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横浜赤レンガ倉庫が愛される理由

こんにちは!陽詩ユウです。

社会人になって早くも2週間が過ぎましたが、日々学ぶことが多くてとても大変です(汗)この前は、上司と一緒にお客様の所へ伺い、上司のプレゼンを間近で見てとても勉強になりました。私も早く人前でプレゼンが出来るようになるぞ!

私の社会人奮闘記はこれくらいにして、横浜ステキ情報をお伝えします♪

今回皆さんにお届けする横浜ステキ情報は、横浜赤レンガ倉庫です!

何の建物なの?

海の潮風を感じながら、横浜の歴史に触れたり、ショッピングや食事もできる赤レンガ倉庫。横浜の名所の一つですよね。私もその風情の感じたさで、ついつい足を運んでしまいます。今では買い物や食事処として活用されているイメージですが、元々は何を保管するための倉庫だったのでしょうか。歴史を遡ってみましょう!

ペリーさん来たよ。横浜改革せねば。

1853年、ペリーさんの来航で開港することになった横浜は、近代的な港湾の整備が必要でした。当時の横浜村は人口が500人ほどしかおらず、もちろん船が着くための岸壁すらありませんでした。そこで日本政府は、2期に渡って本格的な横浜大改革を進めました。

第1期横浜改革『大さん橋の起源』

1894年に第1期築港工事が行われました。今の大さん橋の前身である鉄さん橋の建設です。多くの貨物を上げ下ろしするふ頭や岸壁を整備し、増え続ける貨物の荷役需要にこたえることができるようになりました。

鉄さん橋は関東大震災の被害などから大改修され、今の大さん橋が着工することになります。現在は24時間誰でも訪れることができ、横浜港を象徴する観光スポットになっています。横浜を360度見渡せることができるので、いつもとは違う角度から横浜の景色を眺めることができます。初めて大さん橋を訪れた時、景色の壮大さに感銘を受けたことを今でも覚えています。


この鉄さん橋の竣工で海外からの船が盛んに来航するようになると、海外貿易は急発展していきます。しかし、鉄さん橋だけではすぐに対応しきれませんでした。

第2期横浜改革『赤れんが倉庫現る』

第2期工事として上屋、倉庫、起重機、鉄道などを備えた日本初の近代的な港湾施設が造られました。そしてこのタイミングで、赤レンガ倉庫が造られます。海外から運ばれてきた輸入手続きが完了していない物資を一時的に保管する、保税倉庫の用途で造られました。当初は横浜税関新港埠頭倉庫という名称で呼ばれていたそうです。

横浜港に向かって右手が1号倉庫、広場を挟んで左手が2号倉庫です。1911年に2号倉庫が竣工され、1号倉庫は1913年に竣工されました。何故、先に完成した方が2号倉庫と呼ばれているのかというと、完成した順番ではなく港に近い方から1号、2号と呼ぶのが一般的だったためだそうです。

参考ホームページ:横浜赤レンガ倉庫|横浜の観光、イベント、文化や歴史を ...

スペシャリストな設計者

設計者は妻木頼黄 (つまき よりなか)さん。この方、旧横浜正金銀行の設計や、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わっています。え。すごい。彼の夢は国会議事堂の設計だったそう。この夢は叶わずしも、赤レンガ倉庫で革新的な設計を施しました。

参考ホームページ:妻木頼黄

完成した赤れんが倉庫は、日本初の荷物用エレベーターや消火水栓(スプリンクラー)、防火扉などを備えた最新鋭の造りでした。また、耐震のために定聯鉄構法(ていれんてつこうほう)というレンガの間に鉄材を埋め込み、耐震強度を高める手法が採られました。この補強が施されたことで、1923年に発生した関東大震災では、被害が1号倉庫の30%にとどまりました。

レンガはすべて国産品で、2号倉庫だけで318万個近く使用されたといいます。ちなみに、竣工当時の総工事費用は1,000,000円。これは、金の延べ棒約60本分に相当するそうです。

1号倉庫の完成により、新港ふ頭の入稿船舶数とトン数が5年前に比べて3倍以上に伸び、赤レンガ倉庫は物流の重要拠点として活躍しました。

関東大震災による被害

1923年9月1日に発生した関東大震災で、赤レンガ倉庫は壊滅的な被害を受けました。2号倉庫は耐震構造により倒壊を免れましたが、1号倉庫は中央部分が崩れ落ち、大きな被害を受けました。

参考ホームページ:HISTORY 横浜赤レンガ倉庫の歴史、被災した赤レンガ倉庫(横浜都市発展記念館蔵)

修復工事

関東大震災で被災した1号倉庫は、ほぼ半分の大きさに縮小されました。1号倉庫と2号倉庫の大きさの違いは、関東大震災の被害によるものだったんですね。そして、内側に鉄筋コンクリートの補強壁が取り付けられ、2号倉庫も耐震性も高めるためにクレーンが撤去されるなど、改修工事が行われました。

第二次世界大戦

第二次世界大戦が始まると、海外との貿易は途絶え、赤レンガ倉庫は戦争中の軍事物資の補給基地になりました。終戦後は、横浜都心部の多くの施設とともにGHQに強制的に取り上げられてしまいます。そして、アメリカ軍の港湾司令部として使用されることになり、事務所や食堂が置かれ、港湾倉庫としての機能はここで終わってしまうのです。

1956年、約10年間続いた接収が終了し、1号倉庫は税関倉庫、2号倉庫は公共の上屋となりました。ここから海外との取引が再び始まります。

コンテナ革命

1970年以降、海上輸送のコンテナ化が急速に進みました。コンテナの導入で安全で安定した高効率な輸送が可能になったため、荷役コスト人件費が大いに削減されました。

それにより、1976年には取扱貨物量が激減します。そして、赤レンガ倉庫は倉庫としての役割が低下し、用途廃止や建物の解体も想定されることになりました。

しかし、横浜市の都市再生計画において赤レンガ倉庫の保存が検討され始め、倉庫の命を取り止めることができたのです。当時、保存を検討する声がなければ、今の赤レンガ倉庫の姿はなかったかもしれませんね。

ちなみに、人件費削減によって増加した失業者は、沖中仕(おきなかせ)として働く人々でした。沖中仕とは、船から陸への荷揚げ荷下ろしを行う人たちのことです。コンテナの導入は、当時の日本に大きな影響があったみたいですよ。このコンテナ革命についてはまた詳しく他の記事でまとめたいと思います!

倉庫引退

赤レンガ倉庫の取扱貨物量はその後も減り続けました。1989年、倉庫としての用途が廃止され、80年の歴史に幕をおろすことになります。1992年、横浜市は国との交渉の末、赤レンガ倉庫の土地と建物を取得し、保存に向けて邁進しました。1994年から8年にわたって、本格的な改修工事が行われ、復元、落書きの除去、構造の補強などが行われました。

参考ホームページ:HISTORY 横浜赤レンガ倉庫の歴史

今の美しい姿からは一切想像できないですよね。びっくりしました。

蘇る

2002年4月12日、赤レンガ倉庫は蘇ります。1号館はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどの商業施設として生まれ変わりました。

歴史に触れる

館内の至るところに赤レンガ倉庫の歴史に触れられるスポットがあるのをご存知ですか?館内には歴史年表や、使用されていたレンガ、瓦や、エレベーターなどの展示などがあり、かつて倉庫だった面影が数々見られます。

普段何気なく見ている赤レンガ倉庫も、よく見てみると何か面白い発見があるかもしれません。赤レンガ倉庫は今年で、2号館創設110周年を迎えます!館内には赤レンガ倉庫の110の楽しみ方など、周年にちなんだ情報も散りばめられていました。

横浜赤レンガ倉庫が愛される理由

いかがでしたでしょうか。横浜赤れんが倉庫は、横浜開港をきっかけに保税倉庫のために造られました。そこから関東大震災や第二次世界大戦を乗り越え、幾度の修復作業があったことで、現在の美しい姿があるのです。

赤レンガ倉庫はなぜ愛されるのか
。それは、創業当時からの風格レトロでモダンな雰囲気を多くの人が守り続け、今日に残し続けたからではないでしょうか。この雰囲気を求めて、不思議と足を運びたくなってしまう。それは昔からの、人々の赤レンガ倉庫を守り続けるバトンが受け継がれてきたからと言えるでしょう。

今回は、ここまで!
第2回は赤レンガ倉庫の魅力的なイベントについてアップする予定です。実際に、今季の赤レンガ倉庫をまわってみた感想も書いています。次回も是非チェックして下さいネ♪

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