて語りたい。
マイゴジは明確なアンチ『シン・ゴジラ』だ。多くのゴジラオタクが感じ取ったその空気は、複数のインタビューで山崎監督自身が肯定している。そしれこれは先のnoteでも触れた、大胆な挑戦だった。
現代から戦後へ、官僚中心から民間主体へ、組織的な対策の話から個人の清算の話へ。至る所にシン・ゴジラと比較しての差異を作ることに気が配られ、その上で物語のバランスを維持している。自分の得意分野である戦後と人情の話の土台に引きずり込んだとはいえ、ここまで見事な対立を描けるのはそうそういないだろう。シン・ゴジラが一般受けしながらもオタクムービーに徹したのに対し、マイゴジは実に一般受けが丁寧に施された作品だ。その結果と反響は今更語るまでもない。
このゴジラの特異な点は、今までの慣習を大きく打ち破ったことにある。それは時代設定だ。東宝には暗黙の了解として『1954年より前のゴジラは作れない』というものあった。初代が生まれた歴史的な話からすると、ゴジラのイデオロギーに関することだから仕方のないことだ。しかし今回、それがついに破られた。これを東宝のスタッフに言われ、その上で初の試みとしてゴジラを作ったことに関してはこの動画で監督自身の言葉として語られている。
そしてこの動画内でも指摘がある通り、今回のゴジラは他にも初となる要素があった。それは『時代設定を過去に飛ばした』ことだ。1954年にキャッスル作戦を契機に生まれが初代と、1947年にクロスロード作戦を契機に生まれたマイゴジ。この事実はゴジラオタクにとって驚愕だったし、革命的ですらあった。
今までのゴジラはその多くがその作成された時代でのゴジラを作り出していた。もう言うまでもない初代に、公害問題の時代に生まれた『ゴジラ対ヘドラ』や、遺伝子技術の進歩の中での『ゴジラ2000』などその時代を写してきた。設定が未来の作品なら20XX年設定の『ゴジラ FINAL WARS』などがあり、アニメ作品でなら2030年の『ゴジラ S.P』、遙か未来の『劇場版ゴジラ3部作』がある。アニメ2作はSFとしての作劇を生かすための未来設定であり、過去設定にするのはSFとは相性が良くはない。その中で自分の得意技を生かすため、何なら『大和も赤城も零戦もやったし、高雄出してぇ~!(意訳)』という理由で過去の時代劇を、それも初代も超えた先の時代に設定した。この決断と、それを許して今までの慣習を自ら壊した東宝の選択は慧眼だったというほかない。ゴジラはアメリカだけでなく日本でも自由度を増していることは、とても喜ばしいことだ。
またゴジラは何だ、という話をするならば『王道のモンスターパニック』であり、『戦争の恐怖』そのものだ。そしてその戦争は多くの人が歴史として巻き込まれた戦争という側面の他に、『個人から見た戦争と、その恐怖』という側面も併せ持っている。
マイゴジは人間ドラマの比重が多く、俯瞰的な事実より主観的な観測でゴジラが描写される。シンゴジがゴジラの被害を被災民や疎開民の数などのリアリティで以て描写する中で、マイゴジは個人の視点からの被害と個人のゴジラへ向ける感情が主軸だ。敷島にとってはゴジラは戦争での個人的なトラウマそのものだ。モンスターとしての圧倒的な生命体としての強さと恐ろしさ、トラウマの具現化としての悍ましさを敷島からの視点で見る。その結果としてマイゴジが描き出すのは、初めての未知なる悪意に対する等身大の恐怖であり、初代ゴジラが見せつけた核だけではないもう1つの面ーすなわち圧倒的な恐怖ーをより強めていると言える。その分で、初代やシンゴジと比較した時に核の恐怖という面はどうしても薄まっている。あの時代に科学者でもない民間人が核の恐怖を理解できていたかというと怪しいので、それ自体は優劣より選択の結果だと思う。そこに好みの差異が出るのはあるが。
マイゴジは核に囚われすぎず、慣例をも打ち破り、多くの人にゴジラを広めることに成功した。マイゴジを見たならばこそ、個人的には初代を改めてみて欲しいなと思う。初代に関わるから初代を見ろ!なんてのは一番嫌われやすい長年のオタク仕草だとはわかってるんだけど、まぁ許して欲しい。
・高くとも自由なハードルを越えてゆけ
3作について好き勝手に語り散らした。もちろんこれは自分のゴジラとの25年近くの歳月からの個人的な視点でしかないし、情報も確認した上で書いているがミスもあるかもしれない。それでも個人的なゴジラを一度まとめるのに、書くだけで価値があったと思う。これはあくまで自分にとってのゴジラ評だ。
『ゴジラ(1954)』は、時代が産み落とした社会の影だ。その影は70年にも亘る長い歴史の大きな1歩だった。
『シン・ゴジラ』は、現代に生まれ直した災害だ。核への目線を邪神かつ災害として描写し、それに抗いつつ付き合っていく社会を写した。
『ゴジラ -1.0』は、純粋な恐怖に回帰する回顧録だ。元の時代に迫り、要素の取捨選択で初代が振るった原初の恐怖を再生した。
初代とここ最近の2作は極めて近しく、それ故の差異が浮かび上がる。個人的には初代への思い入れはやっぱり強いし、だからこそ核への強いメッセージ性のあるシン・ゴジラが本当に大好きだ。でも次作がそれに付き合う必要はない。全てのゴジラに関わるクリエイターが初代への崇拝を義務的かつ同等に持つことに意味なんてない。
次のハードルが高いのは言うまでもない。それでも(きっといるであろう)次のクリエイターには、自由にゴジラを創ってほしいと心から思う。たとえそれが評価を得難いものであろうが、僕らはゴジラへの愛でもって作品を楽しみたい。この高くとも自由なハードルをどんな形で越えようとしてくれるのか、それを僕らは心待ちにしている。