
伊那の七谷ってどんな谷?
勘太郎を刻んだレコードとフィルム
1943年(昭和18年)2月(または1月)にレコード「勘太郎月夜唄」が日本ビクター蓄音器株式会社から販売された。歌は藤原亮子と小畑実、作詞は佐伯孝夫、作曲は清水保雄で、B面は市丸の「天龍二十五里」である。その半年前には同じ歌手、同じ作詞者と作曲者で「婦系図の歌(湯島の白梅)」を売り出しているから、「勘太郎月夜唄」は二匹目の泥鰌を狙ったものかもしれない。しかも、どちらもそれぞれ東宝映画「婦系図」(マキノ正博監督、1942年6月公開)、「伊那の勘太郎」(滝沢英輔監督、1943年1月公開)の主題歌としてタイアップされた曲でもあった。映画のほうの主演はどちらも長谷川一夫と山田五十鈴のコンビであり、このコンビネーションも1938年以来だから、息の合った二人ともいえるし、観客からすれば見慣れた二人が次はどんなことをしでかしてくれるのかという楽しみはあったかもしれない。トップスターを起用したこの「伊那の勘太郎」という東宝の主力作品は、太平洋戦争の真っ只中、ミッドウェー海戦からガダルカナルへと戦況が傾きつつある頃に制作され、お正月におめでたくも公開されたことは抑えておきたい。
月夜唄の歌詞が放つ鈍い光
愛唱歌「勘太郎月夜唄」は、「影かやなぎか 勘太郎さんか 伊那は七谷(ななたに) 糸ひく煙り」という歌詞がいの一番にくる。影も柳も先行した「湯島の白梅」の歌詞に登場するから、伊那と江戸の湯島は場所は違えど、詩が結ぶイメージはやや踏襲されている。
三番の歌詞「菊は栄える 葵は枯れる」は穏やかでない。このフレーズは、昭和初期の時局と幕末の政情が重ね合わせたものと考えられ、それなりに流行したらしく、既に、国枝史郎の「娘煙術師」(1928年)や吉川英治の「松のや露八」(1934年)の大衆的な作品でも使われている。
天狗党は、幕末に勤王極右の勢力として水戸から京の一橋慶喜のもとへと西上を試み、伊那谷を南下していく際に、勘太郎に助けられたという創作がある。この創作に因むことによって「勘太郎月夜唄」の「菊は栄える」の詞がいきてくる。映画「伊那の勘太郎」の大筋にも天狗党の事件が織り込まれている。このように幕末の維新やナショナリズムの精神風土に育まれた義侠の勘太郎の設定には、伊那谷で花開いた平田国学の影響も感じさせる。
続く歌詞の「桑を摘むころ」の桑は、皇室と国内産業(養蚕業)を繋ぐ植物である。
「一本刀」も怪しげな光を放つ提喩的な表現で、侠客の異称でもある。勘太郎の一連のシリーズの源流にもあたる長谷川伸の作品群のうちには「一本刀土俵入」(1931年)という戯曲もある。のちのやくざ映画でも重要なアイテムとなる匕首やドスの前身として、勘太郎には一本刀が添えられているようである。
二番の歌詞に目を向けると、「こころの錦」は「襤褸は着てても心は錦」の慣用を踏まえつつ、「錦の御旗」や「故郷に錦を飾る」にも通じ、太平洋や中国大陸の戦地へ赴く兵士たちが携えたであろう錦の御守袋を連想せずにはいられない。
勘太郎という義侠のイメージを介して、1943年の帝国や戦局は国民に繋がれ、幕末以来の騒擾とその鎮圧に奮われた暴力が勘太郎の観客と聴衆の血を騒がしている。それにしても、佐伯孝夫によって作詞された「湯島の白梅」や「勘太郎月夜唄」の一連の歌詞の中でも、とりわけ「七谷」は解せない。
近代詩にみる七谷やら何やら
地元伊那で昭和30年代から勘太郎に注目し、「伊那の勘太郎の会」を主宰してきた酒井一雄も「七谷」に疑義を抱いており、作詞者の佐伯に質してみたかったという。
飯田蛇笏には「一寺領七谷植うる木の実かな」(1907年)の句がある。北原白秋は詩集「邪宗門」(1909年)で「蟻」と題した詩を「人界(にんがい)の/七谷(ななたに)隔て、/丁々(とうとう)と白檀を伐(う)つ斧の音(おと)。」と結んでいる。古代から中世、近世にも用例は確認できておらず、近代においても「勘太郎月夜唄」以前には用例の少ない「七谷」であるが、この語句どのような境地にあるのだろうか。
「七つの谷」としてみると、芥川龍之介には「きりしとほろ上人伝」(1919年)に「まいて手足はさながら深山(みやま)の松檜にまがうて、足音は七つの谷々にも谺(こだま)するばかりでおぢやる。」として、「れぷろぼす」こと「きりしとほろ」の小山ほどの大男ぶりを表現している。「古事記」において、ヤマタノオロチを「亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而」と描写する一節があるから、芥川はこの「八谷」を踏まえて「七つの谷々」と続けたのかもしれない。柳田國男は「山の人生」(1925年)の中で狩猟者の祭文として伝わる伝承の中に「是より丑寅(うしとら)の方にあたつて、とふ坂山といへるあり。七つの谷の落合(おちあい)に、りう三つを得さすべし。」と約される部分を採録している。
童話や童謡を掲載していた「赤い鳥」は、「七谷」あるいは「七つの谷々」を用いた北原白秋と芥川龍之介が創刊時から寄稿しており、佐伯孝夫の師である西條八十も童謡などを発表している。しかし、西條が歌詞に「七谷」などを使用したかどうかは確認できていない。北原白秋の「七谷」の用例のように高踏的でもあり、芥川や柳田のように神話的な位相にもある「七つの谷(々)」を、佐伯が「七谷」として採用したきっかけはどこにあったのだろうか。
股旅、七度までに及ぶ
再び「勘太郎月夜唄」の歌詞を詠むと、その詞が7-7-7-7に7-7-7-5と続く定型詩となっており、さらに7-7は3-4-4-3に分解され、そのリズムが続いたあとで、最後に3-4-5と終わる音数律によって構成されていることが分かる。都々逸や甚句に似た形式をもち、そのため「伊那は七谷」という詞は、音節に対し曲の音符の数が多いようにも感じられ、不思議な魅力がある。
また、一番の数小節は、ka-ge-ka ya-na-gi-ka ka-n-ta-ro sa-n-ka i-na-ha na- na-ta-ni と21音の中に「か ka」が5音もあり、「な na」の4音のほか母音aは21音中14音にものぼる。この「か」が押される押韻の印象は強烈で、「糸ひく煙」の母音iへの連なりも技巧的である。
しつこい、とも言えるような「か」へのこだわりは、後にみるように勘太郎という股旅あるいは旅がらすの通称にも通じるが、その前に「伊那の七谷」の「な」の連続について考えてみたい。
既にみたように当時の時局に照らせば、「七谷(ななたに)」は、音こそ異なるが、大東亜に長すぎるほど展開された前線でのスローガンとしても多用されていた「七生報国(シチショウホウコク)」のイメージに付き纏われている。「勘太郎月夜唄」は全3番を通して、月夜の情景を歌っているように感じられる。2番の「晴れ姿」や3番の「紅つつじ」は昼間に映える点景としても詠めるが、月夜に照らされ、川霧に消えようとする男女の姿にも見える。そして歌詞の丁度中間にあたる「生まれ変って」が歌詞の心情を二分しており、前半のダークな侠客気分が後半の大義のためにいじましくも義侠を正統化して旅に向かおうとする姿に再生されている。
七生は、七たび生れかわることを意味し、勘太郎にとっての七生は、義侠を発揮して、各地を転戦して戦死しながらも、七度と言わず、何度でも生まれ変わり、戦いの旅を続けることであった。「太平記」の楠木正季は、カラカラと笑って「七生(しちしやう)まで只同じ人間に生(うま)れて、朝敵(てうてき)を滅(ほろぼ)さばやとこそ存(ぞんじ)候へ」と呪いの言葉を吐き棄てると、兄の正成も嬉しがって同様の思いを告げ、この健気な兄弟は互いに差し違えて死んでいる。この有名な場面の前の戦闘中においては「正季と正成と、七度(しちど)合(あひ)七度(しちど)分」かれていて、敵を撹乱している。正季は七郎でもあり、生まれても死んでも、会っても別れても「七」から離れることができない。
映画「伊那の勘太郎」は、長谷川一夫が演じる勘太郎が天狗党の分隊「原田隊」から落伍した一人の傷ついた兵卒をおぶって、分隊に合流する場面から始まる。はためいている幟には「報国赤心」の文字が見えている。あるいは「赤心(セキシン)」が後に「七生(シチショウ)」へと転訛したのかもしれない。いずれにせよ、簀巻にされ川に投げ棄てられ死んだはずの「影」のような勘太郎が「生まれ変って」、傷痍兵を背負って川を遡り、わたしたち観客の前に登場している。その勘太郎の姿は、劇中でも幽霊ではないかと疑われているが、戦線で死んでは生まれ変わり彷徨う兵士を彷彿させ、内地の故郷においては戦死した誰かの遺影が重ねられ、故事を知る者にとっては「太平記」の兄弟たちが何度か目に生まれ変わり、あるいは何度も何度も出会いと別れを繰り返しながら、敵を滅ぼそうと現れる怨霊として現れている。
したがって、伊那の七谷(ななたに)は、七度(ななたび)の長旅の末の心象風景であったのかもしれない。
ところで「伊勢へ七度(ななたび) 熊野へ三度(サンド)」という成句がある。近世に盛んだった伊勢参りから派生した慣用には違いないが、近代以降の伊勢神宮の地位を踏まえれば、「伊那は七谷」は「伊勢へ七度」の地口のような遊び心によって生まれた詩句であったようにも考えられる。
旅がらすとホトトギス
「七つ」といえば、野口雨情の「七つの子」(1921年)が思い浮かぶ。この詩も「烏」や「可愛」の「か」の頭韻が効いていて、「な」や「あ」の母音にも押韻の力を感じる。この「七つ」も謎とされ、烏の子の数なのか、子の歳なのかという議論がある。例の勤王兄弟のうち正季の末を自負する野口雨情の半生は、ひと世代30年早く生まれていれば十分に侠客的であるし、「七」は彼にとって特別な数字であったには違いない。烏の子は、ほかでもない「赤子(せきし)」であって、「山の古巣」は、義を抱いた者たちが赤子と生まれ変わる場でもあった。
勘太郎は、旅がらすであり、旅装に一本刀を忍ばせていたが、「ほととぎす」も赤い血を吐く鳥として不穏な故事を纏う鳥でもある。万葉の昔から歌に詠まれたほととぎすは、「月」や「しのぶ(偲ぶ)」といった語とも共に現れる。
唐の李白(701-762)の「楊花落盡子規啼聞」(楊花落ち尽くして子規啼く)によって、「勘太郎月夜唄」1番に見える「柳」と「ほととぎす」の組み合わせは、漢詩をこなす者にはよく知られた題材ではあった。近代に入っても鳥類のうちでほととぎすは、文学界に頻出する鳥であった。正岡子規(1967-1902年)は自らの喀血に因んで「子規」(シキ、ほととぎす)と号している。徳冨蘆花は「不如帰(ほととぎす、フジョキ)」(1900年)でベストセラーをものにしている。芥川竜之介は「忠義」(1917年)で時鳥(ほととぎす)に特異なポジションを担わせ、狂気とともに扱っている。国枝史郎の「紅白縮緬組」(1924年)では、紅縮緬で覆面をした暁杜鵑之介(あかつきほととぎすのすけ)という若衆のヒーローを登場させている。谷崎潤一郎は「吉野葛」(1931年)の中で、ほととぎすのことを「昔の人があの鳥の啼く音を故人の魂たましいになぞらえて、「蜀魂(しょっこん)」と云い「不如帰(ふじょき)」と云った」としている。
もちろん、忘れてならないのは、正岡子規に因んだ文芸誌「ほととぎす(ホトトギス)」であるが、この雑誌は日本の近代文学の来し方を示していた。鈴木三重吉は「赤い鳥」を1918年に創刊する以前、既に同名の小説「赤い鳥」(1911年)を発表しており、彼が雑誌「ほととぎす」で本格デビューした作品は「千鳥」(1906年)であった。
柳田國男は「野鳥雑記」の中で時鳥に多くの項を割いている。「時鳥(ほととぎす)の啼き声には、どういうわけでか哀愁を催すような話が多く伴のうている」とした上で、「昔々時鳥と郭公は兄弟でまたは姉妹で、誤って一方を殺して悔い嘆いて鳥になったという類の口碑が、少なくとも国半分に拡がっているのである」とその伝承の国内での広がりを指摘し、吉野川の流域では時鳥と百舌(もず)の交渉として「昔時鳥は馬の沓を造る職人で、百舌はその友人の馬方であった。何遍なんべんとなく時鳥の作った沓を借倒かりたおして」という話を採集している。長谷川伸の「沓掛時次郎」(1928年)は故郷を信州は中山道の追分宿と称し、その隣の沓掛宿の地名を姓に持つ。柳田は、ほととぎすの「異名を沓手鳥(くつてどり)という如く、かつてはトッテカケタカの代りに、「沓手掛けたか」と子供やその爺婆に啼いて聞かせた時代があって」と説いており、その聞きなしに照らせば、「時次郎」は「時鳥」をトーテムに持つ博徒であったのかもしれない。
ほととぎすは、包丁や刃物とも関係が深く、時鳥と郭公の関係は、あの太平記の楠木兄弟のようなボーイズラブあるいは近親相姦な関係をも連想させる。しかし、柳田が同じ「野鳥雑記」で、「烏はかアかア勘三郎/雀はちゅうちゅう忠三郎/とんびは熊野のかね叩たたき」という子どもの囃を採集していることからも、勘三郎や勘太郎は、やはり「からす」の影を纏っており、三度笠(ヘルメット)に道中合羽(マント)の姿で、一本刀(ダガー)を腰に差し、街道筋を飛び回っているヒーローのように感じられる。
増殖する勘太郎の兄弟やその友たち
1927年に日本でも公開されたアメリカ映画「第七天国」は、1934年に監督やキャストを変え再度映画化され、やはり日本でも上映されたから人気のある演目でもあったようである。「第七天」は中東の古い信仰に根差した天国の形を指し示しているが、「七つの海」はどのような地理に基づくのであろうか。1931年12月と翌年2月にまたがって二部構成で公開された映画「七つの海」は、牧逸馬が1931年に毎日新聞で連載していた同名の作品を原作としている。「勘太郎月夜唄」の「七谷」以前に「七つ」の天や海は、世界の高さや広さを示しており、「七谷」はその襞の深さによって世界に陰影を刻み始めていた。
勘太郎らの生は、七谷ほかの深山幽谷を有する日本列島で七度かそれ以上、亡霊や霊魂のように繰り返されてことは先にみた。
20世紀中葉に、本に印刷され、レコードに刻まれ、フィルムに焼き付けられた勘太郎らはさらに飛躍的な増殖を遂げる。
長谷川伸の戯曲「勘太郎月の唄」(1931年)に「講談倶楽部」に掲載され、その年、市川猿之助により東京劇場で上演され、1936年には日活により映画化された。映画の脚本は、その7年後に公開された「伊那の勘太郎」で共同脚本を担当する三村伸太郎によって書かれ、勘太郎を尾上菊太郎が演じている。「勘太郎月の唄」の勘太郎は、伊那の勘太郎ではなく、左官の勘太郎である。勘太郎は、クライマックスで、表向きは煙草屋を営みながらも裏ではいかさまの賽を製作している権三と対決し、匕首を手にアクションを演じている。長谷川は、股旅や職人を扱った戯曲などを数多く手掛けているが、様々な太郎(または次郎)が登場する映画の原作だけでも、「人斬伊太郎」(1930年ほか)、「番場の忠太郎 瞼の母」(1931年)、「沓掛時次郎」(1934年ほか)、「関の弥太っぺ」(1935年ほか)、「木曽の風来坊」(1955年、主人公は「佐久の佐太郎」)、「飛びっちょ勘太郎」(1959年、原作「勘パの勘ちゃん」)、「いれずみ半太郎」(1963年)などがある。
映画に見える勘太郎のつながりでは、「勘太と久太」(1930年、原作の小仏浩は山中貞雄の筆名か?)、「突貫勘太」(アメリカ映画「Palmy Days」の邦題、1931年)、「当たり屋勘太」(アメリカ映画「Strike Me Pink」の邦題、1936年)、「勘太郎月夜唄」(1952年)、「伊那の勘太郎」(1958年、大映)があり、「帰ってきた勘太郎」(1956年頃、日活)は企画のみに終わっている。1927年の「忠次旅日記」は国定忠次(忠治)の物語であるが、勘助の息子勘太郎が登場している。佐太郎関係では、「無宿佐太郎」(1933年、原作は御荘金吾)、「闇の佐太郎」(1933年)、「雨の佐太郎船」(1934年)、「晴れ姿 伊豆の佐太郎」(1953年)、「名月佐太郎笠」(1955年、原作は陣出達朗)、「清水の佐太郎」(1958年)、伊太郎関係では、「気まぐれ伊太郎」(1934年)、「伊太郎獅子」(1955年、原作は)、「旅がらす伊太郎」(1956年)がある。小金井小次郎は、1915年以降、1940年までに6回ほど映画化されている。蛇足ではあるが、「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」(1972年)でキングギドラを演じ、殺陣師としても活躍している伊奈貫太もいる。伊奈かっぺいも、その芸名は田舎(いなか)をもじったようにもとられるが、ともすると、伊那の勘太郎と流派を共にしているのかもしれない。
歌では、「旅姿勘太郎」(1949年)、「勘太郎月夜」(1951年)、「勘太郎天竜唄」(1956年)、「勘太郎いつ帰る」(1968年)、「伊那の勘太郎」(1997年)、「天竜しぶきの勘太郎」(2003年)、「勘太郎しぐれ」(2006年)、「勘太郎笠」(2013年)がある。西條八十は「伊豆の佐太郎」(1952年)、「江戸の闇太郎」(1957年)の作詞をしている。橋幸夫は、「潮来笠」(1960年)の伊太郎を始め、「沓掛時次郎」(1961年)、「佐久の鯉太郎」(1967年)など、佐伯孝夫の股旅を題材した詞を多く歌っている。「銀座カンカン娘」(1949年)も映画とのタイアップで、佐伯は作詞を手掛けているが、この「カンカン」が勘太郎たちの「カン」と無関係に成立できるかどうかは再考の余地があるだろう。また、1972年の「北風小僧の寒太郎」は井出隆夫の詞であるが、ひとり勘太郎のみならず、信州や上州を闊歩した侠客たちが切っていた風を感じさせる。
小説では、林不忘(前記の牧逸馬の別名義)は「魔像」(1930年)の中で、「知らずのお絃」のお供として「どもりの勘太」(吃勘、どもかん)を登場させている。また、新美南吉の「ごんごろ鐘」(1942年)の中にも「どもりの勘太爺さん」が現れる。歌舞伎の「傾城反魂香」の絵師「吃又(どもまた)」との関係は不明であるが、勘太や勘太郎にはカラスの渾名以外にも特別な謂れがかつてはあったのかもしれない。「ゲゲゲの鬼太郎」の原型となった墓場奇太郎は、1933年頃の紙芝居に現れていたが、後の鬼太郎の姿はどこか侠客を感じさせる。鬼太郎も履いていた下駄は、バンカラの象徴でもあるが、雪駄や草履とともに侠客のファッションでもある。また、鬼太郎は少年であるため袖がない羽織の「ちゃんちゃんこ」であるが、洋装が正装となり始めた明治時代のある時期において、羽織はならず者や侠客の印象を帯びていたのかもしれない。
戦国時代に遡れば、伊那のほど近く美濃の恵那には、苗木遠山氏の勘太郎(直兼か?)がいた。伊那の勘太郎との関係は不明である。
「勘太郎月夜唄」でも、勘太郎は「勘太郎さん」と呼称されている。映画「伊那の勘太郎」を観ていると「勘太郎さん」のほかに「勘太さん」とも「勘さん」とも呼ばれ定まらない。戯曲「勘太郎月の唄」でも「勘さん」に加え、義兄弟の助三らに「勘ちゃん」と親しまれている。車寅次郎が柴又に生活する市井の人々にとって「寅」でもあり「寅ちゃん」でもあり「寅さん」でもあったように、勘太郎も街道の人々と様々な関係を築きながら、しかし概ね皆から慕われ、親しまれ、愛称で呼ばれていた。長谷川伸の股旅物に登場する職人や遊侠たちには、そのほとんどの男たちに子どもがまとわりつく。子どもは何らかの事情で両親や片親を失っているためでもあるが、旅する股旅たちは、一種の母性でその子等を保護する。長谷川一夫が「伊那の勘太郎」や「勘太郎月夜唄」の映画で演じる勘太郎もどこか女々しい一面を備えている。つまり「勘さん」や「勘ちゃん」は、「母さん(かあさん)」や「母ちゃん(かあちゃん)」でもありえた。映画「伊那の勘太郎」や流行歌「勘太郎月夜唄」が戦地に赴いた兵士たちの心に宿り、故郷や母と「影」で連絡を取り合っている勘太郎を、隣人、兄弟、友達のように愛したのもうなづける。勘太郎の中の母は、それが実の母でないからこそ、追慕の対象として、あるいは母的な動機として、普遍性をもちえた。天皇を象徴とする父権的な帝国が勘太郎たちを増殖することができたのも、勘太郎たちがそれぞれの自己愛を義理の母として機能させ、自ら生殖していたからでもある。大地を破り亀裂する七谷は、どうやら勘太郎たちの母胎でもあったようだ。
伊那節へ、伊那谷へ
「勘太郎月夜唄」は、伊那節の歌詞も踏まえた作詞がなされているが、本稿はそこに触れる手前で筆を擱きたい。また、伊那谷を地理学的に眺めたとき、その支谷(枝谷)として「七谷」が見えてくる可能性はあるが、いずれ稿を改め、「伊那谷」は、地形的にあるいは歴史的に、いつから「谷」になったのかを考察するつもりである。
参考:
長谷川伸/長谷川伸傑作選 瞼の母/2008年/国書刊行会
伊藤春菜/「勘太郎」とは誰なのか? 伊那谷の幕末維新と天狗党/2014年/信濃毎日新聞社
柳田國男/野鳥雑記/1926-1939年