【推し活】もしかして、それって…?
noteで読まれてから日数が経ちました
地味に読まれているこれからかなり日数が経ちました。未だに通知が来るたびにドキドキしてます。参考までに貼っておきます。
あれからどうなりました?
あれから色々拗らせてる。それは過去のnoteを見たらわかる通り。同担拒否はしないなんていってるけど、ザワザワする感情を優先にすると同担拒否してもええねん!くそ!と言いたくなる。でも、いい年した大人がそんなことするメリットは何もないので、リアルであったら挨拶をする程度にとどめてる。
この記事によると、同担拒否は過去の人間関係で感じた傷を守るために選んだ方法じゃないかと書いた。
よく学生時代の友達は一生の友達、なんていうけどそれは現実的には難しくなっていく。ライフステージが変わった途端、会話のメインディッシュが変わり、生き方が異なったら合わなくなることもあるからだ。それでも付き合うか、別の道を選ぶかはその人次第だと言える。
後者を選んだ場合、『好きなもの』つながりで出会えた友達が「推し活通じての交流」といえる。けど、『好き』でつながってるだけでわかりあえない部分が生じることもある。『推し』への感情だ。
『推し』とは
もともと『推し』は「人やモノを薦めること、評価や応援したい対象として挙げること、そうした評価の対象となる人やモノのことを意味する表現」(weblio辞典より)のことを指す。自分の好きなものを何らかの形を通じて、第三者に勧めるものだ。しかし、この表現通りにいかない人も中にはいる。『ガチ恋』『リアコ』もそうだといえる。そこに派生するのが『同担拒否』で、「第三者に勧める」という行為を最初から拒否しているといえよう。
そもそも『ガチ恋』『リアコ』は、本格的な恋愛感情が入り交ざっている。根底には、幼い頃の「私の●●ちゃん取っちゃダメ」という独占欲があるのではないだろうか。否定されて、傷ついた過去(トラウマ)を引きずり出されて、「私の推しをとらないで」「誰にも渡したくない」という感情が溢れてしまうのだ。それが同担拒否に発展する。
私が感じたこと
同担拒否にはならないが、私自身最近までモヤモヤする感情があった。SNSで撒き散らかされたアカウントを見て、「…なんか嫌だな」というのが出てきた。リアルで会わない分、どんな情報も捏造する事になってしまう。捏造が妄想になって、頭の中をおかしくさせていたのだ。そんな矢先に、推しつながりの友人とメールしたときに、不意に彼女から出た言葉にハッとした。
「くーさんとか、●●さんとかにいえるけど、年齢不詳だとおもうことがあります」と…ここでいう●●さんというのは私が嫌悪感を出していた相手だった。多分、薄々気づいてたのかもしれない。
「はて…?」と某朝ドラみたいなセリフを吐きながら、あれこれ考えてみた。私の知ってる●●さんは、外見的に年代が近い(多分、あちらが世代的に下)が、ハキハキ言うタイプだ。行動も起こす。アウェイ遠征もするし、住まいのある地方からホイホイ出てきちゃう。このフットワークの軽さが私にないものだった。
一方、私は軽率にアウェイ遠征もしないし、ホームゲームも体調優先にしていることが多い。ただ、公開練習があれば見に行っちゃうこともあるけど、それほどアクティブではないと思ってる。どちらかというと頭で物事を考えがちなタイプだ。
しかしSNS越しで見ると、その人と私は近い文章を綴ってることがある。
――もしかしたら、同族嫌悪なんだろうか?
そんな言葉が浮かんできた。
同族嫌悪とは
人間は、近い感情などがあると嫌悪感を出すことが多い。鏡を見るように、自分自身を映し出すからだ。鏡は先に笑わないが、対象者が笑えば同じように反応する。自分自身の姿見をみると、どこかに彼女と近い部分があるのかもしれない。
そこが嫌いな部分だと尚更だろう。私が嫌っている部分が、彼女の姿を借りて映し出している。文章の綴り方や行動や、立ち振る舞いなどみてて嫌悪感を出しているというのは、自分もそういうところを持っているからではないだろうかと。
近年、自己受容という言葉が当たり前のように湧いてきて、歌詞にもあるように「ありのまま」というのが席巻した。もしかしたら、嫌いな部分も受容すればいくらか進歩するのかもしれない。
もしかしたら、同担拒否も同族嫌悪の一種なのかもしれない。