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トーマス・ジェファーソン 理想と矛盾の建国者


革命の申し子 ヴァージニアに生まれる

1743年4月13日、ヴァージニア州のプランテーションに、一人の男の子が生まれた。名はトーマス・ジェファーソン。このとき、誰もが「この子が未来のアメリカを形作る」と予感したわけではない。いや、むしろ「この子はきっと立派な地主になるだろう」と思われていた。何せ、父は裕福な農園主であり、母は名門家系出身。ジェファーソンは、生まれながらにして、ヴァージニアの上流社会にどっぷり浸かる運命にあったのだ。

だが、ジェファーソンはただの地主の息子では終わらなかった。彼の頭脳は鋭く、心は広く、そして何よりも彼は「知ること」に貪欲だった。幼い頃から本が好きで、書物の中にある無限の世界へと旅立っていった。彼の家には膨大な蔵書があり、父親は「農場の管理を学べ」と言ったが、ジェファーソンは「いや、それよりプラトンを読ませてくれ」と言ったに違いない。

やがて彼はウィリアム・アンド・メアリー大学に進学する。そこで彼の知性はさらに研ぎ澄まされ、古典哲学、法律、科学、建築、音楽に至るまで幅広い分野を学んだ。特に影響を受けたのが、イギリスの哲学者ジョン・ロックやフランスの啓蒙思想家たちだった。「政府は市民のためにある」「人は自由で平等であるべきだ」——これらの思想は、後に彼が歴史を変える武器となる。

大学を卒業したジェファーソンは法律家として成功し、ヴァージニアの政界に足を踏み入れる。そして、このころ彼の心の奥底で、ある思いが膨らんでいった。

「イギリスの支配は本当に正しいのか?」

1770年代、アメリカ植民地はイギリスとの対立を深めていた。重税、貿易の規制、国王の横暴——ジェファーソンは、これらの問題を前にして、じっとしているような男ではなかった。彼は言葉の力で戦うことを決意する。そして、歴史に名を刻む「独立宣言」の舞台へと歩を進めていくのである。

生まれたときから「革命家」だったわけではない。しかし、ヴァージニアの広大な大地の上で育まれた知性と情熱が、ジェファーソンを革命の申し子へと変えていった。

独立宣言 ペン一本で帝国を揺るがす

1776年6月、フィラデルフィアの蒸し暑い空気の中、第二次大陸会議が開かれていた。植民地の代表たちは、今まさに歴史の転換点に立たされていた。イギリス国王ジョージ3世の支配を受け入れるのか、それとも独立への道を進むのか——その決断が迫られていたのだ。

当然ながら意見は割れた。「イギリスとの関係を修復すべきだ」と主張する者もいれば、「もう我慢ならん!戦争だ!」と拳を振り上げる者もいた。そんな中、ひとりの男が静かに席に着き、羽根ペンを手に取った。トーマス・ジェファーソン、その人である。

ジェファーソンは剣ではなく、ペンを武器に戦う男だった。派手な演説をぶつけるタイプではない。彼の戦場は紙の上だった。ジョン・アダムズやベンジャミン・フランクリンらとともに、独立宣言の起草を任された彼は、歴史に残る文章を書き上げることになる。

「We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal...(我々は次のことを自明の真理と信じる。すべての人間は平等に造られている)」

——この一文が書かれた瞬間、帝国は揺らぎ始めた。

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