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0歳で2度の「死」を乗り越えた私が思うこと【流産診断】【聞こえない産声】

「赤ちゃんの鼓動が聞こえません」


私を身ごもった母が、
妊婦健診で医師に言われた言葉。

母は泣き崩れ、生きた心地がしなかったとか。
その話を聞いた父も、相当ショックだったでしょう。

期待と喜びに満ちていた日々が、一変してしまった。
その光景を想像するだけで胸が締め付けられます。

「次の健診で堕胎の手続きを進めましょう」

その言葉を聞き、
母はそれでも祈ることしかできなかったと言います。

生まれたばかりの命の存在が、
一瞬で消えてしまうかもしれない。

その絶望感の中でも、母はお腹をさすりながら毎日、
私の名前を心の中で何度も呼びかけていたそうです。

そんな母の祈りが届いたのか、
次の健診で医師が発した言葉は
驚きに満ちていました。

「…あれ、赤ちゃん元気そうですね」

鼓動が戻り、私が生きていることを
確認した瞬間の安堵と喜び――
母の表情が目に浮かびます。

結局原因はわからず、
「とんだお騒がせ胎児」だったと
今ではすっかり話のネタです。

このエピソードを
はじめて母から聞いたとき、私は

「私は死を乗り越えた、奇跡の子なんだ!」

と思いました。

だって、流産の診断をされた時点で
私は死んでいたも当然。

そこから、何かしらの奇跡が起こって
生き返ったとと考えると、
今私が生きていること自体が奇跡だと思ったのです。

2分経っても聞こえない産声


奇跡はそれだけではありませんでした。

出産時、私は産声を上げず、吐血をしたそうです。

帝王切開で生まれた私は、
産声を上げないまま医師の手に抱き上げられました。

麻酔で意識の薄れた母の耳には、
いつまでも泣き声が届きません。

1分、2分と過ぎる中、母の胸を締め付けたのは
「また失ってしまうかもしれない」という恐怖。

ようやく3分後、小さな泣き声が聞こえ、
母は涙を流したそうです。

しかしその後すぐに、
私はNICU(新生児集中治療室)に運ばれました。
吐血をしたので、検査が必要だったのです。

保育器の中で過ごした日々は、
家族にとってどれほど長い時間だったでしょう。

保育器から出て、
はじめて母の胸に抱かれたのは
生まれてから6日後。

はじめて母の胸に抱かれた日

退院したのは生後11日目。
体重はわずか2882gでしたが、
私の命の灯火は確かに強く輝いていました。

退院し、はじめてお家に帰る日

二度、死を乗り越えた命


「生かされた」命。それが私にとっての原点です。

出生前と出生時、私は二度死にかけました。
心臓が止まりかけ、
生まれてからも命の危機を迎えた。

それでも今、24歳の誕生日を目前に、
健康な日々を過ごしているのは
何かしらの力が私を生かしてくれたから
だと思っています。

生かされたからには、
私は自分の人生を生きる意味があると思うし、
最後まで全うしたいと思うのです。

そして今、私には
2歳3ヶ月の可愛い息子がいます。

私が経験した奇跡があるからこそ、
息子が無事にうまれ
スクスクと育っていることを
より一層「奇跡」と感じます。

息子の寝顔を見つめるたびに、
この小さな命が持つ可能性と、
その命を守れる幸せに感謝せずにはいられません。

私(23歳)と息子(2歳3ヶ月)

生きづらい世の中で「生かされた」意味


現代社会では、生きることが苦しくなる
瞬間が誰にでもあるでしょう。

絶望に飲み込まれ、「命を捨てたい」
と思う日が来るかもしれません。

でもそのとき、どうか思い出してほしい。
生まれる前、生まれた瞬間、
私たちはすでに
「生かされた」という経験をしているのだと。

その命には意味があり、
今ここに存在していることそのものが奇跡なのだと。

私たち一人ひとりが背負う命には、
まだ見ぬ未来が詰まっています。
その未来を全うするために、
私は今日も生きています。

そしてこれからも、息子とともに
奇跡を紡いでいきたいと思っています。

どうか、産まれた時点で
「生かされた」という過去がある
ことを
忘れないでいてほしいなと思うのです。




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もる🌹24歳フリーランス
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