『斑鳩への旅 その5』

《斑鳩への旅》《8》
《斑鳩27》
「文明の消滅の折にはよくあることだ。よほど怖かったのだろうな。ミノア文明を滅ぼしたアカイヤ人はミノアの神々をことごとくおとしめた。だが、民は滅ぼせても、民の魂の芯にある想いまでもたやすく滅ぼすことはできない。神々は人々の心の内に世代を越えて長く長く影響を与え続けるものだ。そして、想像を絶する速さで各地に伝播する。」
「まるでヒトの魂に宿る非常に生命力の強い生命体のシステムのようですね。」
相馬は少し考えて、自分の肩に近い右腕をそっと押さえた。
「つまり……、消え去ることができないのならば、どうするか、ですね。」
「どうすると思う?」
「存在をおとしめ、不吉のレッテルを貼り、人々の心の中から追い出そうとする…。」
そう言いながら相馬は、新吹が書いたホワイトボードの文字を改めて見つめた。
新吹は小さくうなずいた。

《斑鳩28》
「ハルピュイアと同じイメージの迦陵頻伽だが、遠く離れた東洋ではそのさげすみをまぬがれ、長く魂の浄化や、仏の世界へ導く清らかな、聖なる声のシンボルだった。仏の世界へ導く…というからには、多少死の匂いも感じなくもないが、そこにはまったくさげすみのイメージはない。類型的にはむしろ神聖なもののシンボルの類いだ。とても美しい声の持ち主で、その声は比類無き美声だと言われてきたのだよ。」
「“迦”は、美しい声、声の非常に美しいもの……の意味というわけですか。」
「流れとしては、意味がもっともしっくりいくとは、思わないか?」
「“憂流迦”とは、“憂いを流し清めるほどの美しい声の存在”という意味にも取れるのですね…。」
相馬が言うと、新吹はホワイトボードの上の“憂流迦”の文字に大きく丸を書いた。
「そうだな。そしてもしそうならば、その言葉がどうして不吉なものの予兆になるというのか……。

《斑鳩29》
……これもまた、ある時、人為的に意味が付加され、変えられたとは思わんか。あるいは、その言葉の身辺に不幸な事件を撒き散らし、拡散させ、その名を貶めていった心悪しき者たちがいたのではないのか……。」
相馬は手に持っていた銅鏡をゆっくりと新木の机の上の桐の箱にしまった。
「本来の、憂流迦という名は、なんだか随分とロマンチックな名前なんですね。」そう一人つぶやき、相馬は以前自分の傷ついた上腕にネクタイを巻いた時の、初めて身近で聞いたウルカの美しい声を思い起こした。
「それが、天空を駆ける流れ星の古い名前なんですね。」
「美しい声と、雷鳴のごとく轟音をとどろかせて天空を駆ける、輝く長い尾を持つ流星だ。」
それを聞いた相馬は、ホワイトボードの前に立つ新吹に向かって、明るい表情で一礼した。「先生、ありがとうございました。おかげでちょっとすっきりしました。」
「なんだ、ちょっとか…、つまらんな。」

《斑鳩への旅》《9》
《斑鳩30》
そう言って、新吹はホワイトボードの文字をさっさと消した。
相馬はふと銅鏡の箱の横に置かれてある小さな彫像に気がついた。
「先生、これは?可愛いですね。」
「ああ、それは麒麟だ…。」
「麒麟ですか…?へぇ、いつの時代のものですか?やはり、5・6世紀ですか?」
「たてがみのところを見ろ、わずかに五色の彩色が残っている。その銅鏡と一緒に出土した。保存状態は最高だ。」
「様々な形で、何かを残そうとしているんですね……。」
相馬が言うと、
「何かを伝えようとしているのさ。時を超えてな。懸命に、空間を越えて、時を越えて、人の想いと想いを連ねて……な。」
と、新吹は答えた。

《斑鳩31》
「先生…、実は、お願いがあるのですが。」相馬は真剣な眼差しを新吹に向けた。
「なんだ、また貸して欲しいのか…。」
「はい、、3ヶ月でいいんです。ちょっと試してみたいことがありまして…。」
すると新吹は銅鏡をしまった桐の箱を、無造作に相馬に手渡した。
「行き場所はそいつが決める。嫌ならまたここに戻って来るだけだ、持ってゆけ…。」
相馬はパッと明るい笑顔を作った。
「ありがとうございます!今度こそ、必ず良い結果をご報告できるかと思います。」
その言葉を聞き終わらない内に、新吹はさっさと相馬たちに背を向け、元いた薪割りのコテージの裏手へ消えてしまった。

《斑鳩32》
その後ろ姿を見て栗原はあっけに取られていた。
「いいんですか?こんな簡単に貸してくれるんですか?その、契約書とか…、なんかジュラルミンケースとか、要らないんですか?ある意味、国宝級のお宝ですよ…。」
「ああ…、これでいいんだ…。」
相馬は桐の箱をコートと一緒に軽々と小脇に抱えた。
「嫌ならこいつはさっさと戻ってしまうからな…。」

※参考文献:『幻想世界の住人たち』(健部信明と怪兵隊 )新紀元社
『天狗のイメージ生成について 十二世紀までを中心に』(伊藤信博)より『天法念處経』『大正大蔵経』『大荘厳論経』の記述を参考にさせていただきました。

――続く――

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